第三話 ―死者の声と夜の契約―
迷宮から戻った夜。
少年は眠れなかった。
窓の外には月。
街は静かで、風の音だけが聞こえる。
だが少年の耳には、別の音があった。
――カチ、カチ、カチ。
骨が擦れるような、小さな音。
気のせいではない。
呼べば来る。
呼ばなければ来ない。
それだけの違いだ。
少年は手を見つめる。
昼間、骸骨の兵士を呼び出した手。
怖くはない。
だが、軽くもない。
「……起きてるの?」
扉の向こうから母の声。
「うん」
静かに開く。
白い法衣ではなく、薄い寝間着の母は、どこにでもいる母親に見えた。
「初めて呼んだものね」
「……うん」
母は隣に座る。
「嫌じゃなかった?」
「嫌じゃない。でも、嬉しくもない」
「それでいいのよ」
母は微笑む。
「力ってね、好きになりすぎると歪むの」
「歪む?」
「頼りすぎても、嫌いすぎても駄目。
“そこにある”って思えるのが一番強いの」
少年は少し考える。
「……道みたいに?」
「ええ。あなたにとっては、きっとそう」
⸻
翌日。
冒険者ギルド。
酒と鉄と汗の匂い。
怒鳴り声と笑い声。
子供が来る場所ではない。
だが少年は、父と並んで立っていた。
掲示板に貼られた依頼書の一枚を、父が剥がす。
【迷宮三層 遺体回収】
「今日はこれだ」
「……死体?」
少年は言葉を選ぶ。
「冒険者が戻らなかった。
家族が、せめて墓に入れてやりたいと」
父の声は変わらない。
だが軽くもない。
「嫌なら帰れ」
「嫌じゃない」
嘘ではない。
ただ、まだ分からない。
⸻
三層は、空気が重かった。
湿気。
腐敗。
魔力。
少年の視界に線が浮かぶ。
だが今日は、線の色が鈍い。
目的地は一つ。
壁際の小部屋。
扉は半分壊れていた。
中には、倒れたままの冒険者。
鎧は裂け、剣は折れている。
母が目を閉じ、祈りを捧げる。
父は静かに周囲を警戒する。
少年は、動けなかった。
視界の端に、別の“線”が見えたからだ。
倒れた身体と、まだ繋がっている糸。
薄く、弱く、消えかけている。
「……まだ、いる」
少年は呟く。
「何がだ?」
父が問う。
「この人の……声」
部屋の空気が冷える。
少年は膝をつく。
手を伸ばす。
呼ぶつもりはなかった。
だが“向こう”が応えた。
黒い霧が溢れる。
骨ではない。
骸ではない。
半透明の影。
人の形をした、揺れる存在。
母が息を呑む。
「……ゴースト」
影は少年を見る。
敵意はない。
悲しみもない。
ただ、帰れないだけ。
「……帰りたい?」
言葉に出した瞬間、糸が光る。
影は小さく頷いた気がした。
少年は理解する。
縛ることもできる。
使うこともできる。
だが――
今日は違う。
手を軽く振る。
糸がほどけ、光が消える。
影は静かに溶けた。
母の祈りが終わる。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉かは、分からない。
⸻
遺体を運び出す。
少年のアイテムボックスに、重さはない。
だが意味は軽くない。
迷宮の外へ出る頃には、夕日が沈みかけていた。
父が言う。
「お前なら、使えた」
「うん」
「使わなかった」
「……うん」
父はそれ以上何も言わない。
⸻
夜。
少年は一人、庭に立つ。
月明かり。
静寂。
手を上げる。
黒い円が広がる。
現れたのは、昨日の骸骨兵士。
昼とは違う。
月の下では、動きが滑らかだった。
「……昼は弱い」
理解する。
太陽は、彼らを削る。
夜は、満ちる。
骸骨は少年を見て、剣を胸に当てた。
敬礼のような仕草。
「……守って」
命令ではない。
お願いでもない。
ただの言葉。
骸骨は静かに頷いた。
少年は知る。
この力は、縛るものではない。
導くものだ。
昼は道を視て、
夜は死者を導く。
戦わない。
だが逃げない。
少年の足元に、また一本の線が浮かぶ。
今度は、迷宮ではない。
遠く――
城壁の方へ続いていた。




