(6)忍び寄る霧
夕食を終え、旅の疲れを癒すためにしばしの休息を取った後、三人は村長から受け取った地図を頼りに、円環の湖に向かって歩き出した。夜の静寂が辺りを包み、草木のざわめきが足音に混じる中、冷えた空気が肌を撫でる。
「そういえば――」
アルマがふと足を止め、夜道を見つめながら口を開いた。「カーライルと最初の事件の帰り道も、こんな感じの道だったわよね。」
淡い月明かりが彼女の金髪を照らし、その碧眼に静かな感慨を宿す。「もう、あれから二ヶ月が経ったのね。あっという間だわ。」
「俺としては、もっと酒でも飲みながら、愚痴でも聞いてのんびり過ごしてたかったんだがな。」
カーライルは肩をすくめ、双剣の柄を軽く叩く。「嬢ちゃんのおかげで、すっかり波乱万丈だ。」
「いいじゃない。」
アルマは振り返り、微笑を浮かべる。「愚痴を聞くより儲かるし、退屈しない毎日でしょ?」
「波乱万丈といや、あの監査官が王都の混乱に乗じて逃げ出したな。」
カーライルはぼんやりと夜空を仰ぎ、眉を寄せる。「王妃への復讐を誓っていたが、それを阻止した俺たちを狙って、どこからかやってくるかもしれねえ。本当に勘弁してほしいもんだ。」
「きっと私たちのところには来ないわよ。」
アルマは自信ありげに胸を張る。「私がコテンパンにしてあげたから、再戦しても勝てないってわかってるだろうし。」
「本当に怖い嬢ちゃんだな。俺の二十下とは思えないぜ…」
カーライルは乾いた笑いを漏らす。しかしその言葉の裏では、自身の十五歳の頃を思い出していた。ロクスと共に孤児院を出て、冒険者として駆け出した日々――力のない自分を悔いたこともあった。その記憶が、今目の前で堂々とした姿を見せるアルマに重なり、思わず苦笑する。
そんな二人のやり取りを聞きながら、先頭を歩くロクスが低い声で告げた。「湖畔が見えてきました。気を緩めないように。」
その声は冷静そのものだが、僅かに張り詰めた警戒心が滲んでいる。
やがて三人が湖畔に辿り着くと、その光景に足を止めざるを得なかった。夜空に浮かぶ半月の淡い光を浴びて、一面に咲く月光花が銀色の輝きを放ち、風に揺れるたびに湖面にもその煌めきが映り込む。花々が織り成す幻想的な景色に、誰もが一瞬言葉を失った。
「これが…月光花…。」
アルマは感嘆の声を漏らし、ゆっくりと湖畔へ歩み寄る。その瞳には驚きと感動が浮かび、胸の内に沸き起こる感情を抑えきれない様子だった。彼女はそっとしゃがみ込み、一輪の花に指先を触れる。その柔らかな感触と、微かに伝わる温もりに、アルマの胸は高鳴った。
「伝説そのものね…。」
彼女は息を呑みながら呟いた。「人の心を通わせる、という言い伝えも、これを見れば信じられる気がするわ。」
カーライルは少し離れた場所から、肩をすくめながら軽くぼやいた。「嬢ちゃん、感動するのはいいが、伝説ってのはたいてい厄介事を連れてくるもんだ。」
「もう!」
アルマは振り返り、不満げに唇を尖らせる。「せっかくの感動を台無しにしないでよ。」
カーライルは片手を挙げて謝るふりをしながら、いたずらっぽい笑みを浮かべた。「悪かったよ。冗談だ。けどな、こんな花を守ろうとする村人たちの気持ちも分かるぜ。ギルドに助けを求めるのも納得の美しさだ。」
その声には、軽妙さの奥に彼なりの真剣さが混じっていた。
一方、ロクスは湖畔を静かに見渡しながら呟いた。「これを狙うモンスターがいるということは、観賞用以外にも価値があるのでしょう。」
アルマは頷き、再び月光花に目を向けた。「この花、一つで上級魔法を放てるほどのマナを含んでいるわ。だからモンスターも引き寄せられるのね。」
カーライルはその言葉に舌打ちし、双剣の柄に手を置いた。「そういう話をするから嫌な予感がするんだよ。見ろ、霧が出てきやがった。」
アルマが顔を上げると、湖畔を包む月光花の輝きが次第に薄れ、白い霧が視界を覆い始めていた。その霧は静かに、だが確実に濃さを増し、まるで三人を絡め取るように湖面から立ち昇ってくる。
「これって…ただの霧じゃないわ。」
アルマの声が微かに震え、背筋に冷たいものが走った。
ロクスは即座に剣を握り直し、低く鋭い声で警告を発した。「間違いない。この霧には意志がある…敵が近い。」
その言葉にカーライルも冗談を捨て、双剣を引き抜いた。月光に照らされた刃が鈍く輝き、彼の瞳には闘志の光が宿る。「さて、厄介事を片付けて、銀貨を稼がせてもらうとするか!」
霧の中に混じる不気味な気配が濃密さを増し、月光花の輝きがほぼ完全に失われたとき、三人はまさに嵐の前の静けさの中にいた――闇の向こうから迫る未知の脅威に備えながら。
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