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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

大西洋に浮かぶ〜人型の海棲哺乳類と僕〜

作者: アフー

はじめまして。作品を手に取ってくださりありがとうございます。

一九〇八 「海洋生物大辞典」

ウェムナ…海底に棲む人型の怪物。二十匹ほどの群れを形成し、個々の群れが近海を支配している。非常に野蛮で攻撃的。未知の言語を操り、ヒトのような腕で槍、網などの道具を扱う。ウェムナとは、彼らの言葉で「戦い」「餌食」を示す。


ゆらめく水面の先で、水平線が弧を描く。海に浮かぶ船体はゆりかごのようで、いつまでも眠っていられるような気がする。真っ白い光が波を照らし、僕を包む。

「マイル…マイル。時間だぞ。」

カーテンがざっと開く。僕はやっと状況を理解し、まぶたに当たるカーテンを払いのける。目を開けると、窓の外は変わらず青色で、時折水しぶきが白く輝いている。正面には見慣れた友人の顔がある。

「お前、今日は調理の担当だって言ってたよな。」

飛び起きて、カレンダーを見る。七月二十一日、六時半から食堂。すぐ上の時計は斜め左下を指している。

「あっ、ごめんなさい。」

友人の名はフィート。彼はネクタイを乱暴に留めて、ドアの前で仁王立ちしている。

「謝るのは後だ、早く行け。」

立ち上がり、鏡の前に向かう。頭はウニのようになっているが、そんなものを気にしている暇はない。制服に着替え、ネクタイを締め、帽子で頭のトゲを潰す。

「ぶはははっ」

無理やり帽子を被る僕の姿を見て、フィートが吹き出す。僕からしてみると、彼のネクタイの締め方のほうが面白い。

「はーい。通行止めでーす。」

フィートは両手を広げ、ドアを開けようとする僕をさえぎる。

「がはは、冗談だよ。さあ出発だ!厨房へゴー!」

おおげさに腕を振りながら廊下を走っていった。起こしに来てくれたのはありがたい。けれどもやはり、寝起きで彼のテンションについていくのは難しい。僕もあわててフィートの後を追った。

長い廊下を渡り、階段を上った先のドアを開けると厨房へ出る。空気には香草とエビの香りが溶けていて、僕もお腹が空いていることに気づいた。

「マイル、お前、どうしたんだい。寝坊なんて珍しいね。」

料理長のパウラが大量の皿を持って歩いてくる。

「ピザもサラダもスープもサンドイッチも、ぜーんぶできちゃったじゃないか。」

「ごめんなさい。…昨日、遅くまで本を読んでいて。」

彼女は皿を鍋の隣に置き、おたまで鍋から赤いスープをすくう。

「なんだって。なんの本を読んだんだい。」

スープがおたまからさらに移るとき、赤、緑、白、色とりどりの具材が見えた。今日のスープはガスパチョのようだ。

「あの、海の怪物について書いてある本。一昨日、街で買ったんだ。」

「ああ、ウェムナのことかい?あの人食い魚。」

スープが次々と皿に注がれていく。スープで満ちた皿はウェイターたちによって表へ運ばれていく。

「ここだけの話、あいつらの肉を食べたことがある。…あれは格別だったねぇ。」

パウラは舌なめずりをすると、皿を6つトレーに乗せ、客のいるテーブルへのしのしと歩いていった。

ウェムナ。古くから大西洋に住んでいるとされる、人型の魚だ。人よりずっと大きな体を持っていて、四肢には大きな爪があって、残忍で、凶暴で、破壊を好む。人間だって食ってしまう。パウラを含め、この船にいる大人はみんなそう言う。けれども、本に書いてあったのは、大昔、人間との関わりがあったことと、言語を持つことと…あと、大人たちの言っているのと同じことが書いてあった。

「おい、マイル。ボーッとしてないで、あんたも手伝ってくれよ。ピザ、頼んだよ。」

パウラが空のトレーを振り回して僕を呼んだ。僕も食器棚からトレーと皿を出し、オーブンの熱気に焼かれながらピザを取り出した。いい香りにも慣れてきて、しばらくは空腹を感じなかった。

小一時間、テーブルとキッチンを行き来した。提供はもう終わり、片付けが始まった。テーブルは次々と空いていったが、キッチンは変わらず騒がしかった。やがて、食器の擦れる音の代わりに、料理人たちの笑い声が聞こえてきた。僕らはトレーを持って、余った皿に余った料理を盛って、隣の休憩室で食べ始めた。

「マイル、昼食準備は十時十五分から。くれぐれも昼寝なんかするなよ。」

「わかってますってば。またあとで、よろしくお願いします。」

パウラは一足先に食べ終わったようで、休憩室をいち早く出ていった。かと思いきや、キッチンの端にあったトレーを持ち、またこちらへ向かってきた。トレーの上には皿が四つ乗っている。

「サーバンにこれ、届けてやってくれ。父さん、きっと腹をすかせてるぞ。…だいぶ冷めてしまったが、味が良いのに変わりはないさ。」

僕は意味もなくパウラに敬礼してみせた。パウラも敬礼を返す。パウラは背を向け、今度こそ休憩室を出ていった。僕は急いで自分の料理を食べた。そのあとエプロンを脱いで、父さんの分のトレーを運び始めた。

複雑な通路を歩き続け、船長室にたどり着いた。近くの円形のテーブルにトレーを置き、船長室の重いドアを力一杯引くと、白いソファに座っている父さんの顔が見えた。トレーを持ち、部屋に入る。朝だというのにカーテンは閉め切られていて、ランプの淡い光だけが僕らを照らす。ランプは四角いテーブルの上にあって、隣には使い古した灰皿が置かれている。

「父さん、おはよう。朝ご飯だよ。」

父さんと目が合う。温かさと冷たさがマーブル状になって顔に現れている。

「マイル。…おはよう。いつもすまないね。」

微笑んでいるのだろうが、目つきはどこか寂しげだ。父さんはタバコを灰皿で潰し、ため息をついた。それをみてやっと、部屋がタバコ臭いことに気づいた。

「マイル…来週の水曜日、ようやく十歳になるな。」

そうだった。僕は十歳になる。最近は忙しいから、誕生日のことなんてすっかり忘れていた。

父さんの頬がひきつる。

「もうすぐ誕生日だっていうのに、何の準備もできちゃいない。せいぜい、こうやって会うことだけしかできない。」

「それで充分だよ。」

「…そうか。」

父さんはまたタバコの火をつけようとして、やめた。

「…父さんは誰よりも強くて優しい人だよ。僕は、父さんのこと信じてるし、大好きだよ。」

「…そうか。」

さっきよりも自然な笑みを浮かべている。

「母さんも同じことを言っていたな」

また、哀しげな表情になった。

母さんは料理が上手だった。母さんの作るかぶのスープは街のレストランのよりもずっとおいしかった。父さんも僕もそのスープが大好きだった。家族のみんなが幸せだった。ずっとそうだったらよかったのに。

父さんは仕事のできる人だった。小さな船の航海士だった父さんは、上層部から高い評価を受け続け、ついには豪華客船の船長になってしまった。母さんも最初のうちは喜んでいた。しかし、父さんがなかなか帰ってこなくなると、寂しそうにすることが増えた。

気づいたら、父さんと母さんはしばしば喧嘩をするようになっていた。最終的に、母さんはめっきり帰ってこなくなった。父さんは、かつての自信を失い、暗いところでタバコばかり吸うようになった。

「そして…父さんみたいに、なるんじゃない。」

そう言ってまた僕を見る。その時ほんの一瞬、父親らしい顔が見えた。

「人間は弱い。…でも、大切なものを守るためには、強くならないといけない。マイル。強くなるんだ。父さんなんかよりもずっと。」

僕が返事をすると、父さんは深くうなずき、またタバコに火をつけた。


キッチンに戻り、トレーを洗い場に置く。厨房にはまだ誰もいなかったので、暇つぶしに海を見ることにした。甲板の端に行ってみると、パウラが双眼鏡を振り回していた。

「見ろ、カモメの群れだ。おおっ、今、イワシを獲ったぞ。」

やはり夏は、海の海らしい表情を見ることができる。パウラは双眼鏡を僕の顔の前に差し出す。大きな翼が海を打つと、水しぶきが舞って虹色に輝く。

「なあ、朝日ってどっちから昇ってきたと思う?」

パウラは少し不敵な笑みを浮かべて言う。

「えっと、東だよね。今、太陽があっち側にあるから…その反対側だよね。」

僕は太陽の通り道を指でたどった。

「はは、大正解だ。そして、東にあるものがもう一つある。なんだと思う?」

僕は数秒黙って考えたが、ちっともわからなかった。パウラはさらに悪びれた顔をする。

「正解はー…私たちの故郷、スペインだ。」

満を持してそういった。顔を見ると、誇り高い表情に変わっていた。

「おお、イルカの群れだ。」

パウラは大興奮で船の反対側に走っていった。

体の向きを戻し、改めて海を見る。水面に浮かぶ光の橋を目で追っていった先に、相変わらず水平線が弧を描いている。

「クルル…」

足元から声がした。甲板の端から海を覗き込んでみる。

「ウェム・ナァ」

間違いない。ウェムナだ。恐怖と驚きで思わず叫んでしまいそうになったが、心を落ち着かせて、昨日読んだ本のことを思い出してみる。ウェムナァ、とは、彼らの言葉で…なんだったっけ。

「ウェムナァ。」

とりあえず、挨拶がわりに返してみる。

「ウェム・ナァ、ウェム・ナァ」

水中で腕をパタパタ動かしている。喜んでいるみたいだ。ウェムナは何度か飛び跳ねた後、そのまま深い海に消えていった。

辺りを見回す。船の正面に行き、入り口付近の時計を見る。長針と短針がVの字を作っている。そろそろ食堂へ戻らなきゃなんて、そんなことを考えていた。

その時だった。鈍い爆発音が聞こえた。悲鳴が空に反響して降り注いだ。

船員たちは客人の波をかき分け、こちらへ向かってくる。

「海賊です。」

船員の指差す方には、至って普通の船が見える。けれども、そこに乗った人間たちはみな銃や刃物を構えてこちらを向いている。ただ者ではないことがわかった。

地面は沈み始めていた。悲鳴がより一層大きく響く。

「お静かにお願いします。…みなさんの座席の横に、ライフジャケットがあります。ただちに着用してください。」

聞き慣れた声が響く。フィートが僕の目の前に立ち、乗客に指示を出していた。

「マイル、乗客の様子を見ていてくれ。俺はお客さんをボートに誘導する。」

フィートは甲板の端の方へ向かっていく。僕よりも幼い頃から船で働いている彼にとって、船は故郷なのだ。船に対する思いは誰よりも強い。

「マイル、大丈夫かい。」

振り向くと、パウラがいた。

「乗客の安全を守るんだ。私たちの命をかけてでも。」

甲板はもう水浸しだった。船体もすでに傾き始めている。

間もなく、銃声が響き始める。また、悲鳴が響き渡った。

そんな中、船の後方で作業をしている父さんが見えた。邪魔だと言うことはわかっているが、不安のあまり父さんの方へ向かう。

「救助要請は出したのだが…助けが来る頃にはもう木っ端微塵だろう。」

父さんは息を切らしながら言う。救助用のボートを出していた。

「さて、これで最後のボートだ。」

はっとして甲板全体を見回すと、お客さんはほとんどいなくなっていた。しかし、全くいないわけではない。残った彼らには、泳いでもらわないといけない。

「よかった、みんなライフジャケットを着ている。」

相変わらず銃声は鳴り続けている。一刻も早く船を離れた方が良さそうだ。

と、その時、急に銃声が止んだ。

「マイル、あれ、見てみろよ。」

海賊船の上で、何か争っているのが見える。海賊たちの剣や銃と、灰色の人間たちの槍が交差する。

「ウェムナだよ。人間を食いにきたんだ。」

彼らはあっという間に海賊たちを串刺しにすると、海へ飛び込んでいく。

と、その時、地面が揺れた。そしてすぐに、地面が下がり始めた。

「さっき、船底に何発か弾が当たったんだ。もう、ダメだろうな。」

フィートが今までにないほど暗い表情でそうこぼす。

あっという間に甲板は水浸しになり、残ったお客さんたちの方からざわめきが聞こえる。

「みなさん、…まもなく、船は転覆するでしょう。船の下敷きになる前に、海に飛び込んでいただきたい。」

お客さんたちは数秒考えてから、その要求を渋々受け入れ、海へ飛び込み始めた。

「マイル、俺たちも行こう。」

フィートが真剣な顔で手を差し出す。

「待って、父さんと話したい。先行ってて。」

「わかった。…またな。」

フィートは僕の右手を強く握った。そのあと、船のへりに立ち、飛び込んでいった。彼との会話はそれで最後だった。

父さんは飛び込んでいくお客さんたちを見守っていた。

父さんの元へ行くと、父さんは僕と目が合うようにしゃがみ、僕を抱きしめた。

「最悪の誕生日になったな…すまない。」

「大丈夫だよ。…来年にはもっと強い人になれるように頑張るね。」

父さんは立ち上がり、またお客さんの方を見た。

「俺たちも、行かないとな。達者でな。マイル。」

「うん。じゃあね。」

もう二度と会えないのはわかっていたし、父さんも同じだっただろう。

海はすぐそこまで迫っていた。僕は泳げないから、ライフジャケットがあるとはいえ長くは持たないだろう。

目をつむり、心を落ち着かせる。海の匂いがなぜか懐かしく感じた。そっと足を浮かせ、ターコイズブルーの大西洋に飲まれた。

ふと目を覚ますと、知らない浜辺に寝転んでいた。目の前にはただ夕空が広がっている。大西洋のど真ん中から、死なずに岸に流れ着くなんて。

「ウェム、ナァ。」

びっくりして声のした方を見ると、やはり人型の魚、ウェムナがいた。肩から足の付け根までを紺色の布で覆っている。それ以外は灰色で、背中には尾ひれのような短い尻尾が見える。少し正面に突き出た口はイルカを思い起こさせ、その中から数十個の白い歯がのぞいている。

「ガララ、ウェム、ナァ。」

ウェムナは飛び跳ねている。どうやらひどく喜んでいるようだ。

僕はおもむろに立ち上がろうとした。しかし、ふらついてうまく立つことができない。それを見たウェムナが、僕に手を差し出す。その手は大きく、指の間には水かきがついていた。立ち上がると、ウェムナの身長は僕と同じくらいだった。

僕が立ち上がったのを確認すると、ウェムナは足元に置いていた槍を持ち、海へ走っていった。そのまま水の中に消えた。と思ったら、ほどなくして水面に顔を出した。

「ルゥナ!」

槍先では一匹の魚がしきりに尾ひれを動かしている。そして、また陸へ上がってくると、槍の先を僕の方に差し出した。

「うわっ、だめだめ。生じゃ食べられないんだよ、その魚。」

僕がかなり強めに拒否しているのがわかったのか、ウェムナは残念そうな顔をし た。そして、残念そうな顔をしたまま生魚を食べ始めた。

「ナァ、ァァ。」

食べているうちに、また笑顔に戻ったようだ。笑うと目尻が下がり、口角が上がる。人間にそっくりだ。

僕は夕日を眺めていた。この時間はいつも夕食準備で忙しくて、ちゃんと夕日を見たのは久しぶりだった。

ウェムナはあっという間に魚を平らげ、今度は何やら話し始めた。

「ガァナ、クゥ、ラヌ、コナ、レェナ。…」

ウェムナは奇妙な動きをしながら喋り続ける。しばらく見ているうちに、それがジェスチャーであるとわかった。

「私、船、人、話す。君、その人。」

「えっ、そうだったの!?」

「君、海、落ちる。私、助ける。仲間。」

やっぱり,この子が助けてくれたんだ。ありがとう、と伝えたいけど、やっぱり言葉がわからない。僕もジェスチャーで伝えようとした。

「ナハハ、ナァ。」

僕の動きが変だったのか、笑われてしまった。でも、その笑顔に悪意は感じられなかった。

「私、スペイラ。君、なに?」

その子は自分と僕の体を交互に指差す。

「僕、マイル。」

「マイル?ナハハ。」

スペイラは小さく3回ほどうなずき、また笑った。

そのあと、スペイラに泳ぎ方、魚の獲り方を教わった。人間とは比べ物にならないスピードで泳いでいく。何度も追い越されるが、僕との距離が広がるたびに、その場で待っていてくれる。僕は何度も魚を獲り逃す。でも、必ず自分の獲った魚を分けてくれる。しかも、僕が生で食べることができる魚だけを選んでくれるようになった。そうやって過ごしていくうちに、「猛獣」でも、「残忍な怪物」でもないのではないかと思った。


あれからどのくらい経っただろう。最初と比べたらだいぶ泳げるようになったし、簡単な言葉なら聞くだけでわかるようになった。

そんなある日、いつものように泳ぎの練習をしていると、正面に怪しい影が見えた。近づいてきたそれと目が合い、思わず泡を吐く。

急いで陸に上がり、後ろを振り向く。身長は3、4メートルあり、人間の大人よりも大きい。赤い目には光が宿っておらず、呼吸をするたびにキバが見え隠れしている。どうやら大人のウェムナであるらしい。これなら怪物と言われてもうなずける。

スペイラを見つけたそれは、両手を広げてその子に駆け寄っていく。その子を抱き上げ、子供をあやすようにぐるぐる回転する。

「嬉しい。もう、遠く、行く、だめ。」

大きなウェムナは低く唸るように喋った。けれども、どこか温かみが感じられる声だった。

二人のウェムナは手をつなぎ、海へ潜っていく。僕も慌てて二人を追いかける。すると、前にいる親ウェムナに見つめられたので、身も心もすくんでしまった。

「これ、仲間。みんな、いっしょに、暮らす。」

スペイラがそう訴えると、大人は深くうなずいた。スペイラはまた飛び跳ねて喜んでいた。すぐそばにいたからか、すねのあたりにターコイズブルーの水がかかった。

彼らについていくと、綺麗なラグーンにたどり着いた。ところどころにドーム状の建築物が見える。それらの周りには、大小様々なウェムナたちがいて、話していたり、遊んでいたりする。

スペイラが指差した方には、ひときわ大きなドームがあった。

「あれ、寝る。もの、置く。たくさん、できる。家。」

スペイラはその家に向かって走っていった。

君、行け、と大人のウェムナに背中を押されたが、あまりの力によろけてしまった。すぐに体勢を立て直し、スペイラの家に走って行った。家全体は灰色の布で覆われていて、入り口らしきところはぱっくりと空いている。

「ここ、クジラ、いる。」

スペイラは灰色の布を持ち上げ、めくって見せる。そこには僕の顔よりも大きな歯がずらりと並んでいた。

「これ、サメ、皮。」

持ち上げた布を僕に差し出す。触り心地は錆びた鉄に似ている。

スペイラを追い、家の中に入る。そこには、外から見たまんまのドーム状の部屋があった。薄暗い屋内の天井には、小さな穴がいくつも空いているようだ。そこから差し込んだ光が小さな星空をつくり、空気をつたって水のつぶを照らしている。

「見て。これ、きれい。」

スペイラは部屋の端から何かを取り、また僕の方へ戻ってきた。指と水かきの間に、合わせて十個ほどの白くて丸い石がある。真珠だ。

「来て。」

ついて行った先には、色とりどりの貝殻が置いてあった。赤、青、紫、虹色。一体何種類の貝がここにあるのだろう。

「ずっと、集める。好き。」

二股に分かれた尻尾が左右に揺れる。お母さんが飼っていた犬を思い出した。

「サメ、獲った。来い。」

外から声がした。部屋の入口に、さっきの大きなウェムナが立っていた。スペイラは元気よく返事をし、部屋を出て行った。僕も後を追ったが、あっさり追い抜かしてしまった。スペイラは悔しそうにして、さっきよりも足を早めた。

たどり着いた先には、数十人のウェムナがいた。彼らが取り囲んでいたのは、数メートルある大きなサメだった。サメの腹の方に立った大人が、貝殻でできた刃物でサメの肉を分けている。

「欲しい。こっち。早く。」

スペイラが手を振って叫ぶと、サメの近くにいる子供が肉をこちらに向かって投げた。スペイラがそれをキャッチすると同時に、ざわめきが起こった。みんな僕を見ている。そうだった。僕は人間なんだ。

「これ、仲間。海賊、違う。」

スペイラが叫ぶ。それを聞いたウェムナたちは笑い、解体途中のサメに視線を戻した。さっきの子供が、もう一欠片のサメ肉をくれた。

スペイラは少し遠くへ走っていき、より水が浅い場所を見つけてそこに座った。隣を指差していたので、僕もそこに座った。夏だからか、海水が暖かくて安心した。

「海賊、嫌い。家も、仲間も、家族も、全部、奪う。」

スペイラは一瞬牙をむいたが、肉を口に入れると、また笑顔になった。

正面を見ると、さっき僕たちを呼んでくれたウェムナがこちらに向かって歩いてきていた。

「ママ。ママ、強い。海賊、勝てる。」

スペイラの母さんは、僕らの背後にまわり、スペイラの頭を強く撫でた。

「私、いつか,海賊倒す。強くなる。みんな、守る。」

母はスペイラを見つめ、深くうなずいた。

太陽はオレンジ色に輝いていた。スペインの甘いオレンジを思い出す。

おそるおそる、サメの肉をかじってみた。柔らかく、あっという間に口の中でとろけた。思ったよりもずっと美味しい。

「君、服、作る。皮、持ってくる」

母は僕を見つめて言う。スペイラは解体されたサメの方へ行き、灰色のサメ皮を持ってきた。自分の足元に視線を落とす。僕はあの日からずっと、船乗りのジャケットを着て、ズボンを履いていた。塩水に何度も使ったからか、どちらもかなり色褪せているし、ところどころ破けている。

「投げる。取って、また、投げて。」

スペイラはそういうと、ヒラヒラしたものをこちらに向けて投げた。取ったが、カーテンのような見た目からは想像もできないほど重かった。

「サメ、服、材料。体、乾くの、防ぐ。」

スペイラは布の端と端を持って回ってみせる。

「投げる。すると、強い、服、できる。」

ピザ作りを思い出す。上に投げて回しながら生地を伸ばすことによって、弾力が増し、凸凹が無くなる。

僕らはしばらくそれを続けていたが、やがてすっかり暗くなってしまい、母に連れられて家へ戻った。地面に海藻のようなものを敷いて、ベッドのようにして眠った。

それからしばらく経った。僕は大きくなり、スペイラは僕よりも大きくなった。大人になっても、スペイラの目から光が消えることはなかった。いつになっても、あの日見たのと何も変わらない、太陽のような笑顔で仲間達を活気づけた。

スペイラの母は、集落のリーダーであったようだ。ある日、スペイラがそれを引き継ぐこととなった。彼女は、今は亡き父の思いを背負い、一生懸命に狩りをし、海賊と戦い、群れを支えていた。僕は彼女を信頼していたし、彼女もそれは同じだと思う。ある日、彼女からクジラの歯でできた指輪をもらった。お礼を言いそれを受け取ると、その日から彼女の家で一緒に暮らすことになった。

やがて、僕たちの間に子が生まれた。赤い目をしていて、少し泳ぎが得意なだけの人間の子だった。僕たちはそれをマイラと名づけた。僕たちは愛情深くマイラを育てた。やがて、マイラはかつてのマイルと同じ、10歳の少女になった。そんな、ある日のことだった。

「マイル、さっき仲間から聞いたんだが、数えきれないくらいの海賊船が、こちらに向かってきているようだ。…私たちの役目だ。みんなを守らないと。」

スペイラは三叉の槍を磨きながら言う。

本当は、負けてしまうことがわかっていた。けれども、決して口に出さなかった。彼女は、負けたら集落が跡形もなく消えてしまうことをわかっているようだ。だから、負けを認めたくないのだ。

「ああ。…子供たちのためだ。」

僕も同じ思いだった。僕は長い間ここで過ごした。信頼できる仲間と、毎日海で働き、遊ぶ。船乗りとして送っていた生活と同じだった。

そして、守りたいものと出会ったおかげで、いくぶんかは強くなれたと思う。

「…子供たちを、安全な場所へ逃してやろう。」

マイルはそう言い、集落中の子供を集めた。子供たちを海岸に連れていき、マイルは話し始める。

「今のうちに、ここを去るんだ。」

しかし、全員が首を振った。「仲間」を見捨てるくらいなら、身を捨ててでも一緒に闘いたい。彼らはそういう考えをもっているのだろう。

ただ一人、うなずいたものがいた。マイラだった。海を背にたたずむ彼女の姿は、紛れもなく人間であった。

僕はマイラに、人の弱さについて教えていなかった。

「朝日の昇る方向に、人間たちの国がある。…名前は…」

そのとき僕は、スペインでの、船での日々を思い出した。人間として暮らしていた毎日を。一刻も早く、逃げ出してしまいたかった。

しかし、そんな思いは一瞬にして消えた。父さんとした約束を果たさなければならない。僕は父さんと一緒に、海で生きる選択をしたんだ。

「スペイン。そこには優しい人間たちがいる。…もっとも、人間に対しては。」

マイラはうなずき、マイルの腰に抱きついた。

「強い子になりなさい。僕よりもずっと。いつか、何かを守れる日が来るかもしれないから。」

まもなく、彼に背を向け、海に飛び込んだ。

「さよならだ…人間。」

スペイラがそう言い放った。今までに聞いたこともない、悲しそうな声だった。

二人をはじめとした大人たちは、海賊船をそれぞれの目で捉え、槍を構えて立っていた。

「おお、仲間よ、仲間たちよ。」

スペイラが槍を掲げ叫ぶと、後ろにいる大人たちもみな騒ぎ出した。ざわめきが海を揺らした。

僕は逃げなかった。自分の身を捨ててでも、大切なものを守る覚悟ができたのだ。そう信じたかった。

僕はざわめきと遠い記憶の中で、ただ槍を構えるしかなかった。


二〇二四年 「絶滅動物図鑑」

ウェムナ(霊長目ヒト科ウェムナ属)

二十世紀前半ごろ、人類との戦争によって絶滅した海棲哺乳類の一種。ラグーンや浅海で小さな群れを形成し、主に魚介類を食べて暮らしていた。極めて知能が高く、文字や道具を扱っていた痕跡が残されているほか、西ヨーロッパの臨海部には住居、食事場、墓などの建築物が残されている。また、鯨やサメの皮を衣服として、歯をアクセサリーとして身につけていたそうだ。

ウェムナとは、彼らの言葉で「仲間」を指していたとされている。

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