(7)夜霧の獣
霧の中に満ちる、ただならぬ気配。湖畔を包む月光花の輝きは、濃密な霧に飲み込まれるように霞んでいた。夜風すら重く感じる異様な静寂が広がる。
――ズシン、ズシン。
地を震わせる重い足音が響く。踏みしだかれた草が湿った音を立て、地面に低い振動が伝わる。
「来るぞ!」
ロクスが鋭く言い放ち、剣を抜く。その瞬間、剣が淡い光を帯び、霧を僅かに押し退けた。視界の先、霧の奥に赤い光がじわりと浮かび上がる。三対の獰猛な瞳がこちらを睨みつけていた。
「猪か…だが、ただの獣じゃない。」
カーライルが双剣を抜き、低く構える。
次の瞬間、一体の猪が咆哮とともに霧を裂き、突進してきた。カーライルは即座に横へ跳び、双剣を逆手に持ち替えながら、突進の軌道を見極める。鋭い刃が猪の側面を斬り裂く――が、手応えがない。切り裂かれた傷口から、血は流れず、霧が滲み出し、裂け目が瞬く間に閉じていく。
「チッ…これじゃ斬った意味がねぇな。」
カーライルが舌打ちする間にも、二体目、三体目が獰猛な咆哮とともに突進してくる。
「光の剣なら通じるはずだ!」
ロクスが即座に剣を構え、マナを練り上げる。
「聖飛斬!!」
剣から放たれた光の刃が疾風のごとく駆け抜け、猪の首を寸分の狂いもなく両断する。刹那、霧が爆ぜるように四散し、猪の姿はまるで幻のように掻き消えた。
「やはり、光なら霧を払えるか…!」
ロクスが冷静に分析しながら、次の敵へと視線を向ける。
アルマが前へ出る。
「私も戦えます!」
金色の輝きが彼女の指先に集まり、鋭い矢の形を成していく。
「聖光矢!」
光の矢が一直線に猪へ飛び、中心を貫いた。猪は断末魔の咆哮を上げながら、濃密な霧となり、掻き消える。最後の一体がなおも突進してくる。カーライルはわずかに目を細め、双剣を構え直した。
「今度こそ消えてもらうぜ、霧になる暇も与えねぇ。」
横薙ぎに双剣を振り抜く。鋭い閃光が霧の獣を貫き、一瞬の静寂の後、猪の体が真っ二つに裂ける。霧は断末魔の声すら上げることなく、虚空へと溶けるように消え去った。
だが――戦闘は、まだ終わっていなかった。
――シュウゥゥ……
地を這うような、湿った音が響く。霧の中に、新たな気配が生まれ始めていた。
「次は…狼か…いや、ただの狼ではないな。」
ロクスが眉をひそめる。霧の奥にぼんやりと狼の影が揺らめく。次の瞬間、影が二つに裂けた。
「分身か…!」
カーライルが舌打ちしながら低く構える。
「本物を見極めないと…確かめるわ!」
アルマが光のマナを込める。
「光よ、闇を切り裂き、道を照らせ。ここに我が意を込め、輝きの一閃となれ──」
「聖光閃!」
爆ぜる光が周囲を照らし、狼たちの姿を浮かび上がらせる――だが、どちらも全く同じ姿、同じ濃霧を纏っていた。一体がアルマへ向かって跳ぶ。
「くっ――!」
アルマは光の壁を展開し、防御を試みる――が、狼は霧と化し、すり抜けるように消えた。
「こっちは偽物…!」
その瞬間、もう一体の狼がロクスの背後に現れた。
「ロクスさん!」
アルマが警告の声を上げる。しかし、ロクスは冷静だった。
「見えています。」
ロクスの光の剣が唸りを上げ、一閃。狼の体が斜めに裂かれ、霧の中へと消え去る。静寂が戻る――かに思えたその瞬間だった。
湖面が揺らぎ、霧が波のように巻き上がる。冷たい夜風の中、それは不気味な螺旋を描きながら形を成していった。闇に溶けるような巨大な影――長大な胴が揺らめき、鋭く光る双眸が霧の中から浮かび上がる。
「今度は蛇か…。」
カーライルが低く呟きながら双剣を握り直す。だが、その動きを制するように、アルマが前へと進み出た。
「私がやります!」
「アルマ様!」
ロクスが制止の声を上げる。しかし、アルマの瞳には迷いがなかった。彼女の指先が輝きを帯びる。
「聖光弾!」
空間に無数の光球が生まれ、淡い光の軌跡を残しながら、霧の蛇へと一斉に放たれる。
しかし――蛇は霧そのものの身体をしならせるように動かし、次々と光弾を避けていく。その動きは異常なほどに滑らかだった。
「えっ…!」
アルマが僅かに目を見開いたその刹那、霧の蛇の尾が鋭く振るわれる。避ける間もなく、アルマの足元に絡みついた霧が、まるで生き物のように絡みつき、締め上げた。
「――っ!」
アルマの体が浮き上がり、蛇の胴に巻き取られる。
「しまった……!」
ロクスが即座に駆け寄るが、蛇はまるでそれを見越していたかのように霧の体を拡散させ、アルマを守るように包み込む。ロクスの眼光が鋭く光る。
「後ろに下がっていてくださいと言ったでしょう!」
怒気を孕んだその声とともに、ロクスが跳躍する。光を纏う剣が夜闇を裂き、彼の身体は一直線に天へと舞い上がる。蛇が振るった尾を軽やかに躱し、空中で剣を大きく振りかぶる。刹那、彼の剣が眩い聖なる輝きを放った。
「聖降斬!!」
光の剣閃が天より降り注ぐ。神の一撃とも思える閃光が、霧の蛇の胴体を一直線に裂いた。蛇は霧を振り撒きながら、苦悶のように身を捩る。巻き付いていた霧が弾けるように霧散し、アルマが地面に落ちる。
その瞬間、 カーライルが双剣を振り抜いた。
「これで終わりだ。」
横薙ぎの刃が、霧の蛇の首を両断する。霧の蛇は声なき断末魔を上げ、夜闇に溶けるように霧となり、完全に消え去った。アルマが地面に膝をつく。息が乱れ、肩がかすかに上下する。ロクスが険しい顔で彼女を見下ろす。
「まったく…あなたが護衛対象なのを忘れましたか?」
アルマは苦笑しながら息を整える。「でも、ちゃんと戦えました…。」
ロクスは一瞬沈黙し、深いため息をついた。
「…今度は言うことを聞いてください。」
カーライルが苦笑しながら剣を納める。
「嬢ちゃんのせいで、俺たちの寿命が縮みそうだぜ。」
戦闘は終わった。だが、濃い霧が完全に消え去ったわけではない。三人は警戒を緩めぬまま、月光花が咲き誇る湖畔を見渡した。この戦いは、まだ終わりではない。
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