4 奇妙な契約
「いきなりなんだけど、君、身請けが決まってね」
泣き濡れた夜を何度か乗り越え、娼婦として働き始める約束の日、意を決して娼館にやって来たジーナは、雇用主であるはずの娼館の店主ナッシルと会うや否や、開口一番そう言われた。
身請けとは、客が娼婦を店から引き上げて結婚したり、愛人として囲ったりすることだ。
娼婦になるべく来たのにそれをすっ飛ばして店を卒業してしまうのは、かなり拍子抜けではあったが、大勢の客を相手にするよりはマシかと気持ちを切り替え、ジーナは身請け人の到着を待った。
ジーナは身請け前に、『仕込みをされるのでは?』と警戒もしたが、男娼上がり風の気だるい雰囲気を纏う年齢不詳気味の店主ナッシルは、ジーナがいる応接室のテーブルに契約書らしき書類を並べて面会の準備を始めたのみで、えっちなことをしそうな感じはなかった。
男はすぐに来た。隊服を着ていなかったので勤務中ではなかったようだが、相手は、夢にまで出てジーナの目蓋を腫らしている原因にもなっていた、最愛の幼馴染カイン・ブラッドレイだった。
「カイン、なんで……」
「ジーナが好きだから」
愛の告白を受けて固まるジーナに対し、カインは照れているのかやや顔を赤らめつつも、まっすぐにジーナを見ていた。その瞳からは愛情と、覚悟のようなものも感じられる。
ジーナは、「好き」と初めて言ってくれたカインの言葉に感動して、涙が出そうになっていた。
好きだったのならどうして誘いに乗ってくれなかったのかとか、カインのこれまでの言動に色々とツッコミ所はありつつも、ジーナは、娼婦確定路線からのカインの嫁コース確定だと思った。
ジーナは愛する人と結婚できるのだと思ったが、しかし、全員が席に着いたのちに渡された契約書の名前を見て、愕然とした。
「専属娼婦契約書……」
(娼婦? 結局娼婦なの? 結婚相手でも恋人でもなくて、カインは私に性の奉仕をする娼婦の役目だけを求めてるの?)
そう思い至り、「結婚でも婚約でもないんだ……」と呟いたジーナがポロポロと涙をこぼし始めると、それを見たカインが慌てて口を開いた。
「いやっ、あのっ…… お、俺は、ジーナさえよければ…… けっ、けけけけ結婚を前提にお付き合いをしたいと思っているけど、ま、まずは…… 専属娼婦からでお願いします!」
そこは、「まずはお友達」とか「幼馴染関係の再構築」とかからじゃないの? と、ジーナは訳がわからなくなった。
契約書の種類の衝撃に次ぐ、カインの「専属娼婦」発言の衝撃で、涙も引っ込んだジーナが呆気にとられていると、娼館側としてソファの隣に座っていたナッシルが、ジーナの持つ契約書の一部を指先でトントンと指し示した。
「――カイン・ブラッドレイは、ジーナ・グレアムだけを永遠に愛し続け、他の誰とも一切の肉体関係を持たず、心の浮気も一切しないことを誓います……?」
ジーナは契約書の一文を読み上げながら、自分にとっては都合が良いが、カインにとっては不利に思える契約内容に、頭の中に疑問符を浮かべて首も傾げた。しかし、口数の少なすぎるカインは、黙ったままで何の説明もしない。
「これって、結婚誓約書みたいに見えるんだけど…… 結婚じゃだめなの?」
ジーナはカインに向き直って、改めて疑問をぶつけてみた。
「娼婦がいい。そこからじゃないと始まらない」
何がどう始まらないのか、全くわからない答えではあったが、カインの口調には悲壮な決意が滲んでいるように思えた。
小さな頃から彼を知っているジーナがわかることといえば、カインが悪い人ではないということだ。
奇妙に思える身請けの契約内容だが、何か理由があるんだろうと思ったジーナは、それ以上は何も聞かなかった。
おそらくだが、カインは一般的な結婚観とは違う考えがあるようだ。
カインがこれまでジーナを避けていた原因が、「結婚観」ですべて説明つくかはわからないが、自分と距離をとった理由の、その手がかりのようなものが、少しわかったような気もした。
「何があっても一生俺のそばから離れないでほしい」
カインが一番に強く主張したのはその点だった。ジーナはカインから離れるつもりなんてなかったし、彼女自身も一生そばにいたいと思ったから、喜んで了承した。
ジーナ側も浮気をしないことや、お互いの了承がなければ性行為も子作りもしないこと等の、細かな条件を確認し合った後に、二人は専属娼婦契約書にサインをした。
「末永くお幸せに」
身請けの契約を終えた後、結婚の祝福めいたことを言うナッシルに見送られながら、二人は馬車に乗り込み娼館を後にした。
カインに連れてこられたのは、かなり広い庭のある郊外の一軒家だった。
敷地の一部には温室や開墾された状態の畑もあって、多くの野菜や花などが育てられそうな場所だった。
近くには山があり、緑も多く見えて、カインが好きそうな自然と接点の多い場所だなと思った。
家を買ったことは、ここに来る馬車の中で聞いた。カインはジーナを身請けしようと決めた時に、たまたま広い土地付きの家が売りに出されているのを知って見に行き、一目で気に入って買ったらしい。
「勝手に決めてしまったから、ジーナが他の場所が良ければ、引っ越してもいいよ」
「私どこでも住めるから大丈夫。それにここ、カインが好きそうな良い場所よね。お金のこともあるし、引っ越せなんてわがまま言わないよ」
「何でもわがまま言いっていいよ。ジーナの人生俺が全部もらうんだから」
はにかむような綺麗すぎる笑みと共に言われたジーナは、胸が押しつぶされそうなくらいキュンキュンして、カインへの愛が自らの中で最高潮に達するのを感じた。
「し、仕事させて」
庭や温室設備や家の中を一通り案内してもらった後、さてどうするかみたいな雰囲気になったので、ジーナは仕事を申し出た。
仕事とはもちろん娼婦としての仕事だ。
ここに来る馬車の中では、ジーナの実家の借金問題についても話し合われた。カインはジーナを娼館から引き上げるために多額のお金を支払ったが、その上、実家の借金もすべて肩代わりすると言った。
ジーナは「カインに身請けされる」と浮かれていたが、よくよく考えたら、ジーナが娼館で働かないということは、借金返済の資金源がなくなるということだ。
カインとの契約上、ジーナはもうお店では働けないし、このままだと心神耗弱状態の両親の命が危ういため、ジーナはその申し出を受けることにしていた。
ただ、カインにすべてを負担させてしまうのも申し訳なく、ジーナは落ち着いたら、また新しく商売を始めるなどして少しでも返していきたいと思っている。
莫大なお金を支払わせるのだから、カインを満足させるため、ジーナは自分のすべてを捧げる必要があると思った。
一応現在、契約上は娼婦の立場にいるので、ジーナはカインとえっちなことをするのに躊躇いはなかった。というか望むところですらあった。
リビングにいた状態で後ろから抱き着くと、カインはしばらく直立不動で無反応だったが、くるっと後ろを向くと、ぎゅっとジーナを抱きしめ返してきた。
「ジーナ、愛してるよ」
「う、うん…… 私も……」
ジーナはこのまま、さっき見せてもらった枕が二つ並ぶ二人の寝室へなだれ込んでもかまわないと思った。
「ジーナ……」
カインに名前を呼ばれるだけで愛しさが湧き上がってくる。
ジーナはこれまで婚約者がいたので、カインへの気持ちを抑え込んで過ごしてきたが、その必要もなくなれば、自分の中にある愛は、カインただ一人だけに向けられているのがわかる。
顔を上げると、キスしそうな至近距離に、この世のすべての造形美を結集させたかのような美しすぎる顔があった。
真っすぐに視線を合わせて来るようになったカインに見つめられると、ジーナは心も身体も熱くなって幸せが溢れてきた。
最初で最後だと思っていた夜会でのキスは、唇を触れ合わせた程度のものだったが、カインはそれよりも大胆なキスをした。
子供の頃のカインは本当に天使のような純真無垢な少年だったが、彼も男なんだなとジーナは思った。
「カイン……」
「ジーナ……」
見つめ合う自分たちの思いは今一つになっているとジーナは感じた。しかしその思いとは裏腹に、カインは続けてこう言った。
「でもその前に、どうしても話しておきたいことがあるんだ」




