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真摯な君の選択

作者: 頃日

 白い部屋だった。床や壁には模様一つなく、机や椅子などの調度品もない。それとは対照的に、天井は黒いカメラで隙間無く埋め尽くされている。レンズの向こう側の人々は、息を殺して、これからやってくる彼を待っていた。

 扉が静かに開く。硬質な革靴の音と共に入ってきたのは、妙齢の男性。白に近い、淡い金色の髪。銀縁の眼鏡、白い肌。その上に白衣を身につけている。白い部屋にいる白い彼に、見物人たちは知らず目を擦った。

「やぁ、久しぶりだね。親愛なる生徒諸君」

 部屋の中央に立ち、カメラに向かって、白い彼はにこやかに微笑んだ。その映像に、あるものは歯軋りをし、あるものは拳を握り締める。

 天才科学者、アーノルド・(レイ)

 彼の発明品の余波により、過去、何度法律が書き換えられ、また作り出されたことか。しかも、よりによって今回は……。

 代表者のひとりが、マイクを手に取る。少しくぐもった声が、白い部屋に届いた。

「早速本題に入るが、その……君がタイムマシンを製作しているというのは本当かね」

 まさか、そんなものが成功するはずがない。しかし、作っているのが彼だ。噂が広まれば、また世間が騒ぐ。なんとかこの場で彼を思いとどまらせなければ。しかし、そんな彼ら思惑は、続く彼の言葉に、あっさりと崩された。

「もう完成させている」

 空気が、凍る。次いで、激しい動揺が彼らを襲った。

 混乱する彼にかまわず、零はにこやかに話続ける。

「ただし、過去にしか行けないがね。すでに実証も済んでいる。これから、その〔実験〕の詳細を話そう。被検体十五歳の少年だ。一見大人しそうな、文芸少年にしか見えない彼だが、しかし、その内には驚くほどの情熱が潜んでいた。――それでは諸君、」

 笑みを更に深め、まだ彼の言葉を理解できないでいる人々に向けて、彼は二度、両手を打ち鳴らした。

「授業を始めよう」

 カメラの一つがスルスルと下りてきて、白い壁に映像を広げる。そこに映っていたのは、見知らぬ夕暮れの教室だった。



       *      *



被献体 九輪(くりん) (れい)


 夕暮れの教室だった。窓が開き、風が静かにカーテンを揺らしている。黒板、机、椅子が、仄かに紅色に染まって見えた。

 麗は、その教室の自分の席の傍らに、ひとり佇んでいた。

 机を掌でなぞりながら、先ほど、自分が授業中にした失態を思い起こす。世界史の授業だった。本来、教師に自分が指名される日付ではなかったが、偶然にも自分の前出席番号と前々出席番号の生徒がそろって休み、指名が自分に来た。油断して、数学の予習をしていた麗は、予想外の事態に慌てて見当違いな答えを返してしまったのだった。

麗は、その失態を反芻する。何度も何度も。どんな問題だったか、それに自分がどう答えたか、正しい答えは何だったか、どのような状況だったか、なぜ自分が間違えたのか……。

 ようやく机をなぞるのをやめ、ふっと短く息をついた。

 大丈夫。

 おさらいは終わった。

 後は、これを彼に伝えるだけ――――。

 突然、ガラリと教室の前扉が開き、人が入ってきた。少々背が高く、黒ぶちの眼鏡をかけた少年。彼は、麗の存在に気づくと、目をすがめ、小さく鼻を鳴らして見せた。

誰だったっけ……。

 思い出せず、そのため鼻で笑われる理由など考え付くはずもなく、しかしそんなことはどうでもいいかと視線をそらしたところで、少年のほうから話しかけてきた。

「珍しかったよな、あんな問題でとちるなんて」

 いつの間にかこちらと距離を詰めていた少年は、その高い背でもって麗を見下ろしてきた。その顔には、喜色が浮かんでいる。

「あまりにもそつがなさ過ぎるから、サイボーグかとも考えてたけど。今日から訂正しないとな」

麗は、静かに少年を見上げた。……思い出した。

 確かこの少年は、理系の成績一、二を競う常連者。しかし、全体順位ではせいぜい十番以内に入る成績だったはず。名前は確か、朝生(あそう)公博(きみひろ)

 麗は意識せず眉を寄せた。彼の()に、過去の自分と同じ光を見た気がして。

 究められない者の眼だ。

 努力をすれば多少は身につくものの、それが突出することはない。生まれもった、矮小な器――。

 小さく、嘲笑(わら)う。

「………そつがないのは、当然」

 顔はまだ笑っている。

「何度でもやり直せるんだから。……当然」

麗の薄い笑いと、薄暗い眼の光に気圧され、いつの間にか朝生の顔に浮かぶのは、喜色でなく小さな恐怖になっていた。 そんな彼に、一瞬真摯(しんし)な表情を向けると、麗はおもむろに尋ねた。

「どういう意味か、知りたい?」

 ひやりとしたその言葉に、朝生は思わず一歩、退いていた。しかし、恐怖を感じているのを認めたくなかったのだろう、むきになって「教えてもらおうじゃないか」と相手に返す。

 麗はしばし黙り込み。やがて、静かに語りだした。

 

 ぼくの家は、過疎の進んだ山奥の村にあった。学校や、役場、商店のある町までは、車で二時間かかる。

 父親は猟師。母親は事務員。母のほうが稼いでる額は大きくて、そのせいなのか知らないけど、昔からふたりは仲が悪かった。

 怒鳴りあい、物の投げあい、刃物まで出たこともあったけど、誰も止めやしなかった。当然だ。お隣さんも、そのお隣さんもいない。家に一番近い住人も、あのふたりの怒鳴り声さえ聞こえたかどうか。

そんなふたりの争いの調停役を務めるのは、いつもぼくだった。

なんせ、お互い頭に血がのぼって、言い争いの元が何であったか、どちらのほうにより非があるのかなんて、冷静に判断できる状態じゃなかったから。

 ぼくは、村で一番頭が良かった。それは、車で二時間かかる、町の小学校でも同じだった。成績で、ぼくに敵う子どもは誰ひとりいなかった。 

一年から六年まで、ずっと子どもたちの仕切り役として学級委員を務めていた。そんな子どもだったから、大人ふたりも、ぼくに一目置いていて、ぼくのいうことになら多少耳を傾けたってわけ。あの人たちの学歴は有って無きがごとしだったから尚更ね。

 ぼくは、あの家が大嫌いだった。学校が終われば、帰るのに二時間かかるから、遊ぶ間もなくすぐに戻らなきゃいけない。そして、母の運転する車に乗って家に帰ると、父もすでに家にいて、しばらくすると喧嘩になる。

 カフェとか、ゲームセンターなんて、村にはない。友達の家は遠すぎる。逃げれるところなんてどこにもなかった。

 言い争いに割って入って、ふたりを宥め(なだめ)ながら、いつも思ってた。こんな家、絶対出て行ってやる、って。ぼくは、こんな片田舎で終わる人間じゃない。こんなつまらない諍い(いさかい)の調停役で終わる人間じゃない。いつか都会に出て行って、そこで思う存分、自分の力を生かすのだと。

 その機会は、思ったより早くやってきた。

 子どものいなかった叔母が、ぼくの成績と、都会の中学校に行きたがっていることを聞いて、学校に通う間、預かってもいいといってきたんだ。もちろん、喜んで承諾したよ。

 有名進学校を受験して、意気揚々と都会にやってきて。入学してそうそう、実力試験があって、それを受けて――愕然と、した。

 順位が、三桁だったんだ。何の見間違いかと思った。でも、違った。何度確認しても、この順位が、ぼくの実力だった。

 それでも、まだ希望は持ってたよ。こちらの試験での形式に慣れてないだけだ。ぼくが学校で一番優秀なはずだって。

 ……だけど。授業が始まると、ぼくと同じ答えを出す奴がいる。それ以上にいい答えを出す奴がいる。クラスの何人かが、ぼくより先に手を挙げる。闇雲に挙げてるんじゃなくて、あいつらはぼくより頭の回転が早いんだってことは質問の答えを聞いてればわかった。学級委員には、なれなかったばかりか、その候補にすら名前が挙がらなかった。

もう、認めるしかなかった。この学校には、ぼくより優秀な奴が、大勢いるんだってことに。

それがわかってから、今までにないくらい努力をした。毎日毎日、勉強して勉強して、さりげなく周囲に気を使って、自分ができる奴なんだってことを示唆して……。

 でも、駄目なんだ。順位は二桁になったけど、それ以上は絶対あがらない。どんなにクラスに尽くしても、そこでの役割は補佐でしかない。

 ある日、冬休み前に叔母がいったんだ。麗ちゃん、もうお家に帰る? って。疲れたぼくを気遣った言葉でもあったんだろうけど、それは同時に、ぼくに期待しなくなった証拠でもあった。ぼくは、呆然としながら荷物をまとめて、冬休み初日に叔母の家を出て行こうとして……。

 そんなときだった、あの手紙が届いたのは。

 真っ白な封筒だった。

 差出人どころか、宛名すらない。

 手紙には、こうあった――。


『親愛なる過去の皆様へ、この度は皆様に時間(タイム)移動体(マシン)を贈りたく、手紙をお送りました。ただし、贈り物の代償に、皆様には、私の作品の被献体となって頂きたい。あなたが時間(タイム)移動体(マシン)を使って行うありとあらゆることを、私は記録し、検分し、鑑賞します。

ご了承される方のみ、下記の場所においでください。

○○区××工場跡地』


 ……何の冗談かと思ったよ。

 でも、ぼくもちょっとおかしくなってたんだろうね。

 気が付いたら、手紙に載ってる住所を調べて、その工場跡地にいたんだ。そこには、白衣の男性がいて、手に持ってた鍵を、パッと投げてよこした。「君のものだ」って。

『ここに来た時点で、契約は完了だ。君の身体は、既に時間(タイム)移動体(マシン)として改造されている。その鍵は、いわば意識集中、行く時代(とき)をより細分化するための道具だ。どの扉でもいい、挿してごらん?』

 ぼくは、おそるおそるそれを廃工場の扉の一つに挿してみた。扉を開けると、そこには……機械の部品を組み立てる、工場スタッフたちがいた。もう、とっくに、機械なんて止まってるはずなのに。扉の開いた音で、そのなかのひとりがドアを振り返る寸前、ぼくは慌てて扉を閉めた。

そのまま転がるようにして、そこから逃げ出した。

 それから、村に戻る列車の仲で、この鍵を眺めながら考えた。もし、この時間(タイム)()動体(シン)を使うならば、白衣の男性に会って、この鍵を貰い受けた『記憶』がなければならないだろう。つまり、あの男性に会った後のぼくの時間ならば、書き換え可能だということになる。

田舎から出てきた後の、これまでの経緯を思い出した。

テスト順位三桁の自分、学級委員に名前もあがらなかった自分、もうお家に帰ったらといった叔母の言葉――。

駄目だ、時間()移動体()を使わないなんて選択肢はありえない。

 これから、生きていくなかで、これ以上の屈辱は、耐えられない。

 耐えられない………。

 それなら、ぼくは、生きるために。理想の自分になるために。

《ぼく》を、……書き換えよう。

 

 それから後は、叔母に頼み込んで。もう一年、叔母の家に置いてもらえることになった。冬休みが明けた、学校でのぼくは無敵だった。もし何かを間違えたなら、二、三日前の自分のところへ行って、そのことを過去のぼくに伝えればいい。 

そうすれば、間違えた《ぼく》はいなくなり、新しく間違えなかった《ぼく》に書き換えられる。だから、もう間違えることはない。

ぼくは、完璧になったんだ――一年前から、ね」


 そう語り終えると、(れい)は薄目に朝生(あそう)を観察した。

 彼は、呆然としていた。ゆるゆると頭を振り、

「そんな、馬鹿な話――」

 そういって笑おうとするが、失敗して、その喉からは引き攣ったような声が出たのみだった。

 それに、麗が小さく噴きだす。

 カッとなって、朝生は麗を怒鳴りつけた。

「そんな話、信じられるか!」

「信じられるはずだ」

 それに、麗は静かに答えた。

「ぼくの、この一年間を見てきた人間ならば」

 それに、朝生はグッと息を詰まらせる。いつも成績首位、予習復習を忘れたことはなく、教師の質問には常に彼らが望む答えを返し。場のふいんきをよく読み、壊すことなく、クラスをうまく纏め上げ……。

彼のことを、サイボーグだと言っていたのは、あながち冗談ではなかったのだ。彼は、それほど完璧といってよい人種であり、その普段の行いこそが――彼の話が本当ではないかという疑いを否定できない理由となる。

「どんなミスだって、ぼくは自分に許さなかった。書き換えられるのは、ぼくで、百八十二人目……」

 グラリと、朝生は自分の視界が歪むのを感じた。

 百八十二人?

「気が狂ってる……」

 呆然と呟いた相手の言葉に、麗は不思議そうに首を傾げた。

「なぜ、気が狂ってるなんて思うんだ? これは、君たちもやってることなのに」

 麗は子どもに言い聞かせるように話を続ける。

「変わるべくして変わる人間が、何人いる? よりよい自分になるということは、周囲から期待される型に、自分の理想とする型に、自分を押し込めるということだ。そこから自分がはみ出したら、バットで体を押し込め、包丁でそれを切り取るということだ。

それは、精神的に、過去の自分をなかったことにするということじゃないか。一体、ぼくのしていることと、君たちのしていること、どこが違うっていうんだ?」

 違う、と言いかけて。

 そこで、朝生(あそう)は今までの自分を振り返る。

 有名進学校。ここに入るよう、小さいころから親にいわれていた自分。そのために、好きだった水泳をやめた。公立高の友達と、あまり遊ばなくなった。周囲から、頭の良さをほめちぎられ、成績のためならと時間を惜しんでひたすら勉強にはげんだ。多分、自分だけじゃない。

この学校にいる人間は、そのほとんどが、同じ想いをしてきただろう。

 理想の自分になるために。周囲から認められる自分になるために……。

ぼくのしていることと君たちのしていることの、一体どこが違うんだ?

 麗は、しばらく朝生を眺めていたが、やがてそれに飽きたのか、視線をそらすと、制服の胸ポケットから銀色の鍵を取り出し、教室の扉へと向かった。

 それに、はっと朝生が顔を上げる。

「おい、待てよ……」

 そういって弱弱しくこちらへ腕を伸ばしてくる彼に、小さく微笑むと、麗は鍵を扉に差込み、ドアを開け、躊躇い無く足を踏み出していった。 

扉の向こうの窓には、夕暮れの風景ではなく、白雲に浮かぶ月の舟がかかっている。目の前で、扉が閉まる。慌てて少年が立ち上がり、扉を開けたときには、もう窓には夕暮れの風景が映るのみだった。


**

 

 薄暗闇のなか、麗はゆっくりと瞼を上げた。冷えた空気に、ふるりと体を震わせる。最近は、日が暮れるのが早くなってきた。

 空には、大きく欠けた月が、雲にゆらりと乗って、そこにあった。

 窓のひとつを開け、彼はそっと地上に降り立った。

 正門を抜け、歩いて十五分ほど。確か、昨日のこの時間帯には、叔母はまだ帰って来ていないはず。家の電気は、ひとつもついていなかった。

玄関から堂々と入ると、階段を上がり、自分の部屋に向かう。今彼は塾の時間だが、もうそろそろ帰ってくることだろう。

机の上にあるノートを広げ、麗は素早く、さきほど自分が授業中にやってしまった失態を書き込んでいく。

 間違えたのはどんな問題だったか、それに自分がどう答えたか、正しい答えは、どのような状況だったか、なぜ自分が間違えたのか……。

ちょうど書き終えたところで、玄関のドアが開く音がした。 階段を上ってくる音、そして――――。

 彼は、部屋にいる自分を認めると、眉を寄せ、嫌悪もあらわにこういった。

「また、か」

 ため息をつき、彼は持っていた鞄を下ろす。

「今度は、どんな恥をかいたんだ?

 ……まぁ、なんとなく予想はつくけど。数学の課題と塾の宿題が、現段階でまだ終わってない。授業中にそのどちらかの予習をしてて、急なご指名に焦って見当違いな答えを返したとか、そんなところだろう?」

 その言葉に、麗は肩をすくめて答えた。さすがに、百八十二回目ともなると、もう自分がどんなミスをするのか、大体わかるようになってくる。……それでも失態を犯すのが、自分だが。

「ノートは?」

「もう書き込んだ」

「そうか、なら行こう」

 そういって、彼はノートを見ないようにしながら、扉に向かう。

 どこに、とは聞かなかった。以前、自分も、未来の自分とそこに行ったのだから。

 部屋にある黒い雨合羽を着込み、麗と彼は物音を立てないように階段を降りて玄関を開け、目的地へと向かう。近所の人間に見つかってはたまらない。

静かに人通りの少ない道を通り、着いたところは廃工場だった。

 ふたりで、中に入る。誰も入って来れないよう、扉に鍵をかけた。古びた機械に立てかけてあった金属バットを手に取ると、彼はゆっくりとこちらを振り向き――。

 麗を、殴りつけた。

眉間に一撃。気を失い倒れる麗を、更に彼は殴り続ける。

脳天に、顔に、胸に、首に、金属バットを振り下ろす。骨が陥没し、肉が裂け、その体は見るも無残なありさまになった。多分、もうとっくに死んでしまっているだろう。振り下ろされるバットに、体はただ痙攣を返すだけだ。

 ようやくその行為をやめると、彼はぼろぼろになったその体を引きずり、次の部屋に続く扉に鍵を差し入れた。片手でそれを開けると、目の前には亜熱帯のジャングルが広がっている。今の時代より遙かに遠い時代。もうひとつの手に抱えた麗の肉体を、彼は扉の向こうに投げ捨てた。ピシャリと、扉を閉める。

 たとえ、麗の遺体の骨が残っても、それは地中深くに沈むか、流されるかして、今の時代にはけして見つかるまい。

 彼は扉に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

 あがった息を整えて――。

「――わからないな」

 急に横からかかった声に、息を止めた。

 そこには、白に近い淡い金色の髪と白い肌を持ち、銀縁の眼鏡を掛け、白衣を着こんだ、妙齢の男性がいた。

「……(れい)博士」

 見知った人物に、彼は、――麗は、溜め込んでいた息を吐いた。さすがに、先ほどの情景を、事情を知らない人間に見られては困る。

 零は眼鏡を光らせつつ、そんな彼を興味深げに見下ろしている。

「なぜ、わざわざこんな真似をするんだい? 未来で行った失態を、ノートなどの記録媒体に書き込まず、過去の自分に、つまり君に、直接いえば、その瞬間に未来は変わる。わざわざ未来の君を過去の君の手にかけなくても、未来の君は自然に消えるよ」

 麗は、その言葉に、弱弱しい笑みを浮かべた。

「でも、未来の自分を無かったことに、……殺すことには、代わりないでしょう?」

 その言葉に、博士はしばし黙り込み、「まぁ、そうだね」と返す。

 麗は、きつく目を閉じた。

「博士、ぼくは……田舎からこっちに来てから、ずっと自分が嫌いでした。力不足で、そのくせプライドが高くて、そのせいでみじめな思いをする自分が、本当に嫌いだった。

でも、いざあなたから時間()移動体()を受け取って、時間を書き換えて好きに未来を変えれるようになったとき、その書き換えられる自分が、理想を追いかけて、それに追いつけずに散った自分が、かわいそうになって、」

 音も無く、彼の目から雫が伝い落ちた。

 故郷の、暗くて狭い、怒鳴り声の飛び交いあっていた、あの家を思い出す。

「結局、ぼくは、自分のことが好きなんです。あの家のなかじゃ、自分以外に頼れる人間なんていなかった。自分を愛さなければ、あの場所で立ってることなんてできなかった。

これ以上失態を起こして、自分を嫌ってしまったら、自分を愛することで存在を確立しているぼくは生きることができない。だから、失態を起こした自分を殺す。それがぼくを生かす。生きるために、ぼくは時間を書き換えることはやめません」

麗はゆっくりと自分の首に手を回した。

「だけど……それなら、博士、ぼくは……覚えておきたいんです。

自分を。理想を追いかけて、散っていった、なかったことにされる自分を。ぼくが生きるために、犠牲にした自分を、その殺した感触を、(じか)に覚えていたいんです。愛しているから。本当に、本当に、愛しているから……」

 自分(ぼく)を。

 そこまでいうと、麗は瞼を開き、黙って博士を見つめ返した。嫌悪されただろうか、とぼんやり思う。それでも別にかまわなかった。理解してもらえるとは思わない。理解されたいとも思わない。これは、自分ひとりの戦いだから。

 しかし、その博士からは、意外な応えが返ってきた。

「そうか、君は真摯(しんし)なのだな、自分に」

 麗は、呆然とした顔で博士を見上げた。

 やがて泣いているような笑っているような表情を、返り血のついたその顔に浮かべる。

「……そう、なんでしょうか」

「そうだとも。誇っていい」

 満面の笑みを浮かべそういうと、彼は麗の握り締めている鍵を、「ちょっといいかい?」と取り上げる。

 訝しげにその様子を見つめる麗に、「あぁ、ここに、監視カメラがついていたから。とりあえず、このデータだけいったん持ち帰るとしよう」と端的に応え、少々いじるとまた麗の手に戻した。

 戻ってきた鍵に安堵の表情を浮かべる彼に、博士は笑みを浮かべ、

「それではさよなら、麗君。また会うことがあれば」

 そうして、きびすを返し、工場の扉に向けて歩き出す。

遠ざかる背中に、麗は小さく頭を下げた。


**


 白い部屋だった。そこに、突如扉が出現し、白衣を着た妙齢の男性が入ってくる。扉は、現れたときと同じように、突如消えうせた。

 男性は、今の扉を開けるのに使った鍵を自身の目の前で掲げる。

 あの少年に渡した鍵とちょうど相対称となる鍵だった。

「やはり、不確定要素が入る可能性を残しておいた方が、面白いな」

 そう呟くと、彼はその鍵を宙へ放り投げた。

 途端に天井に光が走り、じゅっ、という音と共に鍵が融ける。

 ただの銀色の液体となったそれは、床に落ちると同時に掻き消えた。

『博士、お時間です』

 機械音の言葉に、男性は顔を上げる。

「さて、私たちも進化を続けようか」

 そう呟くと、彼は今度は何も使わず、続き部屋の扉を開けると、彼を待つゲストの視線の中へと歩き出していった。

 

                   真摯な君の選択  end.




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