(10)救出の覚悟
湖畔の静寂が一瞬の幻のように破れた後、再び重々しい空気が場を支配した。セラフィードとの激闘を終えたアルマ、ロクス、カーライルの三人は、戦闘の余韻を引きずりながら互いに視線を交わす。
「月光花が…散ってしまったわ…」
アルマの震える声が沈黙を切り裂いた。湖畔を覆っていた花々はすべて散り果て、戦闘の激しさを如実に物語っている。残されたのは、彼女が戦いの最中に摘み取った一輪だけだった。アルマはその花をそっと胸ポケットの中にしまい込む。
「…これだけのことをやらかしたんだ。花が無事で済むはずがねぇよな」
カーライルは眉をしかめながら湖面を見つめた。その言葉には皮肉と後悔が入り混じっていた。
ロクスは剣を地面に突き立て、悲しげなアルマの横顔に目を向ける。「だが、月光花を守るために戦った。もし戦わなければ、もっと多くのものが失われていたかもしれない。モンスターも消えた。時間が経てば、ふもとの村も賑わいを取り戻すだろう。」
「そ、そうよね…。ここもきっと元通りになるわ…」
アルマは自分に言い聞かせるように呟いたが、その瞳にはまだ悲しみが消えない。
その時、不意に湖全体を包み込むような低く響く声が静寂を引き裂いた。その音は空気を振動させるような重みを持ち、三人の全身に冷たい震えが走る。
「…月光花を…無残に散らしたとは…許しがたい…」
その声には怒りと悲しみが入り交じり、聞く者の胸を締め付けるような力が宿っていた。三人は即座に警戒態勢を取り、声の主を探したが、霧がさらに濃くなり、その姿を視界から隠していた。
「誰だ!」
ロクスの鋭い声が湖畔に響く。剣を握る手に力が入り、全神経を周囲の気配に集中させている。
「ほう…無知な者どもよ。己の所業の重大さを、まだ理解していないとはな」
声の主は冷たく嘲るように言葉を紡ぎ、霧をさらに濃くしていく。視界はほとんど失われ、重々しい声だけが響き渡る。
「そちらの娘…強大なマナを持つようだな。月光花の代わりの贄としては、これ以上のものはない。」
アルマの背筋を冷たい恐怖が駆け抜けた。声の主の向ける興味と悪意は、彼女を明らかに「獲物」として見ていることを示していた。
「な、何を言ってるの!?」
アルマは必死に声を張り上げたが、震えを抑えることはできなかった。その瞬間、黒い影が霧の中から滑るように現れ、彼女の足元へと広がる。それは意思を持つかのように蠢き、一瞬でアルマを包み込んだ。
「アルマ様!」
ロクスの叫びが夜の霧に吸い込まれるように消えた。剣を振り抜き、影を断とうとする。しかし、その刃は虚空を裂くだけで、アルマの姿は霧と同化するように消え去ってしまった。
「嬢ちゃん、嘘だろ…!」
カーライルは双剣を構え、手当たり次第に霧を切り裂いた。しかし、何も手応えがない。刃が空を切る音だけが、むなしく広間に響いた。ロクスは剣を強く握りしめた。手のひらに力がこもり、革の柄が軋む音が微かに響く。
「…守れなかった。」
低く、絞り出すような声だった。剣先が静かに地面に触れる。わずかに肩が揺れたが、それを悟らせまいとするように、彼は深く息を吐いた。
「…だが、まだ終わっていない。」
その琥珀色の瞳が鋭く輝く。悔恨を呑み込み、決意へと変えた。
「恐らく、闇属性の転移魔法だ。」
カーライルが双剣を肩に乗せながら低く呟く。その声には、焦燥を抑えた確信があった。
「俺も嬢ちゃんも、似たような術を喰らったことがある。そう遠くへは飛ばせないはずだ。」
ロクスは深く息をつき、剣を握り直した。表情からは先ほどの動揺が消え、冷静な判断力が戻りつつあった。
「…そうだな。取り乱してすまなかった。」
己の感情を抑え、騎士としての責務を取り戻すように、ロクスはまっすぐ前を見据えた。そして、大地に突き立てた剣の柄に両手を当てる。
「マナの流れを探る。」
そう短く言うと、彼は全神経を集中させた。大地の奥深くへ意識を沈めると、微かな痕跡が手繰り寄せられてくる。やがて目を開いたロクスは、力強い声で言った。
「南西の方角だ。そこにマナの乱れがある。」
「マナが乱れる…」
カーライルは眉をひそめたが、すぐにその意味に気づいた。
「…夢幻の森か。厄介な場所だが、行くしかねぇな。」
ロクスは静かに頷き、剣を鞘へと収めた。
「言われるまでもない。必ず、取り戻す。」
短く、だが確かな意志を込めた言葉だった。しかし、彼の手は無意識に胸元の円環のペンダントを握りしめていた。その仕草は、過去に封じたはずの感情を無意識に呼び起こすかのようだった。
「…私は、大切なものを守る力を得るために天剣の騎士になった。」
それは、誓いの言葉だった。
だが、続く言葉が喉の奥に絡みつき、口にすることができない。
「もう、二度と…」
わずかに声が震えた。カーライルは、一瞬言葉を失った。
二度と――。
その言葉が、ロクスの口から零れ落ちそうになるのを、彼は聞き逃さなかった。ロクスが"守れなかった"存在。そして、それを招いたのが、誰だったのか――。
カーライルは、自分の胸に鈍い痛みが広がるのを感じた。ロクスが握りしめたペンダントは、"あの日"の記憶をそのまま閉じ込めているのだろう。だが、今はそんなことを考えている時間はない。
「…行くぞ。」
カーライルは気持ちを切り替え、双剣をしっかりと握り直した。ロクスとともに迷わず南西の方角を見据え、静かに歩を進める。深まる夜の霧の中、二人の心には、ただ彼女を救い出すという強い意志が宿っていた。静寂の中で、散った月光花の花弁が風に舞い、まるで彼らを見送るように穏やかに光を放っていた。
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