第二十三話 ―死角の捕食者、因果の破綻―
半蔵は『牡羊亭』を後にすると、香油と金貨の匂いが残る貴族街を悠然と歩き、やがて喧騒に満ちた冒険者街を横切った。
だが歩幅はいつしか速まり、人の気配が途絶える。湿った石畳、腐臭を孕んだ風、灯りの届かぬ影。辿り着いたのは、迷宮国家サウスベイの膿が沈殿するスラム最深部だった。
「……妙だ。誘っているのか?」
追跡する二人のS級護衛――カインとルークは、一定の距離を保ちながら影の背を追う。だがカインは足を止めた。違和感が、喉奥に棘のように引っかかる。
標的の歩き方が、あまりにも素人だった。
重心はぶれ、足音は無遠慮に響き、背後は無防備に開け放たれている。それは隠密の歩法ですらなく、ただの『捕食者』が獲物を探して漫ろ歩く姿だった。
「まるで……殺してくれと言っているような歩き方だ。だが、それが逆に気味が悪い。ルーク、どう思う」
返事がない。
横を向いたカインの視界に映ったのは――
「あれ? 来ないんですか。……待ちくたびれましたよ」
追っていたはずの半蔵が、いつの間にかルークと肩を並べて歩いていた。
数百メートル先にいた男が、物理的な移動という過程を飛ばし、距離という概念ごと消している。
「なっ……!?」
カインは即座に権能《未来予知》を強制起動させた。
十秒先の未来。脳内に無数の分岐が蜘蛛の巣のように広がる。だが、その先端にぶら下がっているのは――
(死、死、死……腕、足、首……! 助かる未来が、ひとつもない!)
どの糸を辿っても、結末は無慈悲な絶望へと収束していく。
「ルーク!! 本気を出せ! 出さないと三秒後に死ぬぞ!!」
叫びと同時に、半蔵の手が閃いた。
回避したはずのルークの右腕が、肩口から静かに消え、次の瞬間には地面を転がっていた。
「ぐああああッ!!」
ルークは絶叫しながらも、生存本能で権能を絞り出す。
「《七転び八起き》――!」
空気が激しく巻き戻る。
血が宙を逆流し、肉と骨が吸い寄せられるように接合される。失われた腕は、何事もなかったかのように肩へと戻った。
だが、再生した腕を握るルークの指先は小刻みに震えている。痛みではなく、「切断された瞬間すら視認できなかった」事実への恐怖に、魂が凍りついていた。
「……ほう?」
半蔵は手を止め、愉快そうに目を細める。闇の中で、瞳だけが異様な光を帯びていた。
「治癒ではない。詠唱も予兆もない……世界の結果だけを強引に塗り替えた。実に興味深い」
返り血すら浴びていない襟元を整える仕草は、どこまでも優雅だった。
「最近は退屈していたのです。この世界の理が、あまりにも脆くて。……いい。少しだけ愉しめそうだ」
再びカインの脳を未来が灼く。だが今度は、分岐そのものが磨り潰されていく光景だった。
半蔵が一歩踏み込むたび、蜘蛛の糸が一本、また一本と断ち切られていく。
「来るぞ! ルーク、防げ! 防ぎ続けろ!!」
半蔵の姿が掻き消えた。
カインの視界で、自分の首が宙を舞う未来が映る。
「キャンセル!」
次の瞬間、心臓を貫かれる未来。
「キャンセル……ッ!!」
一秒の間に幾度も訪れる死。そのたびに因果がねじ曲がり、現実が強引に上書きされる。過負荷でカインの目からは鮮血が滴り、脳を焼くような激痛が走る。
最強の矛と、執念の盾。だが、半蔵の口元はますます残虐な愉悦に歪んでいく。
「その奇跡。回数か、代償か……あるいは貴方の精神が先に砕けるか。ゆっくり楽しみましょう」
足元の影が膨れ上がる。路地の壁も床も、頭上の空までもが、絶対的な「黒」に侵食されていく。
「さあ見せてください。運命という名の薄氷が、いつまで私の重みに耐えられるのか」
カインの未来視に映る糸が、ついに一本も残らず断ち切られた。
視えるのはもはや数秒先の出来事ではない。深淵よりも深い、終わりのない夜だけだった。




