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鬼哭しぐれ  作者: 依近
4/4

第3話・黒狐

3


 刃のぶつかる、鋭く冷たい音。余韻が雨音に溶ける前に、燈矢とうやは自身が零した名前の音を聞く。


 太刀筋で分かる。そして、何より自分が、その太刀筋を受けるのに秀でたものであるということも。


「旭」


 重ねて呼びかけた名前には、郷愁と歓喜が滲んだ。痛そうに顔を歪めていた刃を交わす相手――東雲旭しののめあさひはハッと強く息を吐き、真っすぐ構えていた切っ先を震えながら下す。


「燈、矢……?」


「ああそうだ。俺は如月燈矢だ」


 金茶の瞳を真っすぐに見つめて、燈矢は刀を鞘に納めた。張りつめていた緊張を解いた旭は、フッと脱力したように床に尻をつく。背後に控えていた従者らしい少年剣士が柄に手をかけて飛び出しかけるも、それを気配で察した旭が肩越しに振り返って彼の行動を制し、少年剣士は柄から手を離して構えを解いた。


 りんが飛び込んできたのはこの直後。寝入ってしまったりんを敷いたままだった燈矢の布団に寝かせ、燭台の明かりが照らさない影の内へと移動させる。


「狐か……どうして傍に置く?」


 りんの体の上に掛けた布団をトントンと優しく叩き、部屋の中央に戻った燈矢に旭が問いかけた。


「傍に置いているというわけではないんだ。妙に懐かれていて」

「お前は気が優しいからな。昔から鳥や動物によく好かれる」


 ハハッと砕けた明るい笑い声は、昔から少しも変わっていない。燈矢は胸に灯る切ない郷愁に目を細めて薄く微笑む。燭台で揺れる橙の炎が蝋を溶かして、濃密な雫が音もなく伝う。


「稽古に来なくなって、姿を見かけることもなくなったから案じていた。まさかこのような山奥に追いやられていたとはな」


 旭は首を巡らせ室内をぐるりと見回した。畑を耕して暮らす者の家らしく、部屋の中にあるものらしものは農具の類だけ。苗床や収穫した作物を置いている関係で、土の匂いが濃く香る。


「俺が掟を破ったせいだから、仕方ないさ。情報が届きにくいことだけが不便で……先代の葬儀にも、顔を出せなかった」

「ああ……お前が姿を見せなかったことで、如月の家は絶えたものだと噂されていたぞ。特に長老殿の一派は声が大きいから……それでもお前は、単独で鬼斬りをしていたのか?」

「それが使命と染みついているから……止める動機がない」

「そうか」


 シン、と落ちる静寂に、優しい雨音が響く。いつものように、鋭い針に刺される痛みは感じない。


「旭はいつから鬼を斬っているんだ?」


 旭は金茶の瞳を上げて、薄い唇の隙間からフゥと静かに息を吐く。その瞳に、わずかに影が落ちた。


「ついこの間から――父が死んだんだ」


 旭は真っすぐ燈矢を見つめて言葉を継ぐ。


「鬼に殺された」


 重く、冷たい声音。燈矢は体の芯まで凍てつきそうな感覚にブルッと体を震わせ息を呑んだ。旭は燈矢から視線を逸らして、フッと柔らかく微笑む。


「俺は実際父の殺された現場を見ていない。けれども、家の者が言うには確からしい。それで急遽俺が家を継ぐことになって、鬼斬りの役目を拝命した」


 何も分からぬのに、と旭は自嘲気味に呟く。燈矢は再びゴクリと唾を呑みこみ、体の震えを鎮めるように小さく指先を握り込んだ。


「けど、旭は勘が弱かっただろう」


 旭は目を上げて笑う。


「俺が、ということではないさ。東雲の者は皆勘が弱い。歴代の当主は如月の守り刀であったから、勘の部分は如月に任せきりだった」

「如月は……俺の他にもう残っていないのだろう? その間はどうしていた?」


 鬼を斬るには勘がいる。それは、鬼が稀に人の姿をしているためだった。元々は人であったのに恨みや悪意によって「鬼堕ち」するものや、上手く人に化ける鬼もいる。


「俺は――銀を頼りにしている」


 旭は背後を振り返って、影の内に控える従者の少年に目線を向けた。少年――銀は、白銀の長い髪の内に隠れた青黒の目を上げて、燈矢に目礼する。


「あれは勘がいい。どんな弱い気の鬼でも見抜くんだ。父上の代までは狐の一族を頼っていたらしいが、父が亡くなった時に同時に姿を消してしまってな……銀は、その後に俺が拾った」

「拾った?」

「行き場がないと言ってな。素性は知らぬが勘がよくて腕が立つ。少々怖がりなのが玉に瑕だ」

「旭さま……!」


 まるで氷の彫刻のように澄んだ雰囲気を纏い、静かに控えていた銀が、能面のような無表情を崩して鋭い声を上げた。やや聞き取りにくい掠れ声。銀はハッとしたように固まって、真雪色の肌をじわりと赤く染め姿勢をもとに戻す。居心地が悪そうにそわそわと体を揺らす様子に、近寄りがたい印象が一気に崩れた。


「お前もこっちにきてきちんと挨拶をしたらいい。燈矢は優しいぞ」

「は……」


 銀は気まずそうに視線を逸らしたままで、燭台の光が照らす場所まで進み出た。真っ白に見えた肌には、明かりの下に出ると鼻の頭に薄っすらとそばかすが浮いている。吊り目がちの瞳の中で青みかかった黒目を左右に揺らして、視線の置き場所を探っているようだった。髪型はおよそ武士らしくはなく、長い銀髪の毛先を三つ編みに結って垂らしていたが、そうした格好も旭が許しているのだと思うと微笑ましい。


 燈矢は銀と目があった瞬間を捕まえて柔らかな笑みを向ける。


「初めまして、銀」

「は……如月殿。かの名高き如月のご当主様にお目にかかり、至極光栄にございます」

「正式に当主なわけじゃないけど」

「お前が如月を名乗るなら、当主はお前だろうよ」


 苦笑して否定する燈矢に重ねて、旭は力強く肯定する。燈矢はへらっと力の抜けた笑みを浮かべて、首を傾け頬を掻いた。


「宿命から逃げるつもりはないよ。旭の父上様が殺されたように、人に害を成す鬼がいる限りは」

「ああ、そうだな」


 返した旭の声の固さに、燈矢も表情を引き締める。目を合わせた旭の瞳に一点差す暗い影に、燈矢は胸を焼かれる思いを感じて小さく奥歯を噛んだ。彼の真っ直ぐな剣が、父を殺された憎しみに染まるのは耐えがたい。


「なあ、燈矢――共に鬼を斬らないか?」


 凛と、一本芯を通したような。燈矢の中にふと過ぎる懸念を拭い去るようにどっしりとした声音が言う。燈矢は差し出された声に体を震わせ言葉を失い、ただ息を呑んだ。


「如月が生きているとなれば、それに従うのが東雲の道理。東雲の鬼斬りも今や俺ひとりだが、如月の刃となるには十分足りる腕を持っている。もちろんこの銀も」


 旭に示された銀は、膝を立て深く首を垂れる。


「すべての鬼を狩り、鬼に脅かされることのない世を作ろう――俺たち2人で」


 すべての鬼、という言葉に引っかかりを感じる心はあった。けれども、再びこの光の隣に並び立てる機会を前にして、燈矢は揺れた。旭の剣を支えたい。彼が抱いたばかりの信念と、自身の抱く信念は異なるが――鬼に父を奪われた旭に、救うべき鬼もいるなどという善性を説いたところで届かないだろう――その確かさが、口を開く前に胸を塞いだ。


 燈矢はスゥと大きく息を吸い込んで、周囲の空気で内臓を満たす。雨音は遠く、弱々しいものに変わっていた。鬼哭が遠のいたことで、己の欲が色濃く、首をもたげる。鼓動が耳の音で荒く跳ねた。あまりに大きな音に、燈矢は一瞬顔を顰めた。


「燈矢」


 旭の呼ぶ声は、体の芯を熱く震わせる。どうしようもなく引き寄せられる。彼の望みをかなえることこそ、己の使命だとさえ思うほどに。燈矢は熱くとけるような息を吐いて、橙色の髪に指を差し入れ掻き上げた。スゥと細く吸い込む息で内側を冷やし、痛いほどに鳴る心音を意識の外に置いて無理に微笑む。


「ああ、分かった」


 目的が同じであれば、こう答えることも決して過ちではないはず。


 旭の瞳に光が揺れて、目尻が窄まり全開の笑顔が覗いた。燈矢は胸にこみ上げる痛みを感じながら、眩しい笑顔を網膜に焼き付ける。ざわついていた胸の内が少しずつ凪いでいく。この笑顔を頼りにすれば、きっと大丈夫。孤独な生活に追いやられたとき何度も思い出していた旭の笑顔が目の前にある――今は、それだけでいい。


「約束だ」


 差し出された手を握り返す。何度もまめを潰した硬い掌。ひだまりのような温度を握り返して、燈矢はホゥと緩く息を吐いた。たとえ信念を異にしていても、共に剣を握ることは許されるはず。胸をチリッとわずかに焼く罪悪感の向く先から、燈矢はこの時そっと目を逸らした。



 夜明け前に家に帰らなければないという旭と銀を、雨上がりの小径まで見送って。燈矢はりんが立てる深い寝息を慎重に聞きながら、静かに玄関戸を閉めた。念のため、万が一誰も侵入することのないよう戸に結界を張っておく。


 フゥと息をついた燈矢は、雨上がりの濃い湿気が漂う空気の中を、旭たちを見送ったのとは反対方向へ足を進めた。じっとりと雫を湛えた雑草が足元を濡らす。地表近くに溜まった水分はわずかな風に冷やされ、乳白色の靄に変わり地面を這う。


 燈矢は小道をどんどん進み、樹々の茂る林を抜けた先に到達した。わずかに開けたその土地は、剥き出しの地面に不自然な感覚を開けて大小さまざまな石が転がっているだけの異様な地。転がる石は多くが白っぽく、丸い石で、中には艶黒の御影石のようなものも点々と見られた。それだけで、これらの石がただ捨て置かれた石ではないことを告げる――ここは「鬼堕ち」した人間の墓場である。


 燈矢は一度伏せた瞼をゆっくりと上げて、石の間を縫うように歩みを進めた。けぶるように広がる靄がどんどん濃くなって、視線の高さにまで及ぶ。これは、ただの雨上がりの自然な現象ではない。分け入る不透明な靄の温度は、ヒヤリと真冬のように凍てついている。肌に降りかかる温度をジッと耐えて受け止めつつ、燈矢は敷地の奥へと進んだ。


 周囲のものがなにも見えないほど濃い霧の中。燈矢はボゥと浮き立つ影と対峙する。大きいものと、小さいもの。2つ並べられた平たい丸石の前に、ひどくやつれた青い顔の女がひとり立っていた――女は、鬼だった。


 彼女は、野党に襲われ生まれたばかりの赤ん坊と最愛の夫を殺された。長く患う中で、何としても子供が欲しいと切望してようやく腕に抱くことができた我が子。しかし生まれたばかりのその頼りない泣き声がうるさいと、通りすがりの酔った侍に問答無用で斬られたという。子を庇った夫も一太刀に葬られ、2人の血を全身に浴びた女はその場で発狂した。酔った侍の刀を奪い、2人組だった男をめった刺しにして、後に捕らえられ、恩情も得られず死罪となった。


 女は腕に薄汚れて擦り切れた産着を抱き、柔らかな布の中には小さな人骨が包まれていた。骨と皮だけになった彼女の足元には大人の頭蓋骨が彼女に寄り添うように落ちていて、その空洞の瞳は遠く、闇を見据えている。燈矢はゴクッと強く唾を呑んで、彼女の前に立った。彼女の眼は腐りかけた肉体に辛うじて余っているというような状態で、黄色く濁り、血走った眼球は今にも転がり落ちてしまいそうだった。肉が溶け、歯茎が剥き出しになった口元が微かに動き、柔らかな旋律が漏れる――彼女は、歌っていた。柔らかく風をなぞるようなその歌は、限りなく優しい子守唄だった。


 首を落とされて尚、彼女は赤ん坊に聞かせるはずだった子守唄を歌い続けたそうだ。気味悪がった役人が女の遺体を捨て置いて、ろくに供養もしなかったためか、彼女は鬼になった。


 燈矢が知る限り、鬼になった彼女はこの場所を一歩も動くことがない。そうした《地縛鬼》は見渡す中に彼女の他にも何体か見られた。彼らはただひっそりと、消えない恨みの業火を燃やしながらも、その憎しみのもととなった愛する人への想いを抱き続けている。全員が想い人を弔う石の前に立ち、首を垂れていた――まるで祈りを捧げるように。


「あなたのような哀しい鬼もいる」


 共に鬼を斬ると了承した後の今になって、旭が口にした「すべての鬼を狩る」という言葉が重く圧し掛かった。旭自身、父親を鬼に奪われたという恨みが使命へと駆り立てる一方で、一族の長老たちから「お触れ」が出たとみて間違いない。鬼の中には救うべき鬼もいる、と、鬼との「共生」を主張してきた如月の不在をいいことに、極端な使命を若い当主に課した。


 燈矢は弔石の傍に佇む鬼たちを見回して、フゥと重い溜息を吐く――たったひとりで守り切れるだろうか。哀しき鬼も、旭の真っ直ぐな剣も。


「……それでも、誰かがやらなければいけない」


 燈矢は鬼を斬ったときと同じ台詞を呟いた。白み始める東の空に、燈矢は顔を上げ、彼女の周りに守りの結界を張る。鬼斬りが旭ひとりならば、こんなところにまで手を回すことはないだろうが、念のため。


 石を巡り、佇む地縛鬼のひとりひとりに同様の守りを与えていく。気の力を消耗するので、ひとり、ひとりと守りを与えるうちに指先は震え、背中にじっとりと汗が滲んだ。最後のひとりまで来たところで、燈矢は全身に圧し掛かるような疲労を覚えて膝に手をつき深く項垂れる。


「は……はぁ……は……」


 滴る汗を手の甲でグイッと拭い、気力を振り絞って体を起こす。ふらつく足を叱咤して、湿った草を踏み分け墓地を後にした。


 東の空を溶かして昇る生まれたての朝日が、黄金の光を広げて空を白く染めていく。行く手に茂る草が纏う雫に陽光が反射してキラキラと光った。現れた空気を肺いっぱいに吸い込んで、清廉な空気に喉が詰まる感覚を覚えた燈矢は俯き小さく息を吐く。


 小屋が見えてきたところで戸に貼っていた結界を解いた。パッと弾けて風に舞う紅色の粒を見送って、燈矢は眩しく目を細める。細く戸を開き、差し込む光の線の先に健やかに眠ったままの少女の寝顔を見た。


「りん」


 まるで鈴が鳴る音のような名は、声にすると空気を転がり心地よく響く。朝の光に溶かすのにふさわしい名前だと思うのと同時に、自身にはそぐわないものだという自覚がフッと心に昏い影を落とした。


 燈矢は穏やかなりんの寝息から意識を逸らし、玄関に置いた鍬を手に畑に向かう。まるで昏い影を払うように。地を這いけぶる靄に鍬の刃を突き立てて、湿気を吸って濃く香る土を耕していく。ザクッ、ザクッと立つ音は小気味よく、体の芯と共鳴して指先をビリビリと震わせる。燈矢はこみ上げる息をハッと吐き出して、無心で鍬を振るった。


 畝を成し終えたところで鍬を止め、汗を拭って畑を出る。手洗い場で汚れを流すころには、陽はだいぶ高く上がって空は澄んだ青に染まっていた。


 疲労に疲労を重ね、酷使しすぎた重い体を引きずって小屋の中に入る。りんは未だに体を丸めて眠っていた。燈矢は穏やかな寝顔にフッと柔らかく微笑み、彼女の豊かな尻尾に添うように体を横たえた。


「ん……とーや?」


 浅い眠りの淵でまどろむうちに、目覚めたらしいりんが燈矢の顔を上から覗き込んでくる。燈矢は深緋の瞳を瞬いて、りんと視線を交わし微笑みを浮かべた。


「おはよう、りん。よく寝れた?」

「うん……うち、いつの間に寝てしもたんやろ……」


 りんは首を傾げて眉尻を下げる。三角の耳が主人の胸を現すように先を垂れ、尻尾も力なくひとつだけパタンと揺れた。


「りん、少しだけ待てる?」

「なんで?」

「今日、一緒に都へ行かないか?」

「行く!」


 ピンッとわかりやすく跳ね上がる三角耳。りんは布団を蹴って跳ね起きて、ぴょんぴょんと部屋中を飛び回った。燈矢はりんの軽い足音を聞きながら、再び瞼を閉じる。光に包まれていると、安心する。鬼哭を降らせる雲もなく、鬼が姿を現す夜も遠い。そして何より、燈矢にとっての絶対的な光――旭と再会を果たせた。


(そういえば、旭はどうして)


 燈矢の居場所を知ったのだろう。一族から隠すように追いやられ、これまで一度も誰かが接触してくることもなかったのに。眠りの底へと沈んでいく意識の中で、燈矢はぼんやり思考を巡らす。引っかかるのは、旭が連れていた少年剣士。青みがかった黒目は、どこかで見覚えがあった。


 その正体に思い至らないうちに、燈矢の意識は完全に眠りに落ちた。



 昼前に空腹を覚えて目覚めた燈矢は、どこからか果物をもいできたりんと一緒に遅い朝食をとった。りんはほかほかの湯気を立てるおにぎりも頬張っていて、いったいどこから出てきたんだと問おうとしてやめる。


 燈矢は白練色の着物を身に着け、紺色の袴を履いて支度を整える。高い位置で結った髪を菅笠の中に収めて、腰に刀を下げた。


「とーや、早う!」


 りんは開け放した戸口に立って、豊かな尻尾をブンブンと大きく振っている。


「りん、尻尾と耳しまって」

「あ」


 りんは頭に手をやり三角の耳をゴシゴシと撫でた。ポンッと軽い煙を立てて、三角耳は彼女の黒髪の頭から消える。次いで、地面をたたいた尻尾もブルッと震えて姿を消した。


「どや!」


 薄い胸を反らして得意げな顔をするりんに、燈矢はパチパチと両手を合わせて拍手を送る。


「じゃあ、いこうか」

「うん!」


 戸口から一歩外に出ると、りんは燈矢の腕に飛びつ体を寄せた。獣らしい体温に頬を緩めた燈矢は、両側に豊かな田畑が広がる小径を進む。青々と茂る木々の葉がサラサラと涼やかな音を立てた。世の中は今、激動の改変期らしい。長く続いた幕府を倒す動きが各所で大きくなり、今や水面下の動きなどとは言えなくなってきている。京都にも帝の護衛と称して帯刀した武士や浪士たちが集い、日夜小競り合いや殺しなどの騒動が絶えない――そして、そうした動乱の中でこそ、鬼は動く。


 燈矢の暮らす山奥にまで届くほどの強い気を放つ鬼だけを斬ればいい、そんな割り切りはもはや通用しない。そして、旭が語った「すべての鬼を斬る」という言葉――それが旭ひとりの信念でないことを確かめる必要があった。


 燈矢は道中あれこれと話しかけてくるりんの相手をしながら、緑が濃いけもの道を抜け、山裾にある小さな社を拝しつつ進む。小径を下っていくと徐々に人の往来が増え、都の北東に位置する北白川通に合流する。


 のどかな農村風景に徐々に町屋が混ざりはじめ、旅人風情の人や忙しく荷を運ぶ荷駄とすれ違う。山間の村には活発な人の声が行き交って、りんは金眼を輝かせて落ち着かない様子で周囲を見回していた。


 轍に残る水たまりに澄んだ青空が映る。草履や駕籠の音、豆腐売りや行商人の声がひしめいて、燈矢は疎らな人の間を縫いながら、人々の会話に耳をそばだてつつ通りを進んだ。このあたりの話題はまだ、子供の成長の話や天気の話など、和やかな話題ばかりだった。


 出町の橋を渡るといよいよ洛中に入る。雨で水かさが増した水面の上に涼やかな風が渡る。鴨川沿いに連なる茶屋や物売りの屋台にはいっそう賑やかな人の声が飛び交った。人が集まれば、うわさ話に華が咲く。


 燈矢は軒先に席を設けた茶屋を訪ねた。給仕の女性に和菓子と茶を頼み、りんに与えつつ町民たちの話にさりげなく聞き耳を立てる。


「このあいだの殺しやけどな、斬られたんは鬼堕ちした油屋の主人やて」

「へえ、借金に耐えかねて女房子どもを殺したいうてた主人かいな。鬼になったらしいて噂は聞いとったけど、まさかこない早よに狩られるとはなあ」

「如月さまは絶えてしもて、新しゅう東雲さまが立ったらしいけど……なんでも『鬼は皆殺せ』ちゅうお触れが出たいう話や」

「ふん……わてらの暮らしが安泰になるんなら文句はあらへんけどなあ。不幸な死に方したうえに、鬼斬りに問答無用で斬られてしもうたら……魂が浮かばれへんわなあ」


 笠を深く被り、影の内に表情を隠しながら燈矢は思案する。やはり東雲の家からお触れがでているらしい。そして、鬼堕ちしたばかりの鬼まで情け容赦なく斬られている。浮かばれないと言われた魂の行方は――


「とーや? とーや!」

「ああ、うん。なに?」

「なにをボーっとしてはんの? うちあれ欲しい! 風車、買うて!」

「えぇ……りんはすぐ失くすでしょ」

「失くさへんし!」


 プゥと頬を膨らませて駄々をこねるりんを宥めて、勘定を済ませた燈矢は再び歩き出す。道中のどこでも、鬼斬りに関する噂は聞こえてきた。英雄視するような語り口調もあれば、鬼堕ちする前の素性を知る人々の口からは、同情する声も聞こえた。燈矢はそうした人々の声を具に拾い、頭に溜めていく。進めていた足は寺町通へ入り、御所東北角に至る。この辺りは、燈矢の生家のある場所だった。


 東雲の家との間を仕切る高い生垣はそのままだったが、手入れが行き届いてないこともあって寂れた印象を受ける。もとより陰陽師が住まう邸宅が多い場所であることもあって、どこか陰鬱でひっそりとした空気をまとった一帯。先代が亡くなってから、如月の家に住む者はいるのだろうか。燈矢は胸に浮かぶ疑問から目を逸らして、生家の前を足早に通り過ぎた。


 生家の広い敷地を過ぎると、小路に立つ商店の前に差し掛かる。呼び込みの小姓や給仕が立つ店とは一線を画すような、一見近寄りがたい構えの商店。暖簾が出ているので開いていることは分かるが、人の気配がしない。燈矢はその商店の前で足を止め、閉じた戸に手をかけた。木材が格子に掛けられた、社の扉に似た造り。りんは不思議そうな表情で商店の格子戸を眺めて、スンッと小さく鼻を鳴らした。


 カララと控えめな音で滑る戸を開くと、中には小柄な老人がひとりいた。光が差さないほど奥にいるために、その顔は影になって判別ができない。


「おや、いらっしゃいませ」

「……如月だ。久しいな」

「これはこれは如月殿。お久しゅうございますねえ」


 上方訛りでない丁寧な口調。愛想のよい声を出しながら、老人はゆっくりと近づいてくる。その足音は徐々に変化し、光の当たる場所へ出てきた時には細面の青年の姿になっていた。深緑の小袖に渋茶色の羽織を重ね、線を引いたように細い眼は常に微笑んでいるように見える。女性の骨格と見まごうほどに、顔が小さく首が長い。薄い唇も紅を引いたように赤かった。髷を結っていない黒髪を油でペタリと撫でつけ、分けた前髪から形の良い額を覗かせている。


 燈矢の腕にしがみつくようにしていたりんはハッと金眼を見開いて、噛み合わせた歯列の隙間からうぅっと威嚇するような低い声を漏らした。


「とーや! こいつ、狐や!」


 りんは商店主を指さし燈矢に向かって言う。その拍子でぴょんと飛び出したりんの三角耳を両手で押さえて、燈矢はハハッと力なく笑いを吐いた。


「まあ、うん。りんもね」

「うちはちゃうやん! 町場で人に化ける狐は悪者やあて、ばあちゃんが言うてたで!」

「それは古い考えですなあ。私は善良な狐ですよ。お嬢さん、黒狐をご存じないですか?」

「くろ、きつね……?」


 りんは顔を歪めて怪訝そうに繰り返す。商店主はにんまりといやらしい笑みを浮かべて、膝に手をつき身長の低いりんと目線を合わせる。


「人に化けるのを得意とする一族です。我々はこの力で、人の世と狐の世とを繋ぐ役目を担っているのですよ」


 りんは首を傾けながら顔を寄せてくる男に「ヒッ」と短く悲鳴を上げて掌で押し返した。


 商店主は「うむっ」と小さく声をあげつつも、りんをからかうようにあえて体を引かない。


「……朧。そのくらいでやめておけ」

「これは失礼、如月殿」


 ホホッと女性的な笑い声を立てて上体を起こした商店主――朧に、りんは青ざめた顔で睨みつけ、燈矢の後ろに体ごと隠れた。燈矢は毛を逆立てて威嚇するりんの肩を叩いて宥め、朧に目配せをする。


 朧は羽織の袖で口元を隠しながら微笑み、りんの傍らにソッと真っ赤な風車を差し出した。


「お詫びです、お嬢さん。ご主人をお借りすること許してくださいますか?」

「とーやは主人やない。うちの友達や」

「それは失礼。ご友人をお借りしますよ」

「……ちゃんと返してや」


 りんは朧の手から奪うように風車を受け取って、プイッとそっぽを向いた。


「とーや、うち外で遊んでる! なんや空気悪いわこの店」

「おやおや。掃除はきちんとしておりますけどねえ」


 ひらひらと手を振る朧のことはあえて無視して、りんは風車を手に店を出ていく。チラリと見える横顔は、早く風に当てたくて仕方がないという顔をしていた。燈矢はりんの胸の内を察して柔らかく微笑む。


「りんはあれを欲しがってたんだ」

「ええ、でしょうねえ」

「……聞いていたの?」

「さあ、なんのことでしょう?」


 細い線目の隙間から覗く不思議な色の瞳。その深い緑色に、燈矢は銀の瞳に感じた既視感を重ねた。そうだ、彼の眼はこの朧の瞳と似ているのだ。


「如月殿が町場に降りてくるのは珍しいですね。東雲の噂が耳に入りましたか?」


 朧は開いた瞼の隙間を閉じて瞳を隠した。燈矢は核心を突いてくる朧の言葉に息を呑んで、線目に視線を据えながら返した。


「東雲の出したお触れというのは、いつから出回っている」

「東雲本人ではないので正確な時期は分かりかねますが、市井のものまで噂するようになったのはごく最近のことですね。死んだはずの人間がまた再び死体で上がる……という件が相次ぎまして、その者たちが皆、『鬼堕ち』した咎人であったことが分かった頃からでしょうか」

「鬼堕ちした咎人……」

「可哀想に。鬼堕ちする者は相当量の業を背負ったものと聞きます。それほど不幸な生を背負って、死して尚苦しみ、その魂は救われることなく斬られるのですから」


 朧は芝居がかった口調で言いながら、袖で顔を覆う。燈矢は額が冷えていく感じを覚えて、白練の着物を思わずギュッと握りしめた。


「なぜ東雲は、そのような弱い鬼まで斬るのだ」

「さあ……まあ、市井の人間にとってはどちらでも構わぬと思うのですけどね。弱い強いにかかわらず、鬼は鬼。いつどんな拍子で力を蓄え、人に害を成すとも限りません。弱い芽の内から摘んでのおくのも手だと考えたんじゃあないですか?」

「だがそれでは……鬼の魂が救われない」

「相変わらずお優しいですね、如月殿は」


 微かに碧眼を覗かせて、朧は笑う。燈矢はギッと強く奥歯を噛んで、遣る瀬ない感情のぶつけどころを見つけられないまま目を逸らした。


「東雲も焦っているのだと思いますよ。なにせ、道しるべとなる狐を失ったのですから」

「その、狐というのはなんなのだ?」

「おや、ご存じないですか? まあ如月にとっては用のない存在でしたし知らずとも仕方ないですね」


 朧はフム、と息をついて言葉を継ぐ。


「銀狐の一族ですよ。我々と同じく人に化けるのが上手く、特に勘に優れているのが特徴です。如月を継ぐものが絶えてから、東雲は銀狐の一族を頼りにしていました。中でも銀狐の長がそれはそれは力の強い狐で……当代の前の代では、かなり重宝されていたという話でした」

「その狐が、姿を消したという……」

「おや、ご存じでしたか。ええその通りです。先代が鬼に殺された後、銀狐は姿を消したそうですね――一族もろとも」


 ヒヤリと、朧の語る言葉の温度が下がる。燈矢はゾクリと震えの走る背中を意識しつつ、朧に視線を向けた。


「その中でただひとり……捕らわれたた罪獣が逃げたと聞きましたが、この一匹もまだ見つかっていないようです。人に化けるのが上手いですからね、どこぞの市井に紛れているのでしょう」


 人に化けるのが上手い銀狐、と聞いて、燈矢の脳裡には旭の傍に仕える銀の姿が浮かんだ。勘がいいと旭は言っていたし、朧の語る特徴に当てはまるように思う。けれども旭は、銀の素性をしらないと言った。変わらず東雲に仕えるのなら、なにゆえに正体を隠すのか、あるいは――。


 パチン、と。不意に何かが爆ぜる音を聞いて、燈矢は深い思考に沈みかけた意識を浮上させた。見ると両手を打ち合わせた姿勢の朧が立っていて、赤い唇を三日月の形に吊り上げていた。


「すまない、なにか……」

「いえ、もうすぐ日が暮れますので。ここから比叡まで帰るのでは、そろそろ出立しないとまずいでしょう」

「……ああ、確かに」


 燈矢は朧の言葉を受けて、曖昧に笑う。朧は袖で口元を隠し、軽く首を傾け目を細める。


「如月殿が自ら動く気になられたのは、なにか別の理由がおありですか?」

「……東雲の現当主は、俺の幼馴染なんだ」

「へえ……はあ……まあ、おやおや……」


 朧は碧眼を開いて、少々わざとらしく見えるほど何度も頷いた。燈矢に近づき、上体を屈めて深緋の瞳の中を品定めするように覗き込む。まじまじと眺めたあとで、上体を起こした朧は、ふいと燈矢に背を向けて店の商品を漁りだした。


「あったあった。これはいかがでしょう?」


 朧は指先でツゥと摘まみ上げた商品を燈矢の手元に差し出す。促されるままに両手を開いた燈矢は、掌の上にその物を受け取る。――リン、と澄んだ涼やかな音を立てて転がったそれは、銀色の鈴だった。根付の形になっていって、飾りには朱色の房が付いている。鈴と同じ銀色の花弁を模したような小さな細工がついていて、姫様の髪に飾られていても不思議でないほどの凝った意匠。


「これは?」

「わざわざ店にと立ち寄ってくださったんですから、小間物のひとつでもあのお嬢さんに贈るとよいでしょう。とても大事にされているようですしねえ」


 ホホホッ、と。朧はいつもの調子で笑い声を立てる。戸惑う燈矢の掌を包み込むように自身の掌を重ね、朧は瞼の隙間を開いて燈矢の瞳を覗き込む。


「守りの鈴です。いざというとき、あなたが迷うことがないように」


 ゾクッ、と。冷たい感覚が今度はよりはっきりと背中を駆ける。燈矢はグッと喉を締めて、朧の瞳から目を逸らさないよう努めた。


「あなたは、鬼斬りの人間です。それをお忘れなきよう」

「……分かっている」


 燈矢がそう返すと、朧は満足したように瞼を閉じて、にこりと笑う。掌を微かに揺らすと、澄んだ鈴の音が鳴った。燈矢はその音に自身の心音を重ねて細く息を吐く。


「あ、そうそう。もうひとつ」


 朧は戸を開け、暖簾を下しながら言う。戸口から差し込む外光が、逆光になる朧の姿を影に沈ませる。暖簾を持ったまま燈矢に近づいた朧は、燈矢の耳元へと薄い唇を近づけた。


「――光は、毒ですよ」


 暖簾をサァと翻し、朧は呟いた直後の表情をあえて隠す。店の奥へと消えていく朧を振り返ると、彼の姿は最初に見た小柄な老人の姿に変わっていた。彼はそうして、あらゆる姿の人間に化けて、情報収集を行う。


 彼が自ら主張した通り、彼の役目は人の世と狐の世とを繋ぐものなのだろう。けれども朧は殊に《鬼》の情報に敏く、鬼斬りである燈矢にも彼の方から接触してくる。彼のいう世の均衡の鍵は、鬼の存在が握っているというでもいうように。


(実際、そうなのだろうけど)


 燈矢が朧を訪ねたことで、朧はこれから鬼の情報を集め、燈矢に接触してくるようになるだろう。あるいは、東雲の当主である旭のもとへだが、朧は旭のことが苦手だろうと直感で思う――朧は、自分と同じ闇のものだ。闇は光に対して、好意がなければ近づけない。よく知らない相手ならば、尚更。


 燈矢は短く息をつき、鼻先に掲げた銀の鈴を揺すって鳴らした。空気にツゥと引いた細く透明な線を爪弾くような、高く澄んだ音。彼女の名前に相応しい音色だと思い、燈矢は思わず表情を綻ばせる。


 燈矢は格子戸を開けて店の外に出た。見渡せる範囲にりんの姿はなく、燈矢は小路を覗き込んで山吹色の少女を探す。西の空へと傾きかけた陽が、空気を微かに茜色に染め始めた。日没が近い。


「りんー、りーん!」


 小路を奥へと進むと、突き当りでようやくりんの姿を見つけた。燈矢に気づいたりんは、ハッとした顔で燈矢を見た後、ばつが悪そうに視線を逸らす。


「どうしたの? あ……」


 燈矢はりんの様子からすぐに事態を察する。りんが朧からもらったはずの赤い風車がなくなっていた。


「……失くしたの?」

「失くしたんとちゃう! その、猫がいて……それで、一緒に遊んでたら、とられてもて……」


 尻すぼみに小さくなる声。燈矢は思わずフッと噴き出して、りんと目線の高さを合わせるようにその場にしゃがんだ。俯いたりんの表情を下から覗き込んで、燈矢は上目遣いの視線をりんに据えた。


「別に俺が買ったものじゃないし、怒らないよ」

「う、でも……うちが、ものを大事にできない子やあって思われたら、かなわん……」


 りんの金眼にジワァと涙が溜まってく。山吹色の着物を握りしめる小さな手には、猫につけられたのだろう小さなひっかき傷があった。燈矢は今にも泣き出しそうなりんに苦笑して、その目線の先に朧からもらった銀の鈴を垂らす。


――リィン、と。高く澄んだ音で空気を爪弾く音色に、りんは大きな金眼を零れそうなほど鮮やかに見開いた。


「りんにあげる。これは失くさないでくれる?」


 りんは燈矢の手から銀の鈴を受け取って、見開いたまま光の揺れる瞳でまじまじと鈴を眺める。


「うちに……くれはんの? こんな綺麗な鈴……」

「うん。まだちょっと似合うとまでは言えないけど、りんの名前みたいな音がするから」


 まだ似合わない、といった評は余計だったかと案じたが、りんは聞こえていない様子で銀の鈴に魅入っている。震える指先で転がしてみて、またリンと鳴く音にパァと表情を華やがせた。


「すごい、すごい綺麗やあ! うれしい! とーや、おおきに! うち、めちゃくちゃ大事にする!」


 りんは柔らかな頬を赤く染めて、両手でぎゅうと銀の鈴を握りしめた。ぴょんぴょん飛び跳ねる度に、りんの掌に包まれた鈴が、チリチリとくぐもった音で鳴る。燈矢は苦笑してその場に膝をつき、りんの掌を解いて鈴を摘まみ上げる。それをりんの着物の帯に提げてやった。


「へへ、かわいい」

「うん。似合うよ」


 素直に告げると、りんの頬がいっそう赤くなった。燈矢は膝についた汚れを払いながら立ち上がり、りんの小さな手をソッと握り込む。


「日が暮れる。帰ろう」

「うん!」


 繋いだ手をぎゅうと強く握り返すりんの手を引いて、燈矢は菅笠を深く被り直し、来た道をそのまま引き返した。洛中の建物を赤く染める夕陽。燈矢は沈んでいく太陽を背に、帰路を急ぐ。


 小路を抜け、生家の前に差し掛かった時、ふと後ろ髪を引かれて背後を振り返った。そこに建っていたはずの朧の商店は、幻のように姿を消していた。



 たっぷりと降ったはずの雨は乾き、草ずれの音が不気味に大きく立つ、枯れた土地。ヒョオオとうら寒い音で鳴くのは風の音ばかりではない。静かに、声もなく哭く鬼の声が、空気を震わせる音。


 石を転がしただけの《鬼堕ち墓場》に姿を現す影がひとつ。藍色の深い夜闇の下、ボゥとまるで光るように浮き立つ銀の影は、傍らに立つ男の耳元でソッと囁きかけ、石の前に佇む地縛鬼たちを指さした。


 深く被った菅笠を上げ――東雲旭は憎悪の滲んだ瞳を覗かせる。


「――鬼め」


 晴れた夜空の下。星の瞬く音さえ聞こえそうな闇に、鬼の哭く音が空気を裂いて木霊した。声なき声は裂けんばかりに空気を揺らし、搔き乱して。どす黒い靄となり、行き場を失くして立ち込める霧に混じる。彷徨える鬼の魂は、薄闇に閃く白刃に引き寄せられ、その銀の刀身に纏わりつき、染み込むように姿を消した。次々と吸い込まれていく、黒い核を抱く青白い魂。


 旭はズシリと重くなる刀身の変化を感じながら、それでも刃を振るい続けた。倒れた鬼は人の姿に戻り、すべて白骨となって地面に散らばる。中には骨さえ朽ちて、死灰に変わり、風に吹き上げられる死体もあった。旭は頬を掠めるその粒を払い、地獄の底から引き上げるような、荒い息を吐く。とめどなく滴る汗。瞳に宿る憎悪はやがて燃え尽きて、フッと脱力すると共に金茶の瞳に星影が落ちる。


「終わりか――銀」


 肩で息をしながら、地面に刃を突き立て膝をつく。旭は背後の気配に向けて、そう呼びかけた。涼やかな笑い声が返ってきた。振り返って姿を確かめる前に、旭の視界はぐらりと揺れて、やがて暗く閉ざされた。悲鳴の余韻は止まず、枯れた土地からまるで合唱のように立ち上る。一人立つ銀色の影は、それを指揮するように両手を掲げ、天を仰いだ。


――そうだ、と遅れて返した声は、鳥肌が立つほど甘美な響き。


 銀色の長い髪は惑いを導く風に揺れ、一筋の明かりを灯すように、暗闇に映えた。


《3/END》

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