四話 揺蕩い(後編)
母を想う歩と、歩の将来を想う母。
互いに思い遣る気持ちの齟齬。
将来に向けて、歩の決断と母の望みを書いてます。
静かに進む物語ですが、楽しんで頂ければ嬉しく思います。
そうした母を見て来た私は、この時には社長に成り母を楽にさせると言うより、今直ぐにでも働きに出て母の苦労を減らし、一日でも早く楽な暮らしをさせたいと言う思いに変って居た。
そして、今迄苦労してきた分、母の人生を自身の為に使って欲しいと切に願って居た。
しかし、母はそんな私の思いを受け入れる事は決して無かった。が、私には常にそうした思いがあったので、卓実君の言葉は私の心へあっと言う間に染み渡った。
そうした思いを抱く私に、卓実君と安斉君は自分達が社会へ出てからこれ迄の事を話してくれた。
中学を卒業した二人は、建設業界の数ある職種の中から、鉄筋工と言う鉄筋コンクリート構造物の骨組みと為る鉄筋部分、その施行や加工に組み立てを行う職種に就いた。
世に言う肉体労働者と呼ばれる物で、私が進路に付いて悩んで居たこの時、既に二人は職場では十分に戦力と見做される存在と成って居た。
元来、頭の良かった卓実君は仕事を覚えるのも人一倍早く、更には野球部だった事もあり体力的にも問題なく、一緒に働く安斉君への手解きも良かった為、二人は三月目には職場に於いて何かと重宝がられる存在と成り、そこそこ仕事を任される迄に成って居た。
そうした二人の収入は、勤め出してから三月足らずで大卒の初任給より多かった。
そうした自慢にも似た話は、私を一刻も早く社会へ誘っ(いざな)て居る様に思え惑わせた。
二人との食事を終え家に帰った私は、その日の夜に母と進路に付いて話す事を決めた。
『母さんは、俺の気持ちを解ってくれるやろうか!?』
母が帰って来る時間が迫って来るのと比例して、私の中で不安な気持ちが徐々に膨らんで行くのを感じながら、勇気を振り絞り只ひたすら母の帰りを待った。
夜遅く、掛け持つ仕事の一つ、居酒屋から母は帰って来た。
母はこれ迄、帰って来ても一度として「ただいま。」と声を掛けた事は無かった。
私が幼少の頃より、既に寝入って居る我が子を起こさぬよう、母は気を使い静かに部屋へ入る癖が付いて居たからだ。
が、いつもなら消えている台所の電気が付いて居るのに気が付いたのであろう、母は玄関の扉を開けるや否や椅子に座り待って居た私を見咎め、
「あら、珍しい!
起きてたんやね!?」
と声を掛けて来た。
幼少期を過ぎ中学生にも成ると、流石にこの時間寝て居る事は無かったが、思春期を迎えたこの頃の私は、母と顔を合わせば進学の話をされる事に嫌気が差し、極力顔を会わせる事を避けて居たのである。
だが、遂にと言うべきか、腹を括った私は母と真剣に向き合う覚悟を決めた。
「母さん、僕もう中三やで!
もう、夜9時に寝る年でも無いし。」
そう言った私に、
「あらっ、いつの間にか、歩もそんな年に成ってたんやねぇ。
ついこの間、中学の入学式を済ましたばっかりの様な気がするのに、時間が経つんは早いねぇ。
母さん、忙しさにかまけて、全然あんたの事見てなかったねぇ、情け無いわ。
御免ね。」
手を合わせ謝る母は、つくづく我が子の成長に気付いて居なかった事を恥じている様だったので、
「そんな事は無いやん。
母さんが、そんだけ頑張って働いてくれるから、僕もこう遣って不自由無く学校行ってられるんやし。
それにここ最近は、僕が母さんと顔を会わすのが気まずくて避けてたから。
ほんまに、有り難いと思うてる。
そやさけ、そんな風に自分を責めんとってえな。」
私が言ったのに、
「おおきに。
歩も、知らんてる間に気遣い出来る様に成ってたんやね。
母さん、それだけで褒められてるみたいで嬉しいわ。」
返した母は椅子へ座ると、食卓に着いている私に向かい合い、
「その様子からすると、話があるから母さんの帰りを待ってたんよね!?
で、一体何の話しかね?
悪い話しじゃ無きゃ良いんやけど。」
と切り出した。
私は正直、母へどの様に話を切り出せば良いのか悩んで居たので、私の思いを察した母が話を切り出してくれた事に感謝した。
しかし、改めて話す内容を考えると、胸に拡がる緊張感と不安は増すばかりで、そうした思いを抱きつつ話をせねば成らないと覚悟を決め、
「母さん、実は進路の事で話しが……」
切り出した私に、
「そうかいな!?
歩も、もうそんな年に成っててんやなぁ。
で、何処の高校に行こうと思っとるん!?」
言った母の言葉は、私の決意とは真逆の内容であった為、戸惑いはしたが、
「母さん、実は俺。
進学はせんで、働こうって思うてるんや。」
決意を貫く為にもここは母と面と向かい、自分の思いを正直に話さなければ成らないと意を決し言った。
しかし、言った瞬間、母の顔はみるみる曇り、その表情は次第に困惑した表情へ変って行くのがありありと見て取れた。
そして、その顔は、
「なんで!?」
と言う一言を吐き出させた。
母が、この様に成る事は私としては想定内であったが、生まれてこの方、一度として見せた事が無かった母の表情に、私は口を開く処か当惑する事しか出来なかった。
しかし、ここで怯んでは決意が鈍ると、
「母さんは今迄、自分の事なんかほったらかしで、僕を育てる為だけに一生懸命働いて来てくれたやろ。
僕は、ほんまにその事を有り難いと思うてるから、中学を卒業したら直ぐ働きに出て、母さんを少しでも楽さしたいってずっと思ってたんや。
母さんはこれ迄、一度だって旅行した事無いし、服かて僕のばっかり買うて、自分のは安っすいのを年に一、二枚しか買わんやん!
昼夜働いて、生活費以外はほとんど全て俺の為に使うか貯金やろ!?
それを傍で見て来たから、少し位自分の為に使えば良いのにってずっと思っとった。
母さんは、進学するのが当たり前って頑張ってくれてるけど、俺が進学せん様に成ったら、そのお金も母さんの自由に出来るやん。
なら、今迄我慢して来た分、母さんの自由に使って欲しいねん。
で、せめて働くにしても、昼だけにすれば体も楽に成るし自分の時間も作れるやろ。
僕は、母さんも知ってる卓実君が勤めてる会社で働かして貰おうって思うてる。
仕事は肉体労働やけど、給料は良いし余程の事が無い限り残業は無いって言うから。
それに、将来独立する事だって出来るって言うから、早う仕事覚えて自分の会社を起こしたいって目標も出来る。
そんなん考えたら、進学するより就職した方が良いと思うねん。」
私はこれ迄抱いて居た想いを理解して貰いたく、極力穏やかに熱を込め話した。
私が話すのを黙って聞いていた母は、暫く私の顔をジッと見据えて居たが、突然スックと立ち上がり、ヤカンを手に取り水を注ぐとガス台へ掛け火を点けた。
私に背を向ける形でレンジに向かう母は、
「歩は、そんな事を考えてたんやね!?
母さん、ちっとも気付かんかったわ。
母さんの事、気遣ってくれてありがとう。
けど、そんな風に思わせたのも、母さんがずっと働き詰めにして来たからやね。
母さんはてっきり、歩が中学卒業したら高校へ行くもんやと思ってたから、進学するのに難儀せんようにって働いて来たんよ。
母さんは、あんまりあんたに負担を掛けたらアカン思て聞かん様にしてたけど、歩はそこそこ何処にだって入れる頭なんやろ!?
なら、母さんは歩の将来の為に、最低限高校だけは出ておいて欲しいわ!
で無いと、将来苦労するんは目に見えてるんやから。
それにね、歩は母さんに楽しみが無い様な事を言うけど、親に取って子供の成長は何よりの楽しみなんよ。
旅行とかそう言うもんは、歩が大人に成ってからでも全然行けるし。
それより、親の責任として歩を立派に育てる事が、死んだお父さんとの約束やったし、母さんは自分の時間が無いからって、つまらない人生なんて一度も思った事無いんよ。
それよりも、歩が中学に上がってからは無くなってしもうたけど、運動会や学芸会なんかの行事を見に行くのが、どんだけ楽しみやったか知れんわ。
母さんは、そうした一つ一つの楽しみが、一つずつ思い出と成って心に積み重なってるの。
その楽しみだけで、十分に幸せなんよ。
この先、あんたが大人に成るのを見守る事が、母さんには何よりも楽しみで幸せなの。
この先、あなたが働きに出て、好きに成ったお嬢さんを連れて来て、結婚し幸せな家庭を築いて可愛い子供を作って、あばあちゃんに成った私に会わせてくれたら、母さんはその時にあんたを育てて来た自分を褒められるし、何者にも代えがたい幸せを心から喜ぶ事が出来るの!
だから、もう少し歩の為に母さんを働かせてくれんかな!?
旅行は、それからでも遅くは無いから。」
そう言った母の顔は、一遍の曇りも無い程に決意に満ちた表情であった。
母に、こう迄言わせた私は、確固たる覚悟を以て母と相対したつもりであったが、熱い想いを込め話す母の表情に、私の覚悟とやらはガラガラと簡単に音を立てて崩れた。
この年迄産み育ててくれた母は、私の将来の為に学歴は必須と金を貯め、私が上の学校へ上がる事を殊の外楽しみにして居た。
その気持ちは重々身に染みて解って居たのだが、私も又、母の事を想い母の為にと働く事を心から望んだ。
だがしかし、その気持ちはいとも簡単に揺らぎ、母が長年抱いて居た決意へ返す刀を持ち合わせて居なかった。
そうした私へ母は、
「迷うなら、兎に角時間を掛けて考えたら良いんよ。
歩の将来の事やから、先ず自分がどうしたいんかゆっくり考えたら良いの。
けどね、母さんも闇雲に駄目って言ってる訳じゃ無い事だけは解っておいてね。」
そうやって、その夜は答えを出せぬまま、母と私はそれぞれの思いを旨に自室へと引取った。
それから数日後、私は卓実君と安斉君に時間を取って貰い、思い悩む旨の内を曝け出し相談に乗って貰った。
すると二人は、
「そう言う事なら、高校へ行ったらええ。
正直、歩が来てくれたら、俺らも将来独立するんに心強う成るって誘ったんやけど、おばちゃんがそんだけの事してくれてるん遣ったら、その思いに応えるんが親孝行ってもんやろ!」
そう言われ、私はその言葉に背中を押される形で高校進学を決め、その夜に改めて母へ高校へ進む旨を伝えると、母は大層喜んでくれ同時に安堵の表情を浮かべた。
その時、私が進学するのと卓実君が働くのとは、形は違えどそれぞれが出来る親孝行なんだと心を納得させた。
中学を卒業すると、私は地元の府立高校へ進学した。
成りたい職業があった訳では無く、将来の展望があった訳でも無かったが、高校さえ出てくれればと言う母の思いに、最低限応える事は出来たと思う。
私自身、この頃には母への想いは変らずだった物の、将来への展望と言う物は見出す事が出来ず、大袈裟に言えば生きる張り合いと言う物を失って居た。
そうした気持ちで、平々凡々とした日々を送る中、私が高校二年に上がった年の春。
漸く冬の寒さが緩み、陽の光が日々刻々と冬籠もって居た命へ春の息吹を吹き込む中、思い出したかの如く寒の戻りと言うべき極寒の一日が訪れた。
私は、昨日迄とは打って変わった寒々とした外の様子を、一向に身が入らない態度で受ける授業中に見遣りながら、朝にした母との口喧嘩をぼんやりと思い出して居た。
「歩、あんた、良い加減に身入れて勉強せなアカンやないの!
折角高校へ進学したんやから、ちゃんと勉強して卒業せんと意味が無いで!
このまま遣ったら留年処か卒業も危ういんとちゃうん!?」
起き掛けに、そんな事を言われた私は、
「五月蠅いなぁ、解ってるわ!」
そう、返すのがやっとであった。
母の苦労を十分解って居る筈の私ではあったが、この時の私は中学卒業当時に抱いて居た、自分で金を稼ぐと言う思いが燻ったままで、母の思いに応え進学はしたものの、今直ぐにでも働きに出たいと言う思いが消える事は無かった。
その思いから、私は高校入学当初から禁止されていたアルバイトをしたが、直ぐに学校へバレた事で入学早々、一週間の停学処分を受ける羽目に成ってしまった。
私としては、学業を行いながら稼ぐ事が出来るアルバイトは一石二鳥だったのだが、停学明けに登校すると『次に停学と成れば退学処分やぞ!』と告げられ、私は泣く泣くアルバイトを諦めざろう得なく成ってしまった。 そうした事は、言い訳と言われるであろうが、学業への遣る気を失せさせ、反面今直ぐにでも働きたいと言う思いが、それ迄以上に膨らみ気持ちを逸らせるのだった。
『こんな事なら、いっその事退学した方が願いは叶う!』
そう思いはするものの、そんな事をすれば間違い無く母が悲しむし、これ迄の母がして来た苦労を無駄にしてしまうと、最低限卒業だけはしなければ成らないと踏み留った。
そうした、もやもやした気持ちを日々抱く私は、その日の朝にした母との口喧嘩を思い出し、今の自分に確固たる信念が無いから言い返す事さえ出来ず、自身への苛立ちと情けなさを反省する処か、注意してくれた母へ当たる事でうやむやにしたかった。
寒々とした外の景色をぼんやりと眺めながら、そんな朝の光景を思い出し、帰ったら自身の身勝手な振舞を母へ詫びる事にした。
そんな私が目を遣る校庭へ、何処からか一羽のカラスが舞い降り、暫く方々へ顔を振った後に寂しげに一つカアーと鳴くや、再び空へ飛び立ち居並ぶ屋根屋根を越えて行った。
母と息子の想いは、この先どうなるのか?
今は、展開を上手く描いて行ければと思って居ます。