沈黙の居場所
## 第一章 日常という名の仮面
秋の陽射しが窓から差し込む午後二時、桜井慶太は市役所の窓口で住民票の交付手続きを機械的に処理していた。三十二歳になった彼の顔には、同世代の公務員にありがちな安定と退屈の混合した表情が浮かんでいる。
「ありがとうございました」
老人に頭を下げ、次の番号を呼ぶ。一日に何度繰り返されるこの所作は、もはや彼の身体に染み付いていた。しかし、その内側で慶太は常に別のことを考えている。四年前から、彼の心に居座り続けている重い秘密のことを。
午後五時、定時の終業ベルが響くと、慶太は急ぎ足で市役所を後にした。今日は月に一度の「家族会議」の日だった。正確には、行方不明になった弟・拓也について話し合う日である。
自宅まで車で二十分。実家の前に止まった軽自動車から降りると、慶太は深く息を吸った。この扉の向こうで待っているのは、愛する家族と、彼らを苦しめ続けている現実だった。
「お疲れさま」
玄関で出迎えたのは母の美津子だった。五十八歳になる彼女の髪は白いものが目立ち始め、拓也が消えた四年前と比べて明らかに老け込んでいた。
「今日も何も...」
美津子の言葉は途中で切れた。毎月同じ質問をし、毎月同じ答えを聞くことに疲れていた。慶太は黙って頷き、居間へ向かった。
居間では父の和夫が新聞を読んでいた。元高校教師の彼は六十一歳になった今も背筋がまっすぐで、読書用の眼鏡をかけた顔は知的な印象を与える。しかし、拓也の失踪以来、その表情から笑顔が消えていた。
「慶太、お疲れ」
和夫は新聞から目を上げることなく声をかけた。感情を表に出すのが苦手な彼らしい挨拶だった。
三人がテーブルを囲んで座ると、いつものように重い沈黙が部屋を満たした。拓也の写真が飾られた仏壇の前には、今日も新しい線香の煙が立ち上っている。美津子は息子が死んだとは思いたくないと言いながらも、毎日のように拓也の冥福を祈っていた。
「警察の村上さんから連絡があったの」美津子が口を開いた。「やっぱり新しい情報はないって」
慶太の胸が重くなった。村上刑事は拓也の失踪事件を担当している四十五歳の刑事で、家族思いの人柄から慶太たちにとって心の支えのような存在だった。しかし、四年間の捜査で得られた手がかりは皆無に等しい。
「そうか」和夫が短く答えた。
「拓也のことを思い出すたびに、胸が苦しくなる」美津子の声が震えていた。「あの子は優しすぎるのよ。誰かに騙されて...」
慶太は拳を握りしめた。母の想像は半分正しく、半分間違っていた。拓也は確かに誰かに騙されたのかもしれない。しかし、彼が今どこにいるのか、慶太は知っていた。
「今月も捜索ボランティアを続けましょう」和夫が提案した。「諦めてはいけない」
美津子が頷く。四年間、毎月欠かさず続けてきた捜索活動だった。市内の山や川、遺体が発見される可能性の高い場所を、近所の人たちと一緒に歩き回る。そのたびに慶太は、無駄だとわかっている捜索に参加する家族の姿を見て、胸が引き裂かれるような思いをしていた。
「僕も参加します」
慶太は偽りの決意を込めて答えた。そんな彼を見て、両親は安堵したような表情を浮かべる。長男である慶太が家族を支えてくれている。そう信じて疑わない両親の信頼が、慶太にとっては重い枷だった。
家族会議が終わると、慶太は自分のアパートに戻った。一人暮らしを始めて八年になる1DKの部屋は、独身男性らしく殺風景だった。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ベッドに腰を下ろす。
携帯電話を見ると、恋人の亜希からメッセージが届いていた。
「お疲れさま。明日の映画、楽しみにしてる」
田中亜希は二十九歳の看護師で、慶太より三つ年下だった。二年前に合コンで知り合い、半年前から正式に交際している。明るく優しい性格の彼女は、慶太にとって数少ない心の安らぎだった。
しかし、最近の慶太は亜希といても心から楽しめずにいた。拓也の秘密を抱えている罪悪感が、彼女との関係にも影を落としていた。真実を話せない苦しさ、家族を欺き続ける重圧、そして弟を守りたいという気持ち。それらが複雑に絡み合って、慶太の心を蝕んでいた。
ベッドに横になり、天井を見つめる。四年前のあの日から、慶太の人生は二つに分かれていた。表向きの慶太と、秘密を抱えた慶太。二重生活を続けることの疲労は日に日に増していた。
枕元の写真立てには、家族四人で撮った最後の写真が飾られている。拓也が失踪する一年前、母の日に撮ったものだった。写真の中の拓也は人懐っこい笑顔を浮かべていて、その優しい表情が慶太の心をさらに重くした。
「拓也...」
慶太は小さくつぶやいた。弟の名前を口にするたびに、胸の奥が痛んだ。愛する家族を欺き続けることの罪悪感と、弟を守りたいという気持ちの間で、慶太は毎日のように揺れ動いていた。
その夜、慶太は悪夢を見た。拓也が家族の前に現れ、なぜ真実を話さないのかと責める夢だった。目を覚ました時、枕が汗で濡れていた。デジタル時計は午前三時を示している。
慶太は起き上がり、窓から外を見た。街灯に照らされた静かな住宅街には、人影一つない。この平穏な風景の裏で、彼だけが抱えている秘密の重さを、誰も知らない。
翌朝、慶太は亜希と待ち合わせた映画館で、恋愛映画を見た。スクリーンの中では、恋人同士が真実を打ち明け合い、理解し合っている。その光景を見ながら、慶太は自分と亜希の関係について考えていた。
「面白かったね」映画が終わると、亜希が屈託のない笑顔で言った。
「そうだね」慶太は曖昧に答えた。
カフェで休憩している時、亜希が突然真剣な表情になった。
「慶太君、最近何か悩みがあるんじゃない?」
慶太の心臓が一瞬止まったような気がした。
「どうして?」
「なんとなく。前より元気がないように見えるの」亜希の声は優しかった。「私でよければ、話を聞くよ」
慶太は彼女の真摯な表情を見つめた。亜希になら話せるかもしれない。そんな思いが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。拓也の秘密は、誰にも話してはいけないものだった。
「仕事のことで少し疲れてるだけだよ。心配かけてごめん」
亜希は納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。彼女の優しさが、慶太にはかえって辛かった。
その夜、慶太は一人でアパートの部屋にいた。テーブルの上には、家族には見せていない一枚の写真があった。二週間前、偶然撮影したものだった。
写真には、髪を短く刈り、痩せて別人のようになった拓也が写っていた。建設現場で働いている姿だった。弟が生きていることを知ったあの日から、慶太の苦悩は始まった。
携帯電話が鳴った。母からだった。
「慶太、元気?」
「うん、大丈夫だよ」
「拓也のこと、毎日考えてしまうの。あの子は今、どこで何をしているのかしら」
美津子の声には、深い悲しみが込められていた。四年間の月日は、母親の心を確実に削っていた。
「きっと大丈夫だよ。拓也は強い子だから」
慶太は自分でも驚くほど自然に嘘をついた。四年間の訓練の成果だった。
電話を切った後、慶太は再び拓也の写真を見つめた。弟を守るために始めた沈黙が、今では家族全員を苦しめている。しかし、真実を話すことで生まれる新たな苦痛を考えると、慶太には言葉を発することができなかった。
時計の針は深夜を回っていた。明日もまた、何も知らない振りをして家族と接しなければならない。その重圧に耐えながら、慶太は眠りについた。しかし、彼の心の中では、秘密の重みが日増しに大きくなっていることを、彼自身が一番よく知っていた。
## 第二章 偶然という名の運命
それは何の変哲もない金曜日の午後だった。慶太は市役所の用事で隣町の建設会社を訪れていた。公共工事の入札書類を取りに行く、いつもの業務の一環だった。
建設会社の事務所で書類を受け取った慶太は、帰り道で工事現場の前を通りかかった。道路拡張工事が行われており、作業員たちが黙々と作業を続けている。慶太は特に気にも留めずに歩いていたが、ふと一人の作業員の後ろ姿が目に入った。
その瞬間、慶太の足が止まった。
作業服を着て、ヘルメットをかぶった男性の後ろ姿。肩の幅、首の線、体型。それらすべてが、慶太の記憶の中にある人物と一致していた。
「まさか...」
慶太の心臓が激しく鼓動し始めた。その作業員が振り返った時、慶太の血の気が引いた。
髪は短く刈られ、顔は日焼けして以前より痩せていたが、間違いなく拓也だった。四年間探し続けた弟が、こんな身近な場所で働いていたのだ。
拓也も慶太に気づいた。兄の姿を見た瞬間、拓也の顔は青ざめ、動揺を隠せずにいた。二人は数秒間、言葉を失って見つめ合った。
その時、現場監督の声が響いた。
「おい、田中!休憩時間はもう終わりだぞ!」
拓也は「田中」という偽名を使っていた。彼は慶太に向かって小さく手を振り、作業に戻る振りをした。しかし、その目は慶太に「後で話そう」と言っているように見えた。
慶太は心臓の鼓動を抑えながら、現場を離れた。頭の中は混乱していた。拓也が生きている。それは喜ばしいことのはずなのに、なぜ彼は家族に連絡を取らないのか。なぜ偽名を使って働いているのか。
午後六時、工事現場の作業が終了した。慶太は現場から少し離れた公園で拓也を待っていた。約束をしたわけではないが、弟が必ず来ると確信していた。
三十分ほど待つと、作業服姿の拓也が現れた。二十八歳になった弟は、四年前と比べて明らかに痩せていて、顔には深い疲労の色が浮かんでいた。
「兄さん...」
拓也の声は震えていた。四年ぶりに聞く弟の声に、慶太の目頭が熱くなった。
「拓也、生きてたんだな」
慶太の声も涙で詰まっていた。二人は公園のベンチに座り、しばらく無言で過ごした。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
「なぜ連絡しなかった?」慶太がようやく口を開いた。「家族がどれだけ心配したか、わかるか?」
拓也は俯いたまま答えた。
「わかってる。でも、連絡できなかった。連絡しちゃいけないんだ」
「どういうことだ?」
拓也は長い沈黙の後、重い口を開いた。
「兄さん、俺は人を殺したんだ」
慶太の血の気が引いた。
「何を言ってる?」
「四年前、俺が消えた本当の理由。それは、ある人を死なせてしまったからなんだ」
拓也の言葉に、慶太は言葉を失った。優しく穏やかな性格の弟が、人を殺すなどあり得ないと思っていた。
「正確には、俺が直接手を下したわけじゃない。でも、俺の行動が原因で、その人は死んだ」
拓也は震える声で説明を始めた。
四年前、拓也は当時付き合っていた恋人の麻衣と一緒に山にハイキングに行った。途中で道に迷い、携帯電話の電波も届かない場所で一夜を過ごすことになった。麻衣は持病の喘息があり、常に吸入器を持ち歩いていたが、その日に限って家に忘れてきてしまった。
夜中に麻衣の喘息発作が始まった。拓也は必死に助けを求めようとしたが、山の中では誰にも会えない。麻衣の状態は急速に悪化し、明け方に息を引き取った。
「俺が無理にハイキングに誘ったんだ。麻衣は乗り気じゃなかった。でも俺が押し切った」拓也の声は自責の念に満ちていた。「俺が殺したも同然なんだ」
翌日、救助隊に発見された時、拓也は半ば錯乱状態だった。麻衣の死因は喘息による窒息死で、事故として処理された。拓也に法的な責任はなかった。しかし、彼は自分を許すことができなかった。
「麻衣の両親から、激しく責められた」拓也が続けた。「『あなたが殺したのよ』って、お母さんに言われたんだ。そして、『二度と私たちの前に現れないで』って」
麻衣の両親の怒りと悲しみは激しく、拓也は深いトラウマを負った。事故の後、拓也は重いうつ状態に陥り、自殺を考えるほど追い詰められた。
「家族にも迷惑をかけたくなかった。俺がいると、みんなが辛い思いをする。だから、姿を消すことにしたんだ」
拓也は偽名を使い、住民票も移さずに各地を転々としていた。建設現場で日雇いの仕事をしながら、ひっそりと生きていた。家族への愛情はあったが、自分がいることで家族が世間の好奇の目にさらされることを恐れていた。
「でも、家族は君が事故で死んだと思ってるんだぞ」慶太が言った。「母さんなんて、毎日君の無事を祈ってる」
「知ってる」拓也の目から涙が流れた。「でも、俺は人殺しなんだ。家族の恥になる」
「事故だったんだろう?君が悪いわけじゃない」
「でも、麻衣は死んだ。俺のせいで」
拓也の罪悪感は深く、四年間の月日でも癒えることはなかった。彼は毎日のように麻衣のことを思い、自分を責め続けていた。
「家族に迷惑をかけるわけにはいかない。だから、俺はもう死んだことになってるのがいいんだ」
慶太は弟の話を聞いて、複雑な感情を抱いた。拓也が生きていることへの安堵、彼が抱える深い苦痛への同情、そして家族に真実を話すべきかどうかという迷い。
「兄さん、お願いがあるんだ」拓也が真剣な表情で言った。「俺が生きてることを、家族には言わないでほしい」
「どうして?」
「家族が俺を探すのをやめて、前に進んでほしいんだ。俺のことを忘れて、幸せになってほしい」
拓也の願いは、家族への深い愛情から生まれたものだった。しかし、それは同時に家族をさらに苦しめることにもなる。
「でも、家族は君を愛してる。真実を知れば、きっと理解してくれる」
「いや、ダメなんだ」拓也は首を強く振った。「麻衣の両親から、『もし桜井家の人間が近づいてきたら、警察に訴える』と言われてるんだ。家族を巻き込むわけにはいかない」
麻衣の両親は拓也への怒りが収まらず、彼や彼の家族との接触を拒絶していた。事故から四年経った今でも、その気持ちは変わらないと拓也は感じていた。
「兄さん、頼む。俺が生きてることは秘密にして」
拓也の懇願に、慶太は答えることができなかった。家族の幸せを願う弟の気持ちも理解できるし、真実を知らずに苦しみ続ける家族のことも思わずにはいられなかった。
「少し時間をくれ」慶太がやっと答えた。「すぐには決められない」
拓也は頷いた。
「連絡先を教える。でも、あまり頻繁に会うのは危険だ」
拓也は携帯電話の番号を教えた。四年間誰とも連絡を取っていなかった彼が、兄とだけは繋がりを持ちたいと思っていた。
「体には気をつけろよ」慶太が立ち上がりながら言った。
「兄さんも」
二人は別れた。慶太は歩きながら、頭の中で考え続けていた。拓也の話が本当なら、彼は法的には無罪だが、道徳的な責任を感じ続けている。その苦痛から逃れるために、家族との縁を切った。
しかし、その結果として家族は四年間苦しみ続けている。母の美津子は日に日に衰弱し、父の和夫も明らかに元気を失っていた。
慶太は重大な選択を迫られていた。弟の願いを尊重して秘密を守るか、家族の苦痛を終わらせるために真実を話すか。どちらを選んでも、誰かが傷つくことになる。
その夜、慶太は一睡もできなかった。ベッドに横になったまま、天井を見つめ続けていた。拓也の痩せた顔、母の悲しい表情、父の無言の苦悩。それらすべてが慶太の心を重くしていた。
翌朝、慶太は決断した。少なくとも当面の間は、拓也の願いを尊重しよう。しかし、家族の状況を注意深く見守り、必要があれば真実を話すことも考えよう。
その決断が、後に慶太自身を深い苦悩へと導くことになるとは、その時の彼には想像もできなかった。
## 第三章 嘘という重荷
拓也との再会から一週間が過ぎた。慶太は毎日のように、家族に真実を話すべきかどうか悩み続けていた。弟の切実な願いと、家族の苦痛の間で、彼の心は引き裂かれていた。
月曜日の朝、慶太は市役所で働きながらも、集中することができなかった。窓口に来る住民への対応も機械的になり、同僚から「大丈夫?」と心配される始末だった。
昼休みに、慶太は拓也に電話をかけた。
「もしもし」
拓也の声は相変わらず暗かった。
「元気にしてるか?」
「まあ、なんとか。兄さんは?」
「俺も...なんとか」
慶太は言いたいことがたくさんあったが、電話では話しにくかった。
「今度、また会えるか?」
「危険だよ。誰かに見られたら」
拓也の慎重さが、彼の置かれた状況の深刻さを物語っていた。
「それでも、話したいことがある」
しばらくの沈黙の後、拓也が答えた。
「わかった。でも、人目につかない場所で」
二人は日曜日の夜、郊外の公園で会うことにした。
その日の夕方、慶太は実家を訪れた。拓也の秘密を知ってから、家族と接することが以前にも増して辛くなっていた。
「慶太、お疲れさま」
美津子が玄関で迎えてくれた。彼女の顔は以前より痩せており、目の下にくまができていた。拓也の失踪によるストレスが、確実に母親の健康を蝕んでいることがわかった。
居間では和夫がテレビを見ていた。ニュース番組で行方不明者の特集をやっており、父は食い入るように画面を見つめていた。
「また誰かのお子さんが...」美津子がつぶやいた。「ご家族の気持ちを思うと、胸が痛む」
慶太は返事ができなかった。この瞬間にも、拓也は生きて働いているという事実を、彼だけが知っていた。
「拓也は今、どこにいるのかしら」美津子が独り言のように言った。「せめて、生きているかどうかだけでも知りたい」
その言葉が慶太の胸を突き刺した。拓也は生きている。しかも、車で一時間の距離で働いている。そう言いたい衝動を、慶太は必死に抑えた。
「きっと元気でやってるよ」慶太は震え声で答えた。
和夫が振り返った。
「慶太、お前も無理するなよ。拓也のことを考えすぎて、体を壊しては意味がない」
父の優しさが、慶太の罪悪感をさらに深くした。
その夜、慶太はアパートで一人、考え込んでいた。拓也の話を思い返すたびに、事情の複雑さを痛感した。確かに、拓也に法的な責任はない。しかし、麻衣の両親の怒りは理解できるし、拓也の罪悪感も当然だった。
問題は、家族に真実を話すことで、新たな苦痛が生まれる可能性があることだった。拓也の居場所がわかっても、彼を家に連れ戻すことは困難だろう。麻衣の両親との問題もある。結果として、家族がさらに複雑な状況に置かれることになるかもしれない。
一方で、拓也が生きているという事実を隠し続けることも、慶太には耐え難い重荷だった。家族の前で演技を続けることの辛さ、両親の苦悩を見ていることの苦しさ。それらすべてが慶太の心を圧迫していた。
日曜日の夜、慶太は約束の場所で拓也を待っていた。郊外の小さな公園は街灯が少なく、人影もない。午後九時、拓也が現れた。
「兄さん」
拓也は以前より更に痩せて見えた。きちんと食事を取っているのだろうかと、慶太は心配になった。
「話したいことって?」
拓也の表情は不安そうだった。
「家族のことだ」慶太が切り出した。「母さんの様子が本当に心配なんだ」
慶太は美津子の最近の様子を詳しく話した。食欲の低下、不眠、急激な体重減少。拓也の失踪による精神的ストレスが、明らかに母親の健康に悪影響を与えていた。
「そんな...」拓也の顔が青ざめた。
「父さんも同じだ。表面上は冷静を保ってるけど、内心では深く傷ついてる」
拓也は拳を握りしめた。
「俺のせいで...」
「そうじゃない」慶太が強い口調で言った。「君が悪いわけじゃない。でも、現実として家族は苦しんでる」
しばらく沈黙が続いた。拓也は俯いたまま、何も言わなかった。
「せめて、生きてることだけでも伝えさせてくれ」慶太が懇願した。「居場所は言わない。ただ、無事でいることだけでも」
拓也は首を横に振った。
「ダメだ。生きてることがわかったら、家族は俺を探そうとする。そうなったら、麻衣の両親との問題が表面化してしまう」
「でも、このままじゃ母さんが倒れてしまう」
「それは...」拓也の声が震えた。「それは辛いけど、仕方がないんだ」
慶太は弟の頑なな態度に苛立ちを感じた。家族愛から生まれた判断だとわかっていても、その結果として家族が苦しみ続けていることを受け入れることはできなかった。
「拓也、君は逃げてるだけだ」
慶太の言葉に、拓也は顔を上げた。
「逃げてる?」
「そうだ。自分の罪悪感から逃げるために、家族を捨てた」
「それは違う!」拓也が声を荒げた。「家族のことを思って...」
「本当にそうか?」慶太が問い詰めた。「家族と向き合うのが怖いから、一人でいる方が楽だから、そう言ってるんじゃないのか?」
拓也は返事できなかった。慶太の言葉が、彼の心の奥底にある真実を突いていたからだった。
「兄さんには、俺の気持ちはわからない」拓也がやっと答えた。「人を死なせた俺の気持ちなんて」
「わかろうとしてるよ」慶太の声は優しくなった。「でも、君が苦しんでる間にも、家族は毎日泣いてるんだ」
拓也の目から涙が流れた。
「どうすればいいんだ...」
慶太は弟の肩に手を置いた。
「一緒に考えよう。君一人で抱え込む必要はない」
その夜、二人は三時間近く話し合った。しかし、結論は出なかった。拓也の罪悪感と恐怖は深く、家族との関係修復への道筋は見えなかった。
別れ際、拓也が慶太に言った。
「兄さん、本当にお願いだ。俺のことは忘れて、家族と一緒に前に進んでくれ」
「そんなことできるわけないだろう」
「でも...」
「君は俺の大切な弟だ。見捨てるわけにはいかない」
慶太の言葉に、拓也は新たに涙を流した。
家に帰る途中、慶太は重大な決断を下した。当面は拓也の願いを尊重し、秘密を守ろう。しかし、家族の状況が更に悪化するようなら、真実を話すことも辞さない。
その決断が、後に慶太自身を深い苦悩の渦に巻き込むことになるとは、その時の彼にはまだわからなかった。
翌週から、慶太の二重生活が本格的に始まった。家族の前では、拓也のことを心配する長男を演じ、一人の時は弟の現状に思いを馳せる。その狭間で、慶太の心は日々疲弊していった。
特に辛いのは、母親との会話だった。美津子は事あるごとに拓也の話をし、慶太に意見を求めた。その度に慶太は、知っている真実を隠しながら、適当な返事をしなければならなかった。
「慶太、あなたはどう思う?拓也は今でも生きてるかしら?」
「わからないよ。でも、きっと大丈夫だ」
「そうよね。あの子は強い子だから」
美津子の言葉が、慶太の胸を突き刺した。拓也は確かに生きているが、強くはなかった。深い傷を負い、自分を責め続けている弱い人間だった。
そんな日々が続く中、慶太は自分自身の変化に気づき始めた。常に緊張状態にあることで、食欲が落ち、眠りも浅くなった。仕事に集中することも難しくなり、ミスが増えた。
同僚から「最近、元気ないね」と言われることも多くなった。しかし、慶太は誰にも本当の理由を話すことができなかった。
亜希との関係にも変化が現れていた。デートの最中でも、慶太は上の空でいることが多くなり、彼女の話を聞き流すことがあった。
「慶太君、私の話、聞いてる?」
ある日のデート中、亜希が不満そうに言った。
「ごめん。仕事のことを考えてた」
「最近、そんなことばっかり」亜希の声には悲しみが込められていた。「私といても楽しくないの?」
「そんなことないよ」慶太は慌てて否定した。「ただ、少し疲れてるだけ」
しかし、亜希は納得していない様子だった。彼女は看護師として、人の心の変化を敏感に察知する能力があった。慶太の変化が、単なる仕事のストレスではないことを、彼女は感じていた。
その夜、慶太は一人でアパートにいた。テーブルの上には、家族の写真と拓也の携帯電話番号が書かれたメモがあった。二つの現実の間で、慶太は引き裂かれていた。
携帯電話が鳴った。母からだった。
「慶太、今度の日曜日、一緒に拓也の捜索をしましょう」
「...うん、わかった」
「ありがとう。あなたがいてくれると、心強いわ」
電話を切った後、慶太は深いため息をついた。拓也がいる場所を知りながら、捜索に参加しなければならない。その矛盾と苦痛に、慶太は耐えられるだろうか。
秘密を抱えることの重さを、慶太は日々実感していた。それは愛する人たちを守るための秘密のはずだったが、結果として彼自身を苦しめることになっていた。
夜更けまで起きていた慶太は、ふと考えた。この状況は、いつまで続くのだろうか。そして、自分は最後まで耐えることができるのだろうか。
その答えは、まだ闇の中にあった。
## 第四章 罪悪感という毒
拓也の秘密を知ってから一ヶ月が過ぎた。慶太の精神状態は日に日に悪化していた。朝目覚めると同時に襲ってくる重圧感、一日中続く緊張状態、そして夜になっても訪れない安らぎ。秘密を抱えることの重さが、慶太の心身を確実に蝕んでいた。
その日曜日、慶太は家族と一緒に拓也の捜索活動に参加していた。毎月恒例となったこの活動には、近所の人たちも協力してくれていた。慶太にとって、これほど苦痛な時間はなかった。
「今日は川の下流を重点的に探しましょう」
村上刑事が参加者たちに指示を出していた。四十五歳の彼は、四年間この事件に関わり続けており、家族への思いやりを忘れない人柄で信頼されていた。
「桜井さん」村上刑事が慶太に声をかけた。「息子さんの手がかり、本当に何もありませんか?友人関係とか、行きそうな場所とか」
慶太の心臓が激しく鼓動した。
「特には...思い当たりません」
嘘をつくたびに、慶太の罪悪感は深くなった。村上刑事は真摯に事件解決に取り組んでくれているのに、慶太は重要な情報を隠している。
「そうですか」村上刑事は残念そうに答えた。「何か思い出したら、些細なことでも連絡してください」
慶太は頷いたが、内心では自分を責めていた。
捜索は午前中から午後まで続いた。参加者たちは川岸や山道を丁寧に探し回ったが、当然ながら手がかりは見つからなかった。拓也はそこにいないのだから。
「今日もダメだったわね」
美津子が疲れた表情で言った。四年間の捜索活動で、彼女の体力は明らかに低下していた。
「でも、諦めちゃダメよ」
そう言いながらも、美津子の声には絶望感が滲んでいた。希望と絶望の間で揺れ動く母親の姿を見て、慶太は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
帰り道、和夫が慶太に小声で話しかけた。
「慶太、母さんのことが心配だ」
「どういうことですか?」
「最近、夜中に一人で拓也の部屋にいることが多いんだ。写真を見ながら、一人で話しかけてる」
慶太は愕然とした。母親の精神状態が、想像以上に悪化しているようだった。
「心療内科を受診させた方がいいかもしれない」和夫が続けた。
慶太は返事ができなかった。この瞬間にも、拓也は生きて働いている。その事実を母親に伝えれば、彼女の苦痛は軽減されるかもしれない。しかし、それは同時に新たな問題を生むことになる。
その夜、慶太は拓也に電話をかけた。
「もしもし」
拓也の声は相変わらず暗かった。
「母さんの様子が本当に心配なんだ」
慶太は美津子の最近の状況を詳しく説明した。夜中の一人語り、急激な体重減少、食欲不振。すべてが拓也の失踪によるストレスが原因だった。
「そんな...」拓也の声が震えていた。
「心療内科の受診を検討してるって、父さんが言ってた」
長い沈黙があった。
「俺のせいで、母さんが病気になってしまう」拓也がつぶやいた。
「そうじゃない。でも、現実として母さんは苦しんでる」
「どうすればいいんだ...」
拓也の苦悩が電話越しにも伝わってきた。彼もまた、家族を思う気持ちと自分の状況の間で引き裂かれていた。
「せめて、手紙でもいいから、生きてるってことを伝えられないか?」
「ダメだ。そうしたら、居場所を探されてしまう」
「でも、このままじゃ...」
「わかってる!わかってるけど、どうしようもないんだ!」
拓也が声を荒げたのは、慶太が彼の声を聞くようになってから初めてだった。それだけ追い詰められているということだった。
電話を切った後、慶太は深い無力感に襲われた。家族を救いたいが、弟も救いたい。しかし、どちらも救う方法が見つからない。
翌日の仕事中、慶太は集中することができなかった。窓口で住民と話している時も、頭の中は家族のことでいっぱいだった。
「桜井さん、大丈夫ですか?」
同僚の田村が心配そうに声をかけた。
「ああ、すみません。少し考え事をしてました」
「最近、元気がないようですが...何か悩みでも?」
慶太は田村の優しさに触れて、一瞬真実を話したいという衝動に駆られた。しかし、すぐに思い直した。
「家族のことで、少し心配事があるんです」
「そうですか。何かお手伝いできることがあったら、遠慮なく言ってくださいね」
田村の言葉に、慶太は感謝の気持ちを抱いた。しかし、同時に自分が多くの人を欺いていることへの罪悪感も深くなった。
昼休みに、慶太は亜希から電話を受けた。
「今度の土曜日、時間ある?」
「どうしたの?」
「実は、話したいことがあるの」
亜希の声は普段より真剣だった。慶太は嫌な予感がした。
「わかった。会おう」
土曜日、慶太は亜希と待ち合わせた。いつものカフェではなく、静かな公園のベンチで話すことになった。
「慶太君、最近の君を見てて、すごく心配なの」
亜希は真っ直ぐに慶太を見つめて言った。
「心配って?」
「何か大きな悩みを抱えてるでしょう?」
慶太は否定しようとしたが、亜希の真剣な表情を見て言葉を失った。
「私は看護師として、いろんな人を見てきた。心に重いものを抱えてる人の特徴、よくわかるの」
亜希の言葉は的確だった。慶太の変化を、彼女は専門的な視点からも捉えていた。
「睡眠不足でしょう?食欲もないんじゃない?集中力も以前より落ちてる」
すべて当たっていた。慶太は反論できなかった。
「私でよければ、話を聞くよ。一人で抱え込まないで」
亜希の優しさが、慶太の心を揺さぶった。この人になら話せるかもしれない。そんな思いが頭をよぎった。
「実は...」
慶太が口を開きかけた時、拓也の言葉が蘇った。「誰にも言わないでくれ」。弟の懇願を思い出し、慶太は再び口を閉じた。
「ごめん。話せないんだ」
亜希の表情が曇った。
「どうして?私のこと、信用できないの?」
「そういうわけじゃない。ただ...」
「ただ、何?」
慶太は答えることができなかった。亜希への愛情と、弟への約束の間で、彼は引き裂かれていた。
「慶太君、このままじゃ君の体が持たないよ」亜希が心配そうに言った。「専門家に相談することも考えて」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないでしょう!」
亜希が声を荒げたのは、付き合い始めてから初めてだった。それだけ彼女も心配していたということだった。
「君が苦しんでるのを見てるのが辛いの。でも、何も手伝えない。それがもっと辛い」
亜希の目から涙が流れた。彼女の涙を見て、慶太も胸が痛んだ。
「ごめん。心配かけて」
「謝らないで。ただ、君を助けたいだけなの」
二人はしばらく無言で座っていた。慶太は亜希の手を握りたかったが、自分にその資格があるのかわからなかった。秘密を抱えた自分が、彼女の愛情を受ける資格があるのだろうか。
「少し、距離を置いた方がいいかもしれない」慶太がやっと口を開いた。
「え?」
「君を巻き込みたくないんだ」
「何に巻き込むって?」
慶太は答えることができなかった。
「慶太君、私は君を愛してる。どんな問題があっても、一緒に乗り越えたい」
亜希の言葉が、慶太の心を深く傷つけた。彼女の愛情が深いほど、慶太の罪悪感も深くなった。
「ごめん。今は、一人にさせて」
慶太は立ち上がった。亜希は驚いた表情で彼を見上げていた。
「慶太君...」
慶太は振り返らずに歩き去った。後ろから亜希の泣き声が聞こえたが、立ち止まることはできなかった。
その夜、慶太は一人でアパートにいた。テーブルの上には、亜希からのメッセージが届いていた携帯電話があった。しかし、慶太は返信する気力がなかった。
秘密を抱えることの代償は、慶太が想像していたよりもはるかに大きかった。家族を欺き、恋人を傷つけ、同僚や友人にも嘘をつく。その結果として、慶太は孤独の中に追い込まれていた。
夜更けに、慶太は再び拓也に電話をかけた。
「兄さん?どうしたの、こんな時間に」
「お前のせいで、俺の人生がめちゃくちゃになってる」
慶太の言葉に、拓也は絶句した。
「兄さん...」
「亜希とも別れることになりそうだ。嘘をつき続けることに疲れた」
「ごめん...ごめん、兄さん」
拓也の謝罪を聞いて、慶太は我に返った。弟を責めても仕方がない。この状況は、慶太自身が選択した結果だった。
「いや、俺が悪かった。八つ当たりして」
「俺のせいなんだ。俺が兄さんを巻き込んでしまった」
「そうじゃない」慶太は疲れた声で答えた。「俺が勝手に背負い込んだんだ」
電話を切った後、慶太は深いため息をついた。この状況をいつまで続けることができるのだろうか。そして、最終的にどんな結末が待っているのだろうか。
その答えは、まだ見えない闇の中にあった。慶太は、その闇の中で一人、もがき続けていた。
## 第五章 限界への接近
拓也の秘密を知ってから二ヶ月が経った。慶太の精神状態は臨界点に近づいていた。体重は五キロ減り、常に疲労感に襲われていた。仕事でのミスも増え、上司から注意を受けることもあった。
その日の朝、慶太は市役所で住民票の発行業務を行っていた。しかし、集中力が散漫になり、入力ミスを連発していた。
「桜井さん、ちょっと」
課長の山田が慶太を呼んだ。五十歳の山田は厳格だが、部下思いの人物として知られていた。
「はい」
「最近、ミスが多いようですが、大丈夫ですか?」
慶太は答えに窮した。大丈夫なわけがなかった。
「すみません。気をつけます」
「何か悩み事があるなら、相談してください。一人で抱え込まないで」
山田の優しさが、かえって慶太を苦しめた。相談したくても、できない事情があった。
昼休みに、慶太は病院のトイレで吐いていた。ストレスによる胃痛と吐き気が、日常的になっていた。鏡に映る自分の顔は青白く、目の下にはくまができていた。
携帯電話が鳴った。母からだった。
「慶太、ちょっと相談があるの」
美津子の声は普段より沈んでいた。
「どうしたの?」
「実は、拓也の部屋を片付けようと思うの」
慶太の血の気が引いた。
「片付けるって...」
「もう四年も経つし、いつまでもそのままにしておくのは...」美津子の声が震えていた。「諦めなさいって、近所の人にも言われるの」
慶太は言葉を失った。母親が拓也の部屋を片付けるということは、息子の死を受け入れることを意味していた。
「待って。まだ早いよ」
「でも、慶太...」
「拓也はきっと帰ってくる。もう少し待とう」
慶太の言葉に、美津子は泣き始めた。
「私ももう疲れたの。四年間、希望を持ち続けるのに疲れた」
母親の絶望的な言葉が、慶太の胸を突き刺した。
「母さん...」
「あの子はもう帰ってこないのよ。わかってるの。でも、認めるのが怖くて」
電話越しに聞こえる母親の嗚咽が、慶太の心を引き裂いた。
その夜、慶太は緊急で拓也に会うことにした。建設現場近くの駐車場で、午後九時に待ち合わせた。
拓也が現れた時、慶太は弟の変化に驚いた。以前にも増して痩せており、頬はこけ、目は落ち窪んでいた。
「兄さん、どうしたの?緊急だって...」
「母さんが君の部屋を片付けようとしてる」
拓也の顔が青ざめた。
「どういうこと?」
慶太は美津子との会話を詳しく説明した。母親の絶望、諦めの気持ち、そして息子の死を受け入れようとする心境の変化。
「そんな...」拓也が震え声で言った。
「母さんはもう限界なんだ。四年間の苦痛に耐えられなくなってる」
拓也は拳を握りしめた。
「俺のせいで...俺のせいで母さんが...」
「拓也、もう限界だ」慶太が強い口調で言った。「このままじゃ母さんが壊れてしまう」
「でも、俺は...」
「麻衣さんのことは悲しい事故だった。でも、そのために家族全員が犠牲になる必要はない」
拓也は首を横に振った。
「兄さんにはわからない。人を死なせた罪の重さが」
「わかろうとしてる!」慶太が声を荒げた。「でも、君の罪悪感のために、母さんが精神的に病んでしまってもいいのか?」
拓也は答えることができなかった。
「父さんだって同じだ。表面上は冷静を装ってるけど、内心では深く傷ついてる」
「それは...」
「俺だって限界なんだ」慶太の声が震えた。「君の秘密を抱えることに疲れた。亜希とも別れることになりそうだし、仕事もうまくいかない」
拓也は初めて、兄が自分の秘密によってどれだけ苦しんでいるかを理解した。
「ごめん...ごめん、兄さん」
「謝るだけじゃダメだ。何か行動を起こさなければ」
「でも、家に帰ることはできない。麻衣の両親が...」
「なら、せめて生きてることだけでも伝えよう」
慶太の提案に、拓也は迷いを見せた。
「手紙でもいい。電話でもいい。とにかく、生きてることを伝えよう」
長い沈黙があった。拓也は顔を覆って泣いていた。四年間の逃避、家族への愛情、自分への憎悪。すべてが混じり合った複雑な感情が、彼の中で渦巻いていた。
「時間をくれ」拓也がやっと答えた。「考えさせて」
「いつまで?」
「一週間。一週間で答えを出す」
慶太は頷いた。これ以上急かしても、拓也を追い詰めるだけだった。
別れ際、拓也が慶太に言った。
「兄さん、俺のせいで君の人生を台無しにして、本当にごめん」
「台無しになんてなってない」慶太は優しく答えた。「ただ、一緒に解決策を見つけよう」
家に帰る途中、慶太は自分の状況を冷静に分析してみた。体調不良、仕事でのミス、恋人との関係悪化。すべてが拓也の秘密を抱えることから始まっていた。
しかし、後悔はしていなかった。弟を見捨てることはできない。ただ、このまま続けていけば、慶太自身が壊れてしまうかもしれなかった。
翌日、慶太は仕事中に倒れた。疲労とストレスによる過労だった。同僚に病院に運ばれ、点滴を受けることになった。
「桜井さん、最近働きすぎですよ」
担当医が心配そうに言った。
「大丈夫です。ちょっと疲れただけで」
「血液検査の結果を見ると、相当なストレスを受けてますね。何か心配事でも?」
慶太は首を横に振った。医師にも真実を話すことはできなかった。
病院のベッドで横になっていると、携帯電話が鳴った。美津子からだった。
「慶太、大変よ!」
母親の声は慌てていた。
「どうしたの?」
「拓也のことで、情報があったの!」
慶太の心臓が激しく鼓動した。
「情報って?」
「隣町の建設現場で働いてる人が、拓也に似た人を見たって言うのよ!」
慶太は血の気が引いた。誰かが拓也を目撃していたのだ。
「本当なの?」
「わからないけど、村上さんが調べてくれるって」
慶太は頭が真っ白になった。警察が動けば、拓也の居場所がばれてしまう可能性がある。
「母さん、それは...」
「もしかしたら、拓也が帰ってくるかもしれないのよ!」
美津子の声は興奮していた。四年ぶりの希望の光だった。
電話を切った後、慶太は急いで拓也に連絡を取った。
「もしもし」
「大変だ。君の目撃情報が警察に入った」
「え?」
慶太は美津子から聞いた話を説明した。拓也の反応は、慶太が予想していた通りだった。
「もうダメだ...」拓也の声は絶望的だった。
「逃げるのか?」
「逃げるしかない。また別の場所に行く」
「いつまで逃げ続けるつもりだ?」
「わからない。でも、今は逃げるしかない」
慶太は無力感に襲われた。この悪循環は、いつまで続くのだろうか。
その夜、慶太は病院のベッドで眠れずにいた。家族の期待、拓也の恐怖、自分の限界。すべてが複雑に絡み合って、解決策が見えなかった。
看護師が様子を見に来た時、慶太は涙を流していた。
「大丈夫ですか?どこか痛みますか?」
「いえ、大丈夫です」
慶太は涙を拭いて答えた。しかし、心の痛みは誰にも癒すことができなかった。
翌朝、慶太は病院を退院した。体調は少し回復したが、精神的な疲労は変わらなかった。
市役所に出勤すると、同僚たちが心配してくれた。
「桜井さん、無理しないでくださいね」
「何かあったら、すぐに相談してください」
みんなの優しさが、かえって慶太を苦しめた。彼らは慶太のことを心配してくれているのに、慶太は重大な秘密を隠している。
昼休みに、慶太は拓也から電話を受けた。
「兄さん、決めた」
「何を?」
「俺、もう一度逃げる。でも、その前に家族に手紙を書く」
慶太は安堵した。
「何を書くつもりだ?」
「生きてることと、家族への感謝。そして、もう探さないでほしいって」
それは完璧な解決策ではなかったが、現状では最良の選択かもしれなかった。
「いつ手紙を送る?」
「今週末。それから、すぐにここを離れる」
慶太は複雑な気持ちだった。家族に真実の一部を伝えることで、彼らの苦痛は軽減されるかもしれない。しかし、拓也はまた別の場所で孤独な生活を続けることになる。
「連絡先は教えてくれるのか?」
「しばらくは連絡を絶つ。兄さんにも迷惑をかけたくない」
「そんな...」
「兄さん、今まで本当にありがとう。俺のために苦しい思いをさせて、申し訳なかった」
拓也の言葉が、慶太の胸を締め付けた。
「気にするな。君は俺の大切な弟だ」
「いつか、また会えるといいな」
「きっと会える」
電話を切った後、慶太は深いため息をついた。これで、少なくとも家族の苦痛は和らぐかもしれない。しかし、根本的な解決にはならなかった。
その週末、桜井家に一通の手紙が届いた。差出人は「拓也」とあった。家族は震える手で封を開けた。
「家族へ。僕は生きています。心配をかけて申し訳ありませんでした。事情があって家に帰ることはできませんが、元気にやっています。どうか、僕のことはもう探さないでください。そして、どうか幸せになってください。拓也」
手紙を読んだ美津子は、泣き崩れた。しかし、それは悲しみだけの涙ではなかった。息子が生きているという安堵の涙でもあった。
和夫は黙って手紙を読み返していた。息子が生きていることへの喜びと、帰ってこないという現実への複雑な感情を抱いていた。
慶太は家族の様子を見ながら、少しだけ心が軽くなったような気がした。完全な解決ではないが、一歩前進したのかもしれない。
しかし、この手紙が新たな問題の始まりになるとは、その時の慶太には想像もできなかった。
## 第六章 新たな苦悩
拓也からの手紙が届いてから一週間が過ぎた。桜井家の雰囲気は大きく変わっていた。息子が生きているという安堵感と、それでも帰ってこないという現実の間で、家族それぞれが複雑な感情を抱いていた。
慶太は実家を訪れ、家族の様子を確認していた。美津子は以前より表情が明るくなっていたが、時折深いため息をついていた。
「拓也は生きてるのよ。それだけでも十分」
美津子は自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、その声には満足しきれない何かがあった。
和夫は書斎で拓也の手紙を何度も読み返していた。息子の筆跡、言葉遣い、すべてが懐かしく、同時に切なかった。
「慶太、お前はどう思う?」和夫が息子に問いかけた。
「どう思うって?」
「拓也の手紙。何か隠してることがあるような気がするんだ」
慶太の心臓が激しく鼓動した。父親の直感は鋭かった。
「隠してることって?」
「手紙の内容が曖昧すぎる。なぜ帰れないのか、どこにいるのか、何も書いてない」
確かに、拓也の手紙は具体的な内容を避けていた。家族を安心させつつ、追跡されないようにする配慮だった。
「でも、無事だってことがわかっただけでも...」
「それはそうだが」和夫は眉をひそめた。「息子に何があったのか、父親として知りたい」
慶太は答えに窮した。父親の気持ちは理解できるが、真実を話すことはできなかった。
その時、美津子が居間に入ってきた。
「あなたたち、何の話?」
「拓也の手紙のことだよ」和夫が答えた。
「また?」美津子は少し疲れた表情を見せた。「もう十分じゃない?無事だってわかったんだから」
「でも、なぜ帰ってこられないのか...」
「事情があるのよ。きっと話せない理由があるの」
美津子の言葉は、ある意味で真実だった。しかし、その事情を知っているのは慶太だけだった。
「もし拓也に会えたら、何を話したい?」慶太が試しに聞いてみた。
美津子は即座に答えた。
「抱きしめてあげたい。そして、もう心配させないでって言いたい」
和夫は少し考えてから答えた。
「なぜ連絡しなかったのか、まず聞きたい。そして、今度は家族を信頼してほしいと伝えたい」
二人の言葉を聞いて、慶太は胸が痛んだ。家族の愛情は深く、拓也への思いは変わらない。しかし、その拓也は自分の罪悪感に押し潰されて、家族から離れている。
その夜、慶太は亜希から久しぶりに電話を受けた。
「慶太君、元気?」
亜希の声は以前より距離を感じさせた。
「まあ、なんとか」
「弟さんから手紙が届いたって聞いたけど」
「どこで聞いたの?」
「田中さんから。市役所で噂になってるみたい」
慶太は苦笑いした。小さな町では、すぐに情報が広まってしまう。
「そうか...」
「よかったね。生きてることがわかって」
亜希の言葉は優しかったが、どこか他人行儀だった。
「亜希、俺たちのこと...」
「今は考えたくない」亜希が遮った。「君が心を開いてくれるまで、距離を置きたい」
慶太は何も言えなかった。亜希の気持ちは理解できるし、彼女には幸せになってもらいたかった。
「いつか、すべて話せる日が来るかもしれない」
「その時を待ってる」亜希の声は少し和らいだ。「でも、あまり長くは待てないかも」
電話を切った後、慶太は深い孤独感に襲われた。家族には秘密を隠し、恋人とは距離を置き、弟とは連絡が取れない。彼の周りから、大切な人たちが少しずつ離れていっているような気がした。
翌日、慶太は市役所で村上刑事に呼び出された。
「桜井さん、弟さんからの手紙について話を聞かせてください」
村上刑事は相変わらず真摯な表情だった。
「特に変わったことは...」
「手紙の消印を調べました。関東地方の某県から発送されています」
慶太は緊張した。警察の捜査能力を甘く見ていた。
「その地域に心当たりはありませんか?」
「特には...」
慶太は嘘をつくことに慣れてしまった自分に嫌悪感を抱いた。
「手紙の内容も気になります。なぜ帰れないのか、理由が書かれていない」
「本人にしかわからない事情があるんでしょう」
村上刑事は慶太の表情を注意深く観察していた。
「桜井さん、何か隠していることはありませんか?」
「隠してることって?」
「弟さんに関する情報です。些細なことでも構いません」
慶太は心の中で謝りながら答えた。
「何もありません」
村上刑事は納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
「もし何か思い出したら、すぐに連絡してください」
慶太は頷いて警察署を後にした。歩きながら、自分がどんどん深い嘘の渦に巻き込まれていることを実感した。
その日の夕方、慶太は建設現場近くを通りかかった。もしかしたら拓也がまだいるかもしれないと思ったが、現場には知らない作業員ばかりがいた。拓也は約束通り、別の場所に移ったようだった。
家に帰ると、母から電話があった。
「慶太、大変なことになったの」
美津子の声は慌てていた。
「どうしたの?」
「麻衣ちゃんのお母さんから電話があったのよ」
慶太の血の気が引いた。
「麻衣ちゃんって?」
「拓也の元恋人の...あの事故で亡くなった子よ」
慶太は頭が真っ白になった。なぜ麻衣の母親が美津子に連絡を取ったのか。
「何て言ってたの?」
「拓也からの手紙のことを聞いたみたい。新聞に載ったから」
そうか、行方不明者からの手紙というのは、ニュース性があったのだ。
「それで?」
「会って話したいって言うのよ。四年ぶりに」
慶太は最悪の展開を想像した。麻衣の母親が美津子に真実を話してしまう可能性がある。
「会うつもりなの?」
「もちろんよ。あの子のお母さんとは、昔は仲良くしてもらってたから」
慶太は必死に止めようとした。
「でも、相手も辛い思いをしてるかもしれないし...」
「だからこそ、会って話をしたいの。お互いの傷を癒せるかもしれない」
美津子の善意が、状況をさらに複雑にしようとしていた。
「明日の午後、喫茶店で会うことになってるの」
慶太は頭を抱えた。明日、美津子は麻衣の母親と会う。そこで拓也の真実が明かされる可能性がある。
その夜、慶太は拓也の古い携帯電話番号に何度も電話をかけたが、繋がらなかった。番号を変えたか、解約したのかもしれない。
眠れない夜を過ごした慶太は、翌日仕事を休んで美津子の後を追うことにした。喫茶店の外から、二人の会話を見守るつもりだった。
午後二時、美津子は約束の喫茶店に向かった。慶太は少し離れた場所から、店内の様子を伺っていた。
美津子と麻衣の母親が向かい合って座っているのが見えた。二人とも真剣な表情で話していた。
三十分ほど経った時、美津子の表情が変わった。驚いたような、困惑したような顔になった。麻衣の母親が何かを説明しているようだった。
慶太の心臓が激しく鼓動した。きっと、拓也と麻衣の関係について話しているのだ。
一時間後、美津子が喫茶店から出てきた。その顔は青ざめており、足取りも覚束なかった。
慶太は急いで美津子の後を追った。
「母さん」
美津子は振り返ると、慶太を見て安堵したような表情を見せた。
「慶太...」
「どうしたの?顔色が悪いよ」
美津子は答えられずにいた。しばらくしてから、震え声で言った。
「拓也のこと...本当のことを聞いたの」
慶太の心臓が止まったような気がした。
「本当のことって?」
「麻衣ちゃんの事故のこと。拓也がどれだけ自分を責めてるか」
美津子は立ち止まり、慶太を見つめた。
「なぜ教えてくれなかったの?拓也がそんなに苦しんでいたなんて」
慶太は答えることができなかった。
「あの子は自分のせいで麻衣ちゃんが死んだと思ってるのね。だから家に帰れないんだ」
美津子の涙が頬を伝った。
「私たちは何も知らずに、ただ帰ってきてほしいと思ってた。でも、拓也にとっては帰ることが一番辛いことだったんだ」
慶太は母親の言葉を聞いて、胸が締め付けられるような思いがした。
「母さん...」
「拓也を探さなければ」美津子が決意を込めて言った。「見つけて、抱きしめてあげたい。一人で苦しませてはいけない」
慶太は新たな問題の始まりを予感した。母親が真実を知ったことで、状況はさらに複雑になってしまった。
その夜、慶太は一人でアパートにいた。拓也と連絡が取れない今、彼は完全に孤立していた。家族は真実を知り、新たな捜索を始めようとしている。拓也は逃亡し、居場所がわからない。
すべてが慶太の手から離れていく中で、彼は自分の無力さを痛感していた。そして、この状況がどこに向かっているのか、もはや予測することもできなかった。
## 第七章 追い詰められる真実
麻衣の母親との面会から三日が過ぎた。美津子の態度は劇的に変化していた。以前のような諦めに近い絶望感は消え、代わりに強い決意が宿っていた。
「拓也を見つけなければ」
美津子は和夫と慶太を前に、きっぱりと言った。
「あの子は一人で苦しんでる。事故のことを自分のせいだと思い込んで、家族からも離れてしまった」
和夫は妻の話を聞いて、初めて息子の失踪の真相を理解した。
「そういうことだったのか...」
「麻衣ちゃんのお母さんも言ってたわ。あれは事故だった。誰も悪くないって」
美津子の言葉に、慶太は複雑な心境だった。確かに、拓也に法的な責任はない。しかし、彼の罪悪感は簡単には消えないだろう。
「でも、拓也はそう思ってない」和夫が言った。「責任を感じているから、帰ってこられないんだ」
「だからこそ、見つけて話をしなければ」美津子の声は強かった。「家族がそばにいることを伝えたい」
慶太は内心で焦っていた。家族が本格的に拓也を探し始めれば、いずれ見つかってしまうかもしれない。そうなれば、自分が秘密を知っていたことも露見する。
「でも、手紙では探さないでほしいって書いてあったよ」慶太が言った。
「あの子の本心じゃないわ」美津子が即座に反論した。「本当は助けてほしいのよ。でも、迷惑をかけたくないから、そう書いただけ」
母親の直感は恐ろしいほど正確だった。拓也は確かに助けを求めていた。しかし、それを表現することができずにいた。
「どうやって探すつもりだ?」和夫が聞いた。
「手紙の消印から、関東地方にいることはわかってる。村上さんにも協力してもらって、本格的に捜索を始めましょう」
慶太の頭の中で警報が鳴った。警察が本格的に動けば、拓也は確実に見つかってしまう。
「でも、拓也が嫌がるかもしれない」
「それでも構わない」美津子の決意は固かった。「家族なんだから、一緒に苦しみを分かち合うべきよ」
その夜、慶太は必死に拓也の連絡先を探した。古い友人、同級生、バイト先の同僚。思いつく限りの人に連絡を取ったが、誰も拓也の居場所を知らなかった。
翌日、美津子は村上刑事に会いに行った。慶太も同席したが、内心では冷や汗をかいていた。
「奥さんのお話はよくわかりました」村上刑事が言った。「確かに、弟さんは深い心の傷を負っているようですね」
「何とか見つけてもらえませんか?」美津子が懇願した。
「手紙の消印から、ある程度の地域は特定できています。関東地方の建設現場を中心に調査を進めてみましょう」
慶太の血の気が引いた。警察の捜査網は思っているより広範囲に及ぶのだ。
「ただし、本人が発見を望んでいない場合は、強制的に連れ戻すことはできません」村上刑事が付け加えた。
「それでも構いません。拓也と話ができれば」
美津子の言葉に、村上刑事は頷いた。
「わかりました。できる限りの協力をします」
警察署を出た後、慶太は母親に言った。
「本当に拓也を探すの?」
「当然よ。あの子を一人にしておけない」
「でも、見つかったとしても、拓也が帰ってくるとは限らない」
「それでもいいの。ただ、一人じゃないってことを伝えたい」
慶太は母親の強い意志に圧倒された。四年間の絶望を乗り越えて、今度は息子を救うという新たな目標を見つけたのだ。
その日の夕方、慶太は亜希から電話を受けた。
「慶太君、大丈夫?声が疲れてるけど」
「いろいろあってね」
「弟さんのこと?」
慶太は一瞬、すべてを話したいという衝動に駆られた。しかし、拓也への約束が彼を縛っていた。
「家族が拓也を探そうとしてるんだ」
「それはいいことじゃない?」
「そうなんだけど...複雑なんだ」
亜希は慶太の声の調子から、何かを察したようだった。
「慶太君、君は何か知ってるんじゃない?」
「何を?」
「弟さんのこと。なぜそんなに複雑そうなの?」
慶太は答えることができなかった。
「もしかして、弟さんがどこにいるか知ってるの?」
亜希の直感の鋭さに、慶太は驚いた。
「そんなことない」
「嘘でしょう」亜希の声は確信に満ちていた。「君の態度を見てればわかる」
慶太は沈黙した。
「なぜ家族に教えないの?」
「亜希...」
「もし本当に知ってるなら、それは家族への裏切りよ」
亜希の言葉が、慶太の胸を突き刺した。
「事情があるんだ」
「どんな事情?」
慶太は答えることができなかった。電話越しに、亜希のため息が聞こえた。
「いつか、君が真実を話してくれることを願ってる」
電話が切れた後、慶太は深い孤独感に襲われた。最も愛する人からも理解してもらえない状況に、彼は追い詰められていた。
翌週、村上刑事から連絡があった。
「関東地方の建設現場で働いていた田中拓也という人物について情報を得ました」
慶太の心臓が止まったような気がした。拓也が使っていた偽名だった。
「どんな情報ですか?」美津子が興奮して聞いた。
「三週間前まで、群馬県の建設現場で働いていたようです。しかし、現在は退職して行方がわからなくなっています」
「間違いなく拓也ですね?」
「写真を確認してもらえますか?」
村上刑事が建設会社から提供された従業員写真を見せた。それは間違いなく拓也だった。
「拓也よ!間違いない!」美津子が泣き出した。
慶太は複雑な気持ちだった。拓也が見つかったことは良いことだが、同時に自分の秘密も危険にさらされていた。
「現在の居場所は不明ですが、近隣の建設現場を中心に調査を続けます」村上刑事が説明した。
「お願いします」美津子が頭を下げた。
その夜、慶太は悪夢にうなされた。拓也が警察に連行される夢、家族が慶太の嘘を知って怒る夢、亜希が慶太を見捨てる夢。すべてが混じり合った悪夢だった。
目を覚ますと、携帯電話が鳴っていた。知らない番号からだった。
「もしもし」
「兄さん?」
拓也の声だった。慶太は飛び起きた。
「拓也!どこにいるんだ?」
「それは言えない。でも、警察が俺を探してるって聞いた」
「そうだ。母さんが麻衣さんのお母さんと会って、真実を知ったんだ」
「そんな...」
拓也の声は絶望的だった。
「どうしよう、兄さん。もうダメかもしれない」
「落ち着け。まだ大丈夫だ」
「でも、もし見つかったら...」
「その時はその時だ。一人で抱え込むな」
拓也は泣いているようだった。
「兄さん、俺のせいで迷惑をかけて本当にごめん」
「謝るな。俺たちは家族だ」
「でも...」
「拓也、今どこにいる?」
「東北の方に移った。でも、長くはいられないかもしれない」
「連絡は取り続けよう。一人じゃないから」
「ありがとう、兄さん」
電話を切った後、慶太は深く考え込んだ。状況は刻々と変化していた。警察の捜査は進展し、家族の捜索意欲は高まっている。一方で、拓也はさらに遠くに逃げてしまった。
この状況を解決する方法はあるのだろうか。慶太は答えを見つけることができずにいた。
翌朝、慶太が市役所に出勤すると、同僚たちが彼を見る目が変わっていることに気づいた。
「桜井さん、弟さんが見つかったんですってね」田村が声をかけた。
「見つかったというか...手がかりが見つかっただけです」
「でも、よかったじゃないですか」
慶太は曖昧に微笑んだ。しかし、内心では複雑な感情を抱いていた。
昼休みに、慶太は一人で考え込んでいた。このまま状況を放置すれば、いずれ拓也は見つかってしまう。その時、自分が秘密を知っていたことも露見するだろう。
家族への裏切り、恋人への嘘、そして弟への約束。すべてが複雑に絡み合って、慶太は身動きが取れずにいた。
夕方、慶太は重大な決断を下した。もう限界だった。すべてを家族に話そう。拓也の居場所、秘密を知っていたこと、そして自分の苦悩。
しかし、その決断を実行に移す前に、一つだけやらなければならないことがあった。拓也に最後の説得を試みることだった。
その夜、慶太は拓也に電話をかけた。しかし、電話は繋がらなかった。番号を変えたのか、電波の届かない場所にいるのか。
慶太は孤独の中で、最終的な決断を迫られていた。このまま秘密を守り続けるか、それとも真実を話すか。どちらを選んでも、誰かが傷つくことになる。
夜更けまで考え続けた慶太は、ついに結論に達した。明日、家族にすべてを話そう。その決断が正しいかどうかはわからないが、もう嘘をつき続けることはできなかった。
しかし、その決断を実行する前に、運命が慶太を別の方向に導くことになる。
## 第八章 崩壊と決断
翌朝、慶太は家族に真実を話す決意を固めて実家に向かった。しかし、家に着くと異様な雰囲気が漂っていた。
「慶太、大変なのよ」
美津子が青い顔で迎えた。
「どうしたの?」
「お母さんが倒れたの」
慶太は驚愕した。
「倒れたって?」
「昨夜、拓也の部屋で意識を失って...救急車で運ばれたの」
慶太の頭が真っ白になった。
「今はどこに?」
「市立病院よ。お父さんが付き添ってる」
慶太は急いで病院に向かった。集中治療室の前で、和夫が憔悴しきった表情で座っていた。
「父さん、母さんの様子は?」
「医師によると、極度のストレスによる心因性の意識障害だって」和夫の声は震えていた。
「心因性って...」
「精神的な負荷が限界を超えたんだ。拓也のこと、麻衣さんの話、そして捜索への焦り...すべてが重なった」
慶太は自分の責任を痛感した。もし、もっと早く真実を話していれば、母親がこんなことになることはなかった。
「面会はできるの?」
「医師と相談してみよう」
担当医の説明によると、美津子の状態は安定しているが、精神的なケアが必要だということだった。
「ご家族の方に質問があります」医師が言った。「患者さんは、何か大きな秘密や悩みを抱えていませんでしたか?」
慶太と和夫は顔を見合わせた。
「息子の失踪のことで...」和夫が答えた。
「それ以外にも、何か隠し事や心配事があったような様子は?」
医師の質問が、慶太の胸を突き刺した。母親は何かを感じていたのかもしれない。息子が秘密を隠していることを。
「わかりません」慶太が答えた。しかし、その声は震えていた。
病室で眠っている美津子を見て、慶太は涙が止まらなかった。やせ細った母親の顔は、四年間の苦悩をすべて物語っていた。
「母さん、ごめん」
慶太は小さくつぶやいた。しかし、その言葉は美津子には届かなかった。
その時、携帯電話が鳴った。拓也からだった。
「兄さん、母さんが入院したって聞いた」
「どこで聞いたんだ?」
「ニュースになってる。『行方不明者家族、母親が緊急搬送』って」
慶太は愕然とした。この町では、すぐに情報が広まってしまう。
「俺のせいだ...俺のせいで母さんが...」拓也の声は泣いていた。
「そうじゃない」
「でも、俺が家にいれば、こんなことにはならなかった」
「拓也、落ち着け」
「もうダメだ。俺はもう生きていちゃいけないんだ」
拓也の言葉に、慶太は恐怖を感じた。
「何を言ってる?」
「すべて俺のせいなんだ。麻衣も、母さんも、兄さんの苦しみも」
「やめろ、そんなこと言うな」
「兄さん、今まで本当にありがとう。でも、もう終わりにする」
「拓也!」
電話が切れた。慶太は血の気が引いた。拓也が自殺を考えているのではないか。
慶太は急いで病院を出て、警察署に向かった。もう秘密を守っている場合ではなかった。
「村上さん、お願いがあります」
慶太は必死の表情で村上刑事に頼んだ。
「どうしました?」
「拓也の居場所を知ってるんです」
村上刑事は驚いた。
「知ってるって?」
「実は、二ヶ月前から拓也と連絡を取っていました」
慶太はすべてを話した。偶然の再会、拓也の事情、秘密を守った理由、そして今日の電話での不穏な発言。
村上刑事は真剣に聞いていた。
「なぜもっと早く教えてくれなかったんですか?」
「拓也が頼んだんです。家族に迷惑をかけたくないって」
「しかし、結果的にご家族はより苦しむことになった」
慶太は頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「今、弟さんはどこに?」
「東北地方だと思います。でも、正確な場所は...」
「連絡は取れますか?」
「さっき電話したら、危険なことを言ってました。自殺を考えてるかもしれません」
村上刑事の表情が変わった。
「すぐに各県警に連絡します。携帯電話の位置情報からも特定を試みましょう」
慶太は安堵した。ついに、すべてを打ち明けることができた。
「桜井さん、一つ聞かせてください」村上刑事が言った。「なぜ今、真実を話す気になったんですか?」
「母が倒れたからです。もう、これ以上家族を苦しめることはできない」
村上刑事は頷いた。
「弟さんを見つけたら、すぐに連絡します」
慶太は警察署を出て、再び病院に戻った。美津子はまだ眠っていた。和夫に、警察署での出来事を報告した。
「そうか、お前は拓也の居場所を知っていたのか」
和夫の声は責めるトーンではなかった。
「すみませんでした」
「いや、お前も苦しかったんだろう」和夫が慶太の肩に手を置いた。「拓也のことを思ってのことだったんだから」
父親の理解に、慶太は救われた気持ちになった。
「でも、なぜ教えてくれなかったんだ?」
慶太は拓也の事情を詳しく説明した。麻衣の事故、罪悪感、家族への配慮。すべてを聞いた和夫は、深いため息をついた。
「あの子は優しすぎるんだ。すべてを自分で背負い込んでしまう」
「そうです。だから、家族に迷惑をかけたくないって」
「迷惑だなんて...」和夫の目から涙が流れた。「家族なのに」
その時、村上刑事から電話があった。
「見つかりました」
慶太は心臓が止まったような気がした。
「どこにいるんですか?」
「福島県の山間部です。しかし、状況は良くありません」
「どういうことですか?」
「橋の上にいて、今にも飛び降りそうな状況です。すでに現地の警察が説得を開始しています」
慶太は頭が真っ白になった。
「すぐに向かいます」
「危険ですから、近づかないでください。しかし、もしかしたらご家族の声が必要かもしれません」
慶太は和夫に状況を説明した。二人は急いで病院を出て、福島県に向かった。
車の中で、慶太は自分の過去の行動を振り返っていた。拓也の秘密を守ったこと、家族に嘘をついたこと、恋人を傷つけたこと。すべてが混乱の原因だった。
しかし、今は後悔している時間はない。拓也を救わなければならない。
「拓也、待ってくれ」
慶太は心の中で弟に呼びかけた。絶対に死なせはしない。今度こそ、家族で一緒に問題を解決するのだ。
福島県に向かう車の中で、慶太は携帯電話を握りしめていた。拓也に連絡を取ろうと何度も試したが、電話は繋がらなかった。
「大丈夫だ」和夫が運転しながら言った。「拓也は強い子だ。きっと踏みとどまってくれる」
しかし、慶太は不安でたまらなかった。母親の入院、自分の秘密の露見、そして今、弟の命が危険にさらされている。
すべてが一度に崩れ去ろうとしていた。しかし、同時に慶太は気づいていた。これが新しい始まりなのかもしれないと。
秘密を隠し続けることの限界を超えた今、家族は初めて真実と向き合うことができる。痛みを伴うかもしれないが、それが唯一の道なのだ。
車は高速道路を北に向かって走り続けていた。慶太の心は、弟への愛と自分への後悔で満たされていた。
「拓也、待ってくれ」
慶太は再び心の中で呼びかけた。今度こそ、すべてを正直に話そう。そして、一緒に新しい人生を始めよう。
しかし、その願いが叶うかどうかは、まだわからなかった。
## 第九章 新たな出発
福島県の山間部にある橋に到着した時、既に現場は騒然としていた。パトカーと救急車が待機し、警察官たちが拓也の説得を続けていた。
慶太と和夫は警察の指示で、少し離れた場所に車を止めた。橋の上に、小さく見える人影があった。間違いなく拓也だった。
「桜井さん」
現場責任者の警察官が近づいてきた。
「弟さんは二時間前からあそこにいます。何度も説得を試みましたが、応じてくれません」
慶太は胸が張り裂けそうになった。
「話をさせてください」
「危険です。刺激を与えると...」
「お願いします。家族の声が必要だって、村上さんが言ってました」
警察官は迷った後、慶太にマイクを渡した。
「あまり近づかず、落ち着いて話してください」
慶太はマイクを握りしめ、橋に向かって歩いた。五十メートルほど離れた場所で止まり、拡声器を通して呼びかけた。
「拓也、兄さんだ」
橋の上の人影が、わずかに動いた。
「家に帰ろう」
慶太の声は震えていた。
「兄さん...なぜ来たんだ」
拓也の声が風に乗って聞こえた。
「お前を迎えに来たんだ」
「もうダメなんだ。俺は...俺は人殺しなんだ」
「違う!」慶太が強く叫んだ。「お前は何も悪くない!」
長い沈黙があった。
「麻衣さんのお母さんも言ってるんだ。あれは事故だったって」
「でも...」
「母さんが倒れた」
慶太の言葉に、拓也は動揺した。
「お前のせいじゃない。俺のせいだ。お前の秘密を守ろうとして、嘘をつき続けた俺のせいだ」
「兄さん...」
「一人で背負い込むな。家族なんだから、一緒に苦しもう」
慶太の言葉が、風に乗って拓也に届いた。
その時、和夫がマイクを受け取った。
「拓也、父さんだ」
「父さん...」
「お前を責めたことは一度もない。ただ、心配してるんだ」
和夫の声は優しかった。
「四年間、お前がどこで何をしているか、毎日考えていた。でも、一番知りたかったのは、お前が幸せかどうかだった」
拓也は泣いているようだった。
「幸せじゃない...毎日が苦しくて、生きてるのが辛い」
「なら、一緒に苦しもう」和夫が言った。「家族なんだから」
慶太は父親の言葉に感動した。和夫は普段感情を表に出さないが、今は愛情をストレートに表現していた。
「でも、麻衣の両親が...」
「麻衣さんのお母さんと話したんだ」
美津子の声が聞こえた。慶太が振り返ると、病院から抜け出してきた母親がそこにいた。点滴用の管を腕に付けたまま、看護師に支えられて立っていた。
「母さん、どうして...」
「拓也の声が聞こえたの。息子を呼ぶ母親の声よ」
美津子はマイクを受け取った。
「拓也、お母さんよ」
「母さん...ごめん、ごめん」
拓也の声は泣き声になっていた。
「あなたが謝る必要はないの。麻衣ちゃんのお母さんも言ってたわ。あれは事故だった。誰も悪くないって」
「でも...」
「麻衣ちゃんのお母さんは、あなたを恨んでなんかいない。ただ、悲しかっただけ。そして今は、あなたが苦しんでることを心配してるのよ」
美津子の言葉に、現場にいた全員が涙を流していた。
「家に帰りましょう。みんなでいる方が、きっと麻衣ちゃんも喜ぶわ」
拓也は橋の欄干から身を離した。そして、ゆっくりと家族の方に歩いてきた。
慶太は走って拓也を迎えに行った。四年ぶりの再会だった。
「拓也」
「兄さん」
二人は抱き合って泣いた。続いて和夫も、美津子も。家族四人が、ついに一つになった瞬間だった。
それから三ヶ月後、桜井家は以前とは違う家族になっていた。
拓也は心療内科でカウンセリングを受けながら、ゆっくりと回復していた。麻衣の両親とも和解し、彼女の墓参りにも一緒に行くようになった。
美津子も体調を回復し、息子が家にいる安心感から、表情は明るくなっていた。
和夫は退職後の時間を使って、拓也と過ごす時間を大切にしていた。今まで言えなかった想いを、少しずつ伝えている。
慶太は亜希と関係を修復し、すべての真実を話した。最初は怒っていた亜希も、慶太の苦悩を理解し、二人の絆はより深くなった。
ある日の夕方、家族四人と亜希でテーブルを囲んでいた。
「拓也、最近顔色がいいね」亜希が言った。
「おかげさまで。まだ完全じゃないけど、少しずつ前向きになれてる」
拓也の笑顔は、四年前のような屈託のないものではなかったが、確実に回復の兆しを見せていた。
「慶太も元気になったね」美津子が息子を見て言った。
「秘密を抱えてるのって、こんなに辛いものだと思わなかった」慶太が苦笑いした。
「でも、君が拓也を守ろうとしてくれたから」和夫が言った。「家族の絆がより深くなった」
慶太は父親の言葉に感謝した。最初は自分の行動を後悔していたが、今では必要なプロセスだったのかもしれないと思えるようになった。
「みんな、ありがとう」拓也が静かに言った。「俺一人じゃ、きっと乗り越えられなかった」
「家族なんだから当然よ」美津子が優しく答えた。
その夜、慶太と拓也は二人で話をしていた。
「兄さん、本当にありがとう。俺の秘密を守ってくれて」
「いや、守りきれなかった。結局、みんなに迷惑をかけた」
「そうじゃないよ」拓也が首を振った。「兄さんがいなかったら、俺はもっと早く壊れてた」
慶太は弟の言葉に救われた。
「これからは、何でも家族で相談しよう」
「そうだね。秘密は、もう疲れた」
二人は笑った。
数日後、慶太は麻衣の墓前にいた。拓也と一緒に来ていた。
「麻衣さん、拓也を許してください」
慶太が心の中で祈った。
「そして、見守っていてください。拓也が幸せになれるように」
拓也も手を合わせて、長い間祈っていた。
墓地を出る時、拓也が慶太に言った。
「麻衣への罪悪感は、きっと一生消えない。でも、それも含めて、俺の人生なんだと思う」
「そうだな」
「兄さんも、俺のために苦しんでくれた。その恩は一生忘れない」
「恩なんて考えるなよ。俺たちは家族だから」
二人は並んで歩きながら、新しい未来について話し合った。
完璧な解決ではないかもしれない。傷は残り、時々痛むこともあるだろう。しかし、家族が一緒にいれば、どんな困難も乗り越えられる。
桜井家の新しい物語は、まだ始まったばかりだった。
そして慶太は理解していた。秘密を抱えることの重さ、真実を話すことの勇気、そして家族の絆の強さを。
沈黙の居場所から解放された今、彼らの前には希望に満ちた未来が広がっていた。
【完】