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ただいま、僕の帰る場所  作者: 西邑亮多郎
一節 母の想いと子の夢
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一話 母の思いと子の夢

初めて、『小説家になろう』へ寄稿します。

母子家庭の主人公が、母の想いや周りの人々との関りから、どの様に成長して行くのか?

突然起こった妻の変化に戸惑う主人公が、その理由を考える内に、自身の生い立ちを振り返って行く。

その様な書き出しから始まる物語です。

週一ペースで書き進めればと思って居ます。


「ただいま。」

 朝起きて、私が声を掛けても、最近の妻真由美は心無い返事しか返して来ない。

 気が付けば彼是一月、まともに彼女の声を聞いていない様な気がする。

 何が原因なのか、私には思い当たる事がてんで無かったが、誰にだって隠し事の一つや二つはある。

 かく言う私も、清廉潔白と言い切れる程の人間では無く、突っつかれれば隠し事の一つや二つはあり、その中には妻に隠して居る事だってある。

 そうした事がバレればどう成るのか、考えただけでも恐ろしく成り、私はその事がバレ無い様に細心の注意を払って来たし、その事を彼女が知って居る筈は無いのである。

 ならば、何故に機嫌が悪いのか!?

 普段の生活の中で己自身に原因があったのか、それとも彼女自身に何かあったのか、将又双方に何かしら原因があったのかさえ考え付かない。

 こうした時、原因は得てしてどちらかの浮気を疑う物であろうが、私には生憎(あいにく)その様な相手も居なければ暇も無い。

 そして、妻真由美はと言えば専業主婦であり、遣ろうと思えば時間の遣り繰りは出来るであろうし、良く聞くカルチャースクールやパートへでも出れば、様々な人と関わる事で気も紛れそうな物だが、家事や家の用事以外に興味が無いのか、日々買い物以外出掛ける事は無く、日がな一日を家の中で過ごして居る様である。

 かと言って、妻は人見知りでも無ければ人嫌いでも無い。

 事実、ご近所との付き合いではにこやかに愛想良く、人付き合いと言う物を卒無くこなして居るし評判もすこぶる良い。

 そして、私達の夫婦仲に於いても、結婚当初から一年余りの月日を過ごして来た間も、一度として喧嘩らしい喧嘩をした事が無く、寧ろ愛し慈しみ合って来た仲の良さである。

 そうした事からみても、私からすれば非の打ち所が無い妻なのだが、ここ一月、家の中では日々仏頂面を携え言葉少なく私に相対するのである。

 流石に、幾度と無く、

「何を怒ってるんや?

 何か気に入らん事でもあるんか?」

 と聞くも、それには「別に。」と答えるだけで埒が明かない。なので、

「何か、直す所が有るなら言うてくれ!」

 と望むのだが、それにさえも「別に無いわよ。」と応えるだけであった。

 そして今日迄、徹底して変らぬ態度なのだが、それでも妻は家事を疎かにする事無く、食事に於いても朝晩一緒に食べる事を守るべく、私が遅く成る日などは十五に成った娘を先に食べさせ、私が帰る迄箸を付ける事無く待ってくれて居るのである。

 妻がこの様に成る迄は結婚して一年、子供は居るものの、新婚を絵に描いた様に仲が良く日々幸せが満ちた家庭であった。

 そうした幸せな日々が、これから先もずっと続く物と思って居たが、突然起こった妻の変貌は私へ困惑と不安をもたらした。

 私達には子供が一人、女の子が居る。

 が、その子は妻の連れ子で、私達の実子と成る子はまだ誕生して居ない。

 私は今年三十四と成り、妻は二つ上の三十六と成る、子供を作るには俗に言う晩婚であり、急ぐに越した事が無い事位十分に承知して居る。

 故に、この事が理由かとも思ったが、

「子供は、天からの授かりもの。」

 と、常々言って居る妻故に、やはりそれが理由とも思え無い。

 なら何故、急に妻がこの様に成ってしまったのか、私には皆目見当が付かない。

 そもそも、私が妻真由美を嫁にと決めたのは、勿論その容姿や人柄が半分を占めるのだが、もう半分に人柄と彼女の中に亡き母の面影を見たからでもあった。

 私の家は、物心付いた頃より母との二人暮らしで、俗に言う母子家庭であった。

 そして、私の記憶を遡っても、父と言う存在は記憶の片隅にも存在しなかった。

 故に、私は物心付いた頃より母が家に居た記憶が薄く、いつも古びたアパートの一室で老婆と過ごして居た事を覚えて居る。

 その老婆の事を、私は「キク婆」と呼んで居た。

 何故に、その呼び方に成ったかと言えば、母がキクエさんと呼んで居たのを聞いての事だと思う。

 後に知った事だが、このキク婆は母と私が住んで居たアパートの大家さんで、幼い私を抱えて居ては母が働けないであろうと、母が働きに出て居る間中ずっと私を預かってくれて居た。そして、私はキク婆を本当の祖母と思い慕って居た。

 そうしたキク婆の支えもあり、母は昼夜働きに出る事ができ、昼間は何処かの会社で事務員として働き、終わってから夜には居酒屋で深夜迄働いた。

 それでも、仕事から仕事へ移る少しの間に家へ戻り夕食を作り、食事を共にしてから夜の仕事に出て行くのだった。

 そう言えば、私が小学低学年の頃だったと思うが、余りの寂しさから、つい、

「お母ちゃんは、何でそんなに働くん?

 うちって、そんなに貧乏なん!?」

 聞いた事があった。

 すると母は、

「お母ちゃんね、大分と頑張ってるから、ほんまの貧乏って訳じゃ無いけど、あゆむが大きく成って上の学校へ上がる時、少しでも困らん様にしといて上げたいのよ。」

 そう言って、何故か楽しそうに笑っていたのを、今でも時折思い出す。

 そんな母を日々見て来た私は、

『必ず、母ちゃんを楽にさせたる!』

 そう心に誓った物である。

 がしかし、まだまだ幼かった私は、一体どの様にすれば母親を楽にさせる事が出来るのかを知らなかった。

 強いて言えば、そうした幼い子供が真っ先に思い付く事と言えば、唯々金持ちに成る事だけを単純に思うであろう!?

 幼い頃の私が、現在(いま)の様な職業選択の自由を知って居たなら、そうした漠然とした物では無く具体的な職をあげられたであろうが、その当時の私は金持ちイコール社長と言う図式しか頭に思い付かなかった。

 それ故、社長と言う物に成りさえすれば、母を楽にさせられると旨に抱きつつも、そう成る為には何をすべきかと言う具体的な方法を見出せず、更には具体的な目標も無いままに日々を過ごした。

 そうした私は、遮二無二頑張らなくても、それなりに良い成績を収められた物だから、いつしか向上心と言う物さえも心に育む事を忘れてしまった。

 そんな、のんべんだらりとした日々を過ごして居た小学五年の冬休み。

 幼い頃から、

「あゆ君は、将来大物に成るよ!」

 そう言い続け、可愛がってくれたキク婆が突然この世を去った。

 大家であり管理人でもあるキク婆の部屋はアパートの一階にあり、私達店子(たなこ)が住まう三畳程の台所に六畳一間の和室、風呂無しトイレ共用の部屋とは違い、風呂トイレを備えた2LDKの間取りであった。

 そうした大家さんの部屋に収まるべく、簡素な祭壇は設けられた。

 そうしたつましい祭壇とは裏腹に、生前に於けるキク婆の人柄や付き合いを反映するかの如く、朝から晩迄ひっきりなしに弔問へ訪れる者が後を絶たなかった。

 喧噪に包まれた通夜は、宵の闇を迎えると共に更なる賑やかしさを増し、故人であるキク婆の生前に於ける人柄の為せる技であったろう。

 そうした忙しさは、生前にお世話に成って居たと言う理由で、通夜葬儀を手伝うと申し出た母を親族達に受け入れさせた。

 通夜葬儀はてんてこ舞いの忙しさで、気が付けばキク婆の御遺骨は骨壺に収められ、遺影と共に真っ白な布に包まれ祭壇に置かれてあった。

 滞り無く通夜葬儀も終わり、訪れる者達も居なく成ったキク婆の部屋。

 遺族と成る息子夫婦を始め、数人の親族が今後に付いて話し合って居た。

 横目でそれを見遣りながら片付けを手伝う母へ、話し合いが終わったのかキク婆の長男が声を掛けた。

「辻堂さん!?

 辻堂さんでしたよね?」

 そう切り出した長男は、亡きキク婆と親しかったであろう母を見込んでと前置きをし、唐突にキク婆が亡く成った事で親族として話し合った末、アパートを取り壊す事を決めたと告げ、今住んでる者達へ向こう三ヶ月の内に退去する様伝えて欲しいと頼んだと言う。

 余りに突然の事で驚いた母ではあったが、一応三月と言う猶予があった事で身の振り方を決める事は出来た。

 そして、他の住人達もそれぞれに幾ばくかの退去費を貰い、落ち着く先を見付けられたそうだ。

 私達は、一月後には同じ市内に在った別のアパートへと引っ越し、私は学区が変わり転校する事と成った。

 これには、私達母子の事は勿論、母の通勤や生活に対する利便性等、様々な事を考慮に家選びを行ったが、最終的に多くを占めたのはやはりと言おうか金銭面であった。

 損得勘定と言う物を持ち合わせて居なかったのか、キク婆のアパートは幾ら風呂無し共同トイレと言えども、驚く程に家賃が安かったと後に母は言って居た。

 そして、そうした物件を他に探しはしてみたものの、私が通う学校の学区には見当たらず、結局の所、同じ市内ではあるが別の学区内に物件を見付ける事と成った。

 この環境の変化は、少なからず私の心へ大きな影響を与える事と成った。

 日本第二の大都市である大阪。

 古代から浪速と呼ばれ、摂津国東成郡や西成郡一帯の呼称であったが、現代に於いては大阪市域の呼称として認知されて居る。

 そうした浪速の街は、北と呼ばれる梅田界隈、南と呼ばれる難波界隈、新世界と呼ばれる通天閣界隈から成る、大阪三大歓楽街が良く知られて居るが、そうした歓楽街以外にも街々に商店街や飲み屋街は点在する。

 そうした点在する街の一つ、北と呼ばれる西日本最大の歓楽街梅田からも程近い、昭和時代の名残が色濃く残る下街の商店街。

 その商店街から迷路の様に伸びる路地裏を入った一角、今まだ昭和三、四十年の情景を色濃く残す町並みの片隅に、これ又昭和の情景を懐かしく思わせる雲雀荘と言うアパートがあった。

 木造二階建て部屋数十部屋のアパートは、風呂無し共同トイレと言う、前に暮らしたキク婆のアパートを思わせる建物であった。

 このアパートに、私は母と共に引っ越しをしたのである。

 転校する前の学校に於いて、それなりの成績を収めて居た私は、転校先で見た生徒達の成績に余裕を決め込み、真剣に勉強へ向き合う事をしなく成ってしまった。

 決して天才と言う者では無いが、ほぼほぼ真剣に勉強をせず共、テストは上位から数えれば良い様な点を取る事が出来た。

 そうした環境では自身の学力が高いと勘違いし、真剣に身を入れて勉強する事が馬鹿らしく思える様に成り、母を楽させる為に社長に成ると言う目的の為、それ迄持ち合わせて居た向上心と言う物も影が薄れ、いつしか目標は漠然と(金儲けをする!)へと成り下がり夢からは遠ざかってしまった。

 そうした裏付けの無い者の成績は、案の定と言うべきか坂を転げ落ちるが如く下って行き、気が付けばドロップアウトと言う形で周囲に認知される迄に成って居た。

 更に、悲しい事に転校後、私には友と呼べる者が一人も出来無かった。

 それが何故かは、直ぐに解る事と成った。

 転校早々、一人の同級生から、

「おい、お前んち貧乏なんやてなぁ。

 お父ちゃんも居らんのやろ!?」

 子供に取って、そんな他愛もない言葉も、私を蔑むには十分であり、友達付き合いから遠ざけ殻に閉じこもらせた。

 最初の内、話し掛けて来る者も居たが、私と話す事で仲間外れにされるのを恐れ、その数は次第に一人又一人と減らして行った。

 今から思えば、何故に父親が居ないだけで虐めを受けたのか解らないが、両親が居る事が当然至極と思われて居る価値観の中では、片親と言う者は異質で異分子にでも見えたのであろう。

 そうした事は、幼かった私に孤独と寂しさをもたらした。

 こうした時、勉強や何か他の物に打ち込める物があれば、社長と言う漠然とした目標を具体的な物に変え、成績向上に向け邁進する事で道を踏み外す事も無かったであろうが、そうした環境の変化やそれによる孤独は、逆に私の心から遣る気を奪い、努力と言う物をいつしか無意味な物へ思わせてしまった。

 あれ程、社長に成って金持ちに成ると心に期して居た筈が、気が付けば学歴や経験を要する事無い職業を視野に入れる様に成った。

どの様に盛り上げて行くか、それが課題だと思える出だしに成ってしまいました。

極力、読み易い作品作りを目指します。

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