第二十二話 ―影の継承、死神の残響―
迷宮二階層、行き止まりの袋小路。
湿り気を帯びた空気が肺の奥に絡みつき、迷宮そのものが静かに呼吸を繰り返しているようだった。
新たに暗殺者リーダーの肉体を得た半蔵は、慣らすように指を動かし、袖で返り血を一度だけ拭う。
その動作は、まるで汚れた道具を検分する職人のように無機質だった。
彼は懐から、古びた琥珀色の細い巻物を抜き出し、指先で弾く。
紙片は意志を持つ生き物のように解け、彼の首元へしなやかに絡みついた。
半蔵が印を結び、深淵から響くような声で低く呟く。
「イシュタ・ラ・ズィー、ハブ・アル・サラーブ――『正装着衣』」
術式が青白く脈打ち、空間を歪ませた。
返り血に汚れた野卑な衣服は、役目を終えた蛇の皮のごとく砂となって崩れ落ちる。代わって、漆黒の正装が内側から滲み出すように形を成していく。
乱れた髪は撫でつけたように整い、宙を舞う紙片は裏地へと吸い込まれ、跡形もなく消え去った。
そこに立っていたのは、一分の隙も見当たらない、冷徹な貴族の使者だった。
足元には九体の死体。
そして、先ほどまで“着られていた”元の男が、抜け殻のように床を這っている。
男の瞳からは焦点が失われ、ただガチガチと歯が触れ合う乾いた音だけが、この場に残された唯一の現実感だった。
半蔵の指が、わずかに空を裂く。
床の暗がりがどろりと滲み、五つの人型へと立ち上がった。
それは音もなく滑るように動き、物言わぬ死体たちの口内へと潜り込む。
――ガクンッ。
骨が空を噛む、不快な音が響く。
死体たちが、糸を逆に引かれた人形のように跳ね起きた。
五体は不自然な角度で首を傾げ、意思を失った瞳のまま、残りの四体を無造作に担ぎ上げた。その動きは、生前よりもはるかに洗練され、無駄がない。
「……あ、……ッ」
“脱がれた男”の喉が引き攣る。
侵食された記憶の残滓への嫌悪。理外の術理への圧倒的な畏怖。
自分が「暗殺者」を名乗って粋がっていた昨日が、あまりにも薄っぺらで、紙のように軽く思えた。
だが、絶望の底で別の熱が灯る。
それは忠誠などという高潔なものではなく、神を覗き見た盗人めいた、歪な憧憬。
「これらを引き渡せ。その後は……好きにしろ」
温度のない命令が、男の鼓膜を震わせる。
男はよろよろと立ち上がる。膝は生まれたての小鹿のように震えているのに、歩みは止まらない。
ノアたちが待つ方角へ進みながら、男は去りゆく半蔵の背中に差す「影」の動きを、必死に網膜に焼き付けようとしていた。
(……終えたら、好きにしていい、か)
ならば。あの影の端に触れられるなら、自分は地獄からでも這い戻ってこよう。
半蔵は一度も振り返ることなく、闇の粒子に溶けるようにその姿を消した。
⸻
半刻後。
王都の喧騒を離れた高級宿『牡羊亭』の前に、整った装いの男が立つ。半蔵である。
雨上がりの石畳が月光を弾き、夜風には香油と上質な酒の匂いが混ざり合っていた。
半蔵は重厚な黒檀の扉を、一定の拍子で三度叩く。
「……何のようだ」
扉の向こうから、警戒の籠もった声。
「旦那の好物の野兎を絞めました。丸焼きで?」
一拍の沈黙。
幾重にもかけられた鍵が外れる、重苦しい音が響く。
「……入れ」
扉が開いた瞬間、半蔵の視線は猛禽のごとく室内を舐めた。
床の軋みの位置、窓枠の癖、家具の配置から生じる死角。
護衛の重心のかけ方、靴底の摩耗具合、そして肺の動きから読み取る呼吸の深さ。
わずか三拍。彼にとって、その部屋はすでに丸裸も同然だった。
正面にはソファに深く沈み込むロドリゲス公爵。
脇には鋼の気配を纏ったS級護衛が二人。
部屋を彩る甘い香木の匂いに、隠しきれないわずかな鉄の気配が混じっている。
(――なるほど、荒事は不要か)
「王子は殺害。目撃者たる冒険者も処理済みです」
起伏のない声。
それは嘘でも真実でもなく、ただ「依頼主が欲しがっている響き」そのものだった。
公爵は指輪の嵌まった指で机をトントンと叩き、満足げに鼻を鳴らす。
「……そうか。手間をかけさせたな。次はすぐ用意する、今日は下がれ」
「は」
完璧な角度の礼。
半蔵が部屋を去り、扉が閉じられると、室内の温度が一段冷えたように感じられた。
公爵の細い目が、さらに険しくなる。
「……完璧すぎる。あの男は、もっと血の匂いに鼻を鳴らすような、下卑た獣だったはずだ」
公爵の二本の指が、密やかに動く。
「追え。人目のない場所で始末しろ。……手加減は無用だ、本気で殺せ」
二人の護衛が、即座に音なき刺客へと変貌する。
高級な絨毯が彼らの足音を無残に飲み込み、部屋には重苦しい沈黙だけが残った。
薄暗い廊下を歩く半蔵の背に、二つの殺意が重なる。
彼らはまだ、理解していない。
自分たちが追っているのが、単なる裏切り者の獲物などではなく、触れれば引きずり込まれる「奈落そのもの」であるということを。




