二十七話『波紋』
順風満帆とも言える生活の中で、社長夫妻の息子強君がクラブの練習中に怪我を負う。
更には、歩へ見も知らない来訪者が訪れる。
その目的は何なのか!?
そうした事があってから、社内の蟠りは無くなったかに見えたが、依然私と戸田に関しては今だ以てぎこちなさは拭え無いで居た。
それでも私が工務店で働き出して二年、工務店は人を入れた事により、更成る飛躍をすべく忙しく成って居り、その仕事内容はどれを取っても評判が良く、依頼が途切れる事無く経営は順風満帆と言って良かった。
そして、家へと目を向ければ、晴夏も小学二年生と成り、日々友達を連れて来たりと賑やかで、日々笑い声と笑顔が絶えない日常。
例えるなら、穏やかな水面。
其処へ、雫が一滴落ちたみたく、暮らしの中へ波紋が拡がる様に事が起こり出した。
その一つに、強君の入院があった。
強君が夏休み中の合宿で、練習中に怪我を負い入院した事は先に言ったが、当初頸椎捻挫と聞かされた奥さんが、合宿先である長野の病院へ真由美を伴って着いた時には、強君の意識は無く緊急に手術が行われて居たそうで、病院へ向かう途中にその事を聞いた奥さんは社長さんへ一報を入れ、聞いた社長さんへ私達は直ぐ様病院へ向かう様に言い、社長さんは経過を連絡すると私へ言うや、取る物も取り敢えず車に飛び乗り病院へ向かった。
この時私は、母が運ばれた時の状況を思い出し、強君が母と同じ様に成らない事を節に願って居た。
社長が病院に着いた時、既に日は落ちており、病院の待合に患者の姿は無かった。
そうした中、対応に当たった看護師の案内で、術後強君が移された病室へ入った社長さんの目に、ベッドへ横たわる強君と、脇に置かれた椅子へ腰掛ける奥さんと真由美の姿があった。
「どうなんや!?
容態は?」
聞いた社長さんへ、
「手術は、成功だそうよ。」
奥さんは、社長さんを安心させるべく穏やかに言った。
これに安心したのか、ふう~っと大きく息を吐いた社長さんへ、
「あなた、大丈夫よ。
お医者様が言うには、クラブの練習中に頭を強く打った様で、当初は脳震盪かと思って居たんだけれど、検査した所、急性硬膜下血腫だと解かって緊急に手術をしたって。
一週間程入院して、経過が良ければ退院して良いそうよ。」
そう言った奥さんに、社長さんは一先ず胸を撫で下ろし、ベッドに横たわる強君を見下ろした。
其処には、麻酔が効いているのか寝入ったままの強君が居り、その横に奥さんと彼女が心配そうに見て居た。
手術が無事終わった事で、社長さんと奥さんは落ち着いたと言い、後は奥さんが病院へ残る事にし、社長さんと真由美はその日の内に大阪へ向かった。
それから一週間後、術後の経過が良かった強君は無事退院する事が出来た。
しかし、直ぐに復帰が出来る訳も無く、寮での養生も難しいとの事から、実家へ戻って家族の元で養生する事に成った。
そんな強君の回復は目を見張る物があり、退院後二週間で主立った後遺症も見られず、本人は直ぐにでも復帰したい思いだった。
しかし、協会規定で復帰迄の期間は原則、受傷後六ヶ月以降と成って居り、直ぐには復帰する事が出来ない決まりであった。
只、ある種の脳損傷に関しては、主治医の判断で受傷後三ヶ月以降六ヶ月以前の復帰も可能と言う規定もあり、強君は三ヶ月後の復帰に向けリハビリを怠らなかった。
漸く受傷後三月が経ち、強君は主治医に怪我の経過と運動を再開して良いか問うた。
いよいよ師走と成る十二月を迎え、強君が待ち望んで居た復帰への許可が担当医から出された。
強君が復帰した時期は、丁度ラグビーシーズン真っ只中で、復帰後直ぐに試合へ出られる事に強君は喜び気合いも充実して居た。
クラブへの復帰許可が下りた翌朝、強君は満面の笑顔と共にチームへ合流するべく家を出て行った。
此れから又、彼がラグビー漬けの日々を送って行くのを私達一家は、彼の活躍を楽しみに支え応援して行くのである。
そうして、普段の日常を取り戻した感の篠崎家であったが、それは突然遣って来た。
今だ、戸田との関係は微妙だが、それでも会社の仕事は順調で忙しく、家へ帰れば妻真由美のお腹には新しい命が宿り、これ迄生きて来た人生の中でピークと言って良い程、満ち足りたこの上ない幸せの中、突如一人の男が来訪した事で、私の人生へ大きな波紋を広げる事と成った。
その日は、何の前触れも無く突如訪れた。
いつもの様に仕事を終え、現場から事務所へ戻ると、
「歩君、お客さんがいらしてるの。」
奥さんの言葉に、社長さんが仕事終わりのミーティングはいいから奥へとの言葉に、私は事務所を抜け来客が待って居るであろう食堂へ向かった。
『お客!?
誰やろう?』
そう思いつつ、奥へ続く扉を開け食堂を見たが、食卓にはそれらしき人は見当たらなかった。
大凡我が家では、来客が訪れると食卓へ人を招くのが恒例と成って居たが、この時に限ってはそうじゃ無く、
「歩君、お座敷で待ってらっしゃるから!」
台所で、お茶の用意をして居る真由美に言われ、私はその来客が座敷へ通された事で只者では無く、私達が戻って来る少し前に来たのだと悟った。
私は、普段は社長御夫妻の居室と成って居る座敷へ向かうと、廊下と座敷を隔てる障子を開け中へ入り、訪ねて来たと言う男性の容姿をマジマジと見た。
男性は一見して初老と見受けられ、身形も三つ揃えときっちりして居り、身に付ける物一つ一つが高級品だと見て取れた。
が、私は其処に座る男性に見覚えが無かった。
其処で私は男性の向いへ座ると、
「辻堂歩と申します。
多分、初めてお会いするかと思いますが?」
と、挨拶を兼ね話すと、
「はい、初めまして。
左様に御座います。」
と返し、胸元から名刺入れを取り出すと、中から一枚取り出し机の上を滑らすと私の前へ置いた。
それを目にしつつ、私は思わず年下の私へ何故に敬語と驚いたが、男性はそうした事を気にするでも無く話しを続け様とした所へ、真由美がお茶と茶菓子を持って現れた。
男性の前へそれらを置き、立ち去ろうとした真由美に向い、
「どうか奥様も、一緒にいらして下さい。」
と言ったのへ、彼が私達を夫婦だと知って居る事に私と真由美は驚き、更に言えば、苗字が違う私が篠崎家に住んでいる事にも、何故か触れない事にも不思議さを覚えた。
それでも、私の横へ真由美が座ると、
「改めまして。
私、古暮興志郎と申しまして、ある地方で会社を経営して居られる、日沖義衛門と言う方の執事をして居ります。
この度は突然に伺い、お時間頂戴致しました事、誠に御迷惑とは存じつつも有り難く思って居ります。
早速では御座いますが、この度は歩様にお願いがあって参りました。」
こう言われ、私は自身の事を『歩様』と言われた事に再び驚き、この先、目の前に座る男の口からどう言った話しが為されるのか、それを想像するだけでろくな事で無い様な気がし戦々恐々とした。
「いきなり、この様な事を申しますと、さぞかし怪しく思われる事で御座いましょうが、どうか、私共の話を聞いて頂きとう御座います。」
そう前置きした所で、私は私事であるが故に、育ての親とも言うべき社長さん御夫妻にも立ち会いを願いたいと、古暮へ言うと彼は全て織込み済みと言わんばかりに快諾した。
その頃には、既に社員達は帰って居り、うちで食事を摂る江島君と時街君、それに晴夏が夕食を摂って居た。
御夫婦はと言えば、夕食を摂らず私達の話が終わるのを待って居たのだが、私がお二人にも話しを聞いて貰いたいと、晴夏共々古暮の話を聞くべく座敷へ来て貰う事にした。
一同揃うと、夫妻へ古暮を紹介し、どの様な話しなのか古暮に話して貰う事にした。
一同を前にした古暮は、次の様な事を話し出した。
地方で代々続く庄屋であった日沖家は、戦後の農地改革で多くの田畑や山を失いはした物の、先代から引き継いだ今の主日沖義衛門が、残った財産から様々な商いを起し、一代で今の企業グループを築き上げた。
そんな日沖も今、体調を崩し寝たきりに成って居ると言う。
そうした彼も、跡取り息子が居た事で愁いを残す事無く死ねると思って居たが、その息子一家が突然の交通事故によりこの世を去ったと言うのだ。
其処で、残る一人娘を探す事に成ったと言い、それが歩の母である初美だと言った。
母初美は、大学へ通っている頃、同じ大学の学生であった父辻堂大祐と出会った。
二人は直ぐ様恋に落ちたと言い、二人して父、つまり歩の祖父の所へ結婚の許しを乞いに来たが、父大祐の将来性に現実味が無いと許しを得る事は出来無かった。
それもその筈。
父がその時学んでいた学問とは懸離れた、到底関連付かない家具職人を目指すと言う物だったからである。
反対する祖父を説得出来ないと悟った母と父は、大学を中退し駆け落ちをする事にしたのだが、その計画は直前に祖父の知る所と成り、母と祖父は双方引く事の無い大喧嘩を繰り広げ、最終的に跡取り息子の兄も居た事から、勘当と言う形で決着を見る事と成った。
その後、家を出た母は、父と共に多くの家具職人が集まる地の、岐阜県飛騨高山へと移り住んだ。
其処で父は修行をし、母は父を支える為にパートへ出て生活を支えたが、程なくして母は歩を身籠もり、修行中の父の稼ぎだけでは生活は苦しい物へと一変した。
それでも母は、その少ない稼ぎを何とか遣り繰りし一家を支えた。
父は器用で勘も良く、仕事を覚えるのも人一倍早かったので、本来五年程掛かる修行期間を三年程で終えた。
親方曰く、これだけ出来れば、何処へ行っても通用するだろうし、独立だって夢じゃ無いとも言わせる腕だったそうだ。
家具屋の給料は、実力主義と言って良く、見習い期間中であっても技術が上がれば、それに比例して給料も上がって行くので、この頃の父は生活するには困らない給料を貰って居たんだそうだ。
そうした父が、ある時母へ、
「大阪へ行こうか?」
突然言ったそうだ。
そうして二人は、木製家具の出荷額が日本一位として知られる大阪へ移った。
そうして移り住んだ下町で、倉庫兼住居と成る建物を借り家具の製造販売を始めた。
最初は中々売れ無かったが、注文家具を取り扱う様に成ると俄に注文は増え、一年もする頃には生活に困らない額を稼げる様に成って居たと言う。
「そうした状況に安堵された旦那様は、もう手を差し伸べる必要も無いだろうと、影ながらお嬢様を見守る為、傍で見守って居た者を戻されました。」
言った古暮に、思わず私は、
「家を出てから、ずっと黙って見守ってらしたんですか?」
聞いたのへ、
「はい、左様に御座います。
旦那様は、それ程に心からお嬢様を愛して居られました。
ですから、可愛さ余って、勘当と言う様な事を為さりましたが、お嬢様育ちであるが故に普通の暮らしが出来る筈は無いと、直ぐ様戻ってらっしゃる物と思われてました。
ですが、旦那様の目算は外れ、お嬢様は意外にも苦労を苦労と思われ無かった様で、旦那様はその性根の強さに驚かれるのでした。
それでも、旦那様はお嬢様の事が心配で仕方がありませんでしたので、移られる土地土地へ人を遣り見守らせておいででした。
ですから、私共がお手を差し伸べられては如何でしょうかと申しましても、旦那様は見掛けと違い芯の通ったお嬢様が、何かしら援助でもした事が解れば、余計頑なに成り、将来万が一にも訪れるかも知れない再会の機会さえ失ってしまうと申され、決して見守って居られる事を悟られては成らぬと我々へ厳命為されました。
そうして、辻堂様共々の暮らしを見守って居りましたが、見守りの者を戻して一月程が経った時、テレビのニュースで辻堂様が喧嘩の仲裁に入り、刺されて亡くなったと知ったので御座います。
その時、旦那様は驚かれると同時に、
『こんな事に成るなら、二人の結婚を許してやれば良かった!』
と、悔やまれて居られました。
私共は正直、お辛い暮らしから脱却出来るチャンスですので、説得すればすんなりとお戻りに成られるのではと言上しましたが、旦那様は決してその様に安易な娘では無いと仰られました。
それで、再び密かに人を遣り、お嬢様の様子を見て来る様にと人を使わしましたが、お嬢様は一頻り悲しまれると、辻堂さんと営まれて居た家具工房を閉められると、近くの街に小さなアパートを借りられ、歩様と新たな暮らし始められました。
私は、てっきり御実家に戻って来られると思って居りましたが、このお嬢様の様子に、旦那様が仰られた意味が良く解りました。
それからのお嬢様は、歩様の事だけを心の支えに、こちらで働かれ頑張って居られる様でした。
そして、その暮らしぶりを旦那様に話しますと、その都度都度、歩様の成長とお嬢様の事を案じ為されて居られました。
そうした間でも、何かあれば頼って来て欲しそうにされて居られましたが、お嬢様が家へお見えに成る事は一度として御座いませんでした。
ですが、毎年お盆の頃には、お墓に見知らぬ花が備えてありまして、旦那様はお嬢様が密かに参られてるのだろうと仰って居られました。
そうして、あの日を迎えてしまいました。
お嬢様が亡くなられた、あの日です。
旦那様は酷く動揺され、長く悲しみに暮れられ後悔されました。
あの時、結婚を許してやって居れば、お嬢様と歩様が御実家に戻って来られ、旦那様のお傍に居られただろうにと。
結婚して間もなく奥様を亡くされた旦那様にしてみれば、二人のお子様だけが家族と言って良く、生活の支えと言って過言では御座いませんでした
こう言っては何ですが、他に在る親戚の方々を旦那様は快く思って居られませんでしたので、私共は直ぐ様、旦那様へ歩様を引取られたら如何かと申しましたが、旦那様は今更名乗り出た所で何と成ると申され。
これ迄、ほっと居て置いて、今更と!
先程申しました事を歩様が知れば、母を見捨てたと恨まれはすれ、喜ばれる事は無いであろうと。
そうした中、こちらでお世話に成る事が解って安心もして居られました。
本当に、良い家にお世話になれて良かったと。そして、
『もう、これで良い!
私から離れて行った初美の思い。
それを、歩も理解して居るだろう。
なら、無理庫裡連れて来る事などせんで良い!。』
と仰られました。
その日から今日迄、私共は歩様のご様子を伺う様な事はして居りませんでした。
ですが一月前、ご様子を伺いに来ました。
その時に、ご結婚為され、お子様迄いらっしゃったのには驚きましたが、大学を卒業為されこちらの会社を手伝ってらっしゃる。
その事を旦那様へ報告すると、旦那様は歩様と真由美様、それにお嬢ちゃんの映った写真を食い入る様に見詰められ、殊の外嬉しそうに眺めてられましたが、この度起った当家の不幸を思うと心を痛められるのでした。
そうして本日、私共がこちらへ参った次第に御座います。
その不幸と申しますのが、跡取りにも恵まれて居られた旦那様でしたが、一月前にその跡取りであった御子息の勝一郎様が、御家族で乗って居られた車に、飲酒運転の若者が運転する車が追突すると言う事故にあわれ、御家族全員が亡くなられる御不幸に見舞われたので御座います。
突然の事で旦那様は意気阻喪と成られ、その姿は見るに堪えない物で、お声を掛けるのも憚られる程に御座いました。
それからは、体調を崩され寝込まれる事が多く成られました。
そうして半月程が過ぎた頃、旦那様は私を呼ばれ仰られたので御座います。
『古暮、儂はそう長く無いかも知れん。
其処で、もう形振り構って居れん!
悪いが、歩の所へ行ってはくれんか!?』
そう仰いまして、これ迄の事を正直に話した上で、御実家へ来て頂け無いかと申されました。
勝手なお願いだとは重々承知して居りますが、何卒旦那様の願いを聞き入れては頂けませんでしょうか?」
切実だと言わんばかりに言った古暮の様子を、私は余りに唐突な話に心の動揺が治まらない上、余りに身勝手とも言うべき頼みに腹立たしささえ覚えた。
『母さんの苦労を解って居ながら……」
私はこの時、口を開けば罵詈雑言しか出て来ない様な気がし、ここは敢えて黙っておくのが得策と口を噤むのだった。
座敷に大の大人が五人も雁首を揃える中、流れる沈黙は事の重大さ故に誰もが口火を切る事を避けて居る様であった。
沈黙の中、痺れを切らした古暮が、
「歩様、どうで御座いましょうか?」
改めて聞いて来たのへ、流石に落ち着きを取り戻して居た私は、
「突然に、そんな事を言われても、何と言えば良いのか解りません。
正直な所、母の苦労を傍で見て来た私に取って、唯々腹立たしさしかありません。
そんな私に、御家の大事と言われても、私には他人事の様に思えてどうする気にも成りません。
これ迄、母から身内は一切居ないと聞かされ続けて来たのに、突然、祖父の存在を知らされた上、体調を崩して居るから会いに来いと言われても、はい、そうですかと行ける様な感情には成れません!
それに、私が伺った途端、その主さんが嫌ってる親戚の方々が、一斉に私の事を調べた挙句、あれやこれやと難癖付けられ、最終的には遺産が目当てなんだろうと、言われも無い疑いの目で見られるんですよね!?
そんなのは真っ平御免です!」
自身のルーツを知った歩の取るべき道は!?
そして、そうした歩の周りに居る者達の想いは!