3 ラストキス
侯爵家の休憩室の扉が並ぶ廊下にやって来たジーナは、カインとセルゲイたちが入った部屋から少し距離を取り、カインが部屋から出てくるのを待った。部屋の扉は空いたままだったので中の会話は少し聞こえた。
声が出なくなっていたセルゲイは、休憩室に着いたあたりから元の通りに話せるようになっていて、従者の男に「医者の手配をしろ!」「俺は帰る!」と喚いていた。
誰かが呼んだらしく、ほどなく侯爵家に在住している医師が部屋の中へ入っていった。「異常はありませんね」と言われてセルゲイは憤慨していたが、気付け薬の類をもらい、様子を見に来た主催の侯爵が現れるなどして気分を良くしたセルゲイは、侯爵家が用意したという馬車に揺られて自宅へ帰ることになった。
職務に忠実らしいカインは、セルゲイが侯爵と語りながら部屋を出るまで彼らと一緒に休憩室の中にいて、彼らの移動と共に出てきた。
セルゲイと顔を合わせたくなかったジーナは、別の使われていない休憩室に隠れ、ドアの隙間から廊下にいる彼らの様子をうかがっていた。
(このままじゃカインに話しかけられない……)
ヤキモキしながら見ていると、廊下の向こうからカインとは違う別の銃騎士が現れた。
カインはその銃騎士と何事かを話すと、セルゲイたちの見守りを銃騎士に任せて、くるりと踵を返し、ジーナがいる方向に歩いてきた。
正面からカインを見たジーナの胸がドクン、と大きく鳴った。幼い頃も神童のように美しく、愛らしく輝いていたカインが、動くたびに色気を撒き散らしているような、魅力あふれる異性に成長して、今目の前にいる。
ジーナは本当は、『久しぶりね』と言って自分から声をかけるつもりだったのに、初めてを捧げたいと強く望む、美しすぎる初恋の少年が近付いてくる姿から目が離せず、黙ってただ彼を見ていた。
「ジーナ……」
ジーナのいる部屋の扉はほんのわずかに開いていた程度で、部屋の灯りもついていなかったから、そのまま通り過ぎてもおかしくなかったように思うが、カインはジーナの前で立ち止まると、そっと扉を開いて彼女の名前を呼んだ。
(そうよね、あなたはいつも、私がどこに隠れていても、必ず見つけた)
幼い頃に一緒にやった「かくれんぼ」では、どんなに巧妙に隠れても、カインはいつでもジーナを見つけて、その手を取ってくれた。
カインが、暗闇の中にいるジーナに気遣わしげな表情を向けながら、部屋の入り口近くの灯りのスイッチを押す様子を――ジーナは昔のことを懐かしく思い出しながら眺めていた。
カインとの大切な思い出は、いつでもジーナの胸にある。
ジーナは笑顔になった。
「見つかっちゃった。でもちょうど良かった、カインと話がしたかったから」
隠れてカインたちの様子をうかがっていたことはもうバレている。取り繕っても仕方がないので、ジーナは悪びれずにニコリと笑い、潜んでいた件を軽く流そうとした。
失職はしたがこれでも元商人なので、こちらに利があるような雰囲気作りには慣れている。
「……俺も、話したいことがある」
(カインが「俺」って言った! 昔は「僕」って言ってたのにっ! カッコイイっ!)
ジーナは笑みを浮かべながらも、カインが自身を「俺」と呼称したことに胸がキュンキュンしていた。
カインとは話をすること自体が久しぶりで、どんな風に会話をしようかと心配していた部分もあったが、大好きなカインを前にすればそんな憂いは吹き飛び、ただ、彼と同じ空間にいられる喜びを噛み締めようと思った。
「そうなんだ。何の話?」
「ええと……」
尋ねたが、目の前にいてもやはり視線は合わせてこないカインが、何だか言いにくそうにしているため、ジーナは自分の用件から先に切り出すことにした。
「うちの商会が潰れたのは知ってるわよね」
カインがこくりと頷き返す。
「それですごい借金まみれになってね。お金、返さないといけないから、私、娼婦になることに決めたの。
でも経験がなくて、このままだと娼館の店主と初めてをしないといけないから、よく知らない人と初めてをするよりは、相手はカインがいいかなって思って」
言った! 言い切った! とジーナは自分をほめたいと思った。付き合ってもいない状態で夜のお誘いをするなんて、かなり恥ずかしかったが、娼婦としての人生を踏み出す自分は、これからもっと恥ずかしい困難を乗り越えなくてはいけないはずだから、これで良いのだと思った。
「ジーナ、そんなことをしては駄目だよ。娼婦にはならないで」
なのにカインは、目は合わせてくれたものの、誘いには乗ってくれない。
セルゲイが知っていたくらいだから、カインもジーナの娼館行きは把握していたらしく、驚いている様子はあまりない。
きっとカインの話というのも、ジーナの娼館行きについてなのだろう。
ジーナは、昔セルゲイと婚約するかもと告げた時に、自分を求めてくれなかったカインの姿が自然と思い出されてしまって、胸がツキンと痛くなった。
「してくれないの?」
「……」
カインはしばし無言になった後に、口を開いた。
「他の方法を考えようよ」
子供のジーナであればフラれたことに怒って泣いたかもしれないが、あれから時も経ち、様々なこともあって、自分の気持ちをそこそこコントロールできるまでには成長した。もうヤケクソにはならないし、きちんとカインと話もできる。
「色々考えたけど、これしか方法がなかったの」
「もっといい方法があるはずだよ。俺も一緒に考えるから」
「でも、もう…… 娼館から結構な額のお金も借りてしまったし……」
ジーナは娼館店主のナッシルと「契約」を交わしていた。
商人だったジーナは、「契約」を覆すことはあってはならないと、その身に深く刻んでいる。
ジーナの中では娼婦になることは決定事項だったし、その覚悟も固めていた。その上、「娼婦が自分の天職である」くらいには自身に暗示をかけていて、「ナンバーワンになってやる!」くらいの野心も芽生えていた。
「お金なら、俺が全額払うよ」
諦めに似た、穏やかな笑みを浮かべて話していたはずのジーナは、そこで真顔になった。
銃騎士は高給取りだ。カインは銃騎士になったばかりで日も浅いが、社会的信用が高い職業なので、別の真っ当な金貸しから新たに借りられるかもしれないし、彼の兄二人は貴族女性と結婚して大金持ちにもなっているから、その兄たちから借りるという線もある。
カインに頼れば娼婦にならずに済むかもしれない。
けれどジーナはピシャリと言った。
「カインに払ってもらう義理はない。私たちは家族でも親戚でも何でもないんだから。小さい頃にたまたま近所に住んでいただけの、ただの幼馴染じゃない」
「で、でも…… ジーナ……」
突き放しつつも、ジーナは心のどこかで本当は、「じゃあ俺と結婚して家族になろうよ」とカインが言ってくれるのを期待していた。カインのお嫁さんになるのが、ジーナの子供の頃からの夢だったから。
でもやっぱり、カインは決定的なことは言わない。ジーナは泣き出しそうになるのを堪えて、カインに負担をかける案を心の中で潰すと、当初の目的を果たすことにした。
ジーナはカインに抱いてもらって、一度でも彼への思いを昇華できたらそれで良かったが、カインに肉体関係を拒まれた場合の対策も、一応考えてはいた。
「カイン」
ジーナは口ごもるカインに向かって足を踏み出し、彼との距離を詰めようとしたが、気付いたカインが慌てて後ずさる。
「逃げないで、私を見て」
ジーナの懇願にカインが足を止めた。こちらを真っ直ぐに見るカインの、色素の薄い灰色の綺麗な瞳の中に、泣きそうな自分の顔が映っていた。
ジーナは目を閉じたが、たぶんカインは、目を見開いたままだったかもしれない。
娼婦は、多数の男たちに身体は開いても、キスだけは好いた男としかしないという。
本意ではないだろうカインには悪いが、幼馴染のよしみで、ファーストキスくらいはもらっていこうと思った。
カインの隊服の胸に手を置き、背伸びをすると、温かくて柔らかい感触が唇に当たった。
ずっと待ち焦がれていた、カインに触れられる甘美な時間を受けて、ジーナの全身が幸福に包まれた。
過去も現在も未来も、ジーナの人生のすべてが、この一瞬のためにあった。ジーナは、今のこの瞬間だけは、大好きなカインと一つに繋がっていると思った。
今が人生で間違いなく最高の時間で、ジーナにとってはおそらくラストキス。
ジーナは、カインと唇を合わせたこの感触を支えに、これから先の人生を生きて行こうと思った。
「カイン、ずっと大好きだった。さよなら」
ジーナは最後にそれだけ言って、魂が抜けたように呆然としているカインから背を向けて部屋を出たが、彼は追いかけてこなかった。




