第一話―神の階段―
ダンジョンの空気は、いつも少しだけ温かい。
湿った土の匂いと、遠くで滴る水音。
石壁に埋め込まれた魔石灯が、青白く脈打つたびに影が揺れる。
少年はその背中で揺られていた。
「重くなったな」
低く、くぐもった声。
巨大な盾を背負い、そのさらに上に少年を背負っている男は、まるで歩く城壁のようだった。
「まだ軽いよ。父さん」
少年は笑う。
慣れているのだ。この高さも、揺れも、迷宮の匂いも。
普通の子供は十歳になるまでダンジョンに入らない。
だが彼は、生まれてから何度もここへ来ていた。
父の背中で。
父の二つ名は《鉄壁》。
この国で知らぬ者はいない盾役の英雄だった。
その後ろを歩く女性は、年齢不詳の美貌を持つ。
白い法衣が迷宮の薄闇でも淡く輝いて見えた。
「今日は浅層だけよ。儀式前なんだから」
「分かってる。散歩だ」
母の二つ名は《不死身》。
どんな傷も癒す聖女であり、そして歳を取らない。
少年にとっては、ただの母親だった。
さらに後方には、二振りの刀を肩に担ぐ大男と、気配すら感じさせない黒装束の影がいる。
「坊主、今日は何が見える?」
大男が笑う。
「……まだ、何も」
少年は首を振る。
だが心の奥では、いつも感じているものがあった。
――道。
見えない糸のような感覚。
右へ行けば安全、左へ行けば危険。
階段の位置、罠の気配、行き止まりの空気。
誰にも言ったことはない。
言葉にできなかったからだ。
自分にだけある、当たり前の感覚だと思っていた。
その日も、少年は父の背で自然と口にする。
「……次、右」
父は無言で右へ曲がる。
三歩進んだ先で、左の通路の天井が崩落した。
轟音と粉塵が迷宮を満たす。
誰も驚かない。
ただ、大男だけが笑う。
「やっぱりな」
黒装束の影は何も言わないが、少年を見る目がわずかに細くなった。
母だけが、優しく頭を撫でる。
「大丈夫。あなただけの感覚よ」
それが何なのか、少年はまだ知らない。
⸻
十歳の誕生日。
街の中心にある大聖堂には、同い年の子供たちが集められていた。
年に一度の「神授の儀」。
神から加護を授かる日。
剣士、魔導師、騎士、商人、職人――
子供たちは皆、自分の未来に胸を膨らませている。
少年は静かだった。
「緊張してる?」
母が微笑む。
「ちょっとだけ」
父は無言で肩に手を置く。
それだけで心が落ち着く。
順番が来る。
神像の前に立ち、手を合わせる。
祈りの言葉は短い。
光が降りた。
眩しさの中で、少年は“音”を聞いた。
――カチリ。
何かが繋がる音。
暗闇の中に、無数の線が浮かび上がる。
階段。通路。扉。
見えない地図が世界に重なる。
同時に、頭の奥へ情報が流れ込んだ。
【職業:ポーター】
ざわめきが広がる。
不遇職。
荷物持ち。
戦闘補正ゼロ。
周囲の子供たちが安堵と優越の混じった視線を向ける。
だが、光は消えなかった。
【固有技能:ナビゲート】
線が鮮明になる。
最短距離。安全率。隠し階段。
【固有技能:鑑定】
世界に数値が重なる。
【固有技能:アイテムボックス】
空間が開く。
【固有技能:テイム】
心と心を結ぶ糸。
【固有技能:召喚】
記憶の奥から誰かが振り向く。
最後に、深い深い井戸のような感覚が胸に広がる。
底が見えない。
魔力。
無限にも思える容量が、静かにそこにあった。
光が消える。
聖堂は静まり返っていた。
「……ポーター、です」
神官が戸惑いながら告げる。
周囲は失笑しかけ――止まる。
父が一歩前に出たからだ。
母が静かに微笑んだからだ。
双刀の男が豪快に笑ったからだ。
影が、少年の背後に立ったからだ。
少年は、自分の足元に薄く光る一本の線を見る。
聖堂の出口へ続く道。
そして、その先。
街を抜け、国を越え、地の底へ続く、無数の分岐。
彼だけに見える、世界の航路。
少年はまだ知らない。
この能力が、国家を動かし、戦争を止め、神すら導くことを。
ただ一つだけ分かった。
自分は、前に立つ者ではない。
――導く者なのだ。




