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第1話 砂を噛むような日常

 1.  24時の勝利、1分の虚無


 深夜零時過ぎ。  

 大手総合商社・東都物産のオフィスビルを抜けると、冬を予感させる乾いた夜風が、熱を持った頬を叩いた。

「……終わった、のかな」

 独り言が、街灯の光に白く滲んで消える。  

 数ヶ月に及んだ東南アジアのインフラ輸出プロジェクト。

 その最終プロポーザルをサーバーにアップした瞬間、達成感よりも先に、胃の奥にジャリジャリとした砂を噛むような疲労が広がった。


 三十五歳。  

 有名大学を卒業し、同期の男性たちに負けじと食らいついてきた。  

 プロジェクトマネージャー一歩手前。  

 けれど、その代償に失ったものは、手元のスマホを見れば一目瞭然だった。

 母からのメールが届いていた。

「真琴、お疲れ様。健太(弟)のところの赤ちゃん、歩き始めたのよ。動画送るわね。……そういえば、佐伯さんとは順調なの?」

 通知を指で払った。  

 歩き始めた甥っ子は、確かに可愛い。

 けれど、その動画を見るたびに、実家のリビングに漂う「お前だけが止まっている」という無言の圧力が首を絞める。


 そこへ、背後から整えられた革靴の音が近づいた。

 私の婚約者であり、生活産業部のエース、佐伯さんだ。

「まだいたのか。相変わらず要領が悪いな、真琴」

 振り返ると、疲れ一つ見せない端正な顔立ちの佐伯さんが立っていた。

「……佐伯さん。お疲れ様です。資料、さっき提出しました」

「ああ、お疲れ。でも、その顔はなんだ。せっかくの美人が台無しだよ」

 彼は私の肩に手を置いた。

 かつては温かいと感じたその掌が、今はひどく重く、冷たい。

「明日は結納の打ち合わせで、僕の両親と会うんだ。少しはマシな顔を作っておいてくれ。君はもう『選ばれる側』なんだ。僕の妻として、恥ずかしくない振る舞いをしてくれればそれでいい」

「……仕事に穴を空けるつもりはありません」

「キャリア、キャリアって、この歳でそんなにムキになってどうする。商社マンなんて、男の仕事だよ。君はそろそろ、もっと『楽な場所』に降りてくるべきだ。僕がそれを用意してあげると言っているんだから」

 彼は微笑んでいる。  

 善意100%の、救済の笑み。  

 それが一番、私のプライドを逆撫ですることに、彼は一生気づかないのだろう。


 2.  幸せという名の檻


 週末。

 実家の食卓には、刺さるような「幸福」の匂いが満ちていた。  

 出汁の香る煮物、炊きたてのご飯。  

 元銀行員の父は、食卓の正座を崩さず、威厳を保ったまま私に視線を向けた。

「真琴、佐伯君とのことは順調なんだな? 彼のような男なら、お前を預けても安心だ。銀行員時代、彼のようなタイプは必ず出世すると見ていた。男は外で戦い、女はそれを支える。それが一番の安定だ」

「……ええ。彼、仕事もできるし、尊敬しているわ」

 嘘ではない。

 けれど、言葉が上滑りして、喉に刺さる。  

 母が、そっと小皿を差し出してきた。

「真琴、あんまり仕事に根を詰めちゃダメよ。結婚したら、少しは落ち着いた部署に移れるんでしょ? あなたの体も心配だし、何より……健太のところみたいに、早くあなたの子も見たいもの。一人でバリバリやるのもいいけれど、やっぱり女性の本当の幸せは、誰かを支えることにあると思うのよ」

「姉貴、今の時代、仕事も大事だけどさ。でも、やっぱり家族が一番だよ。ほら、見てよこいつ、最近俺の顔を見ると笑うんだぜ」

 三歳年下の弟が、屈託のない笑顔で子供をあやす。  

 彼らには、欠片ほどの悪意もない。  

 むしろ、心から私の「幸せ」を願っている。  

 それが分かっているから、私は笑って頷くしかない。

「……分かってる。ちゃんと、考えてるわ」

 実家の煮物は、世界で一番美味しいはずなのに、今は砂を噛んでいるような味がした。  

 私の人生は、いつから「誰かを安心させるためのタスク」になったのだろう。  

 有名大学、総合商社、ハイスペックな婚約者。  

 すべてのチェックボックスを埋めたはずなのに、心には砂嵐が吹き荒れている。


 三十五歳。  

 会社では「女のくせに」と揶揄され、家では「女なのに」と急かされる。  

 どこにも、私自身の居場所なんて、最初からなかったのかもしれない。

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