今日、泊っていいかな
僕が世界で一番嫌いなあいつは、僕が嫌いな晴れた青空に包まれて死んだ。
僕とあいつは昔から腐れ縁だ。家も隣で、生まれた病院も一緒だし、幼稚園から高校生の今までずっと同じクラス。しまいにはバイト先まで同じ。最悪だ。あいつがいるから僕は幼い頃から劣等感に苛まれてきた。あいつはクラスで人気者だった。先生たちにも好かれていたし、テストの点数もそこそこ良かった。運動神経だって良かったし、恋愛でもモテていた。バイト先の居酒屋でもうまくやっていた。
それに比べ僕は万年ぼっちで先生やバイト先の先輩からは怒られてばかり。勉強や運動なんて何をしても下から数えたほうが早いような成績。恋愛なんてもってのほかだ。あいつに勝るものなんて僕は持っていなかった。
高校二年生になって二ヶ月が経った六月の半ば。いつも通り憂鬱な気持ちで家に帰っていると、背後からやたらと軽やかな足音が聞こえてきた。
「よっ!なあに辛気臭い顔してんだよ?」
肩を強めに叩かれる。痛い。とても痛い。脱臼したんじゃないか、僕の肩。
「痛いんだけど」
あいつは、わりい、と言って軽く眉をハの字にして笑った。
この誰にでも人懐っこい屈託のない笑顔も昔から大嫌いだ。
「で、何か用?」
僕は何事もなかったかのように再び歩き出した。
「あ、別に大した用はないんだけどさ。なんか最近、気付くとお前帰っちゃってるからさ。たまには一緒に帰ろうかなーなんて思って。だめ……だったか?」
子犬のような目で僕を見るな。高二の男子がそんなキラキラした目させてんじゃねえ。
「お前、彼女いるだろ。ほっといていいのかよ」
少し嫌味ったらしく言った。
「ああ……もういいんだ。別れた」
僕は少しも驚かなかった。学校中の女子をとっかえひっかえ付き合っているようなやつだ。どうせ今回も、以前付き合っていた女子より可愛い子にでも告白されたんだろう。
「へえ、そう」
僕は無関心そうに言った。
「俺が振ったんだ」
これには驚いた。まさか自分から振ったなんて信じられなかった。
「どうして?付き合ってた子、すごく可愛い子だったじゃん」
話したくないはずなのに、驚きが勝ってしまった。
「いや、なんつーか……」
「なんだよ」
「俺、女って昔から苦手でさ。付き合ってみれば大丈夫になるかもって思っていろんな人と付き合ったんだけど、無理だった」
どんなに長く一緒にいても知らないことってあるもんだな。
「そうだったのか。知らなかった」
僕はふと思う。
「お前、ゲイ?」
「あー……違うよ?男が好きとかじゃないけど、女が苦手ってだけ」
どこかほっとしたような気持になった。
ゲイだったら気持ち悪い、とかではない。ただ、僕が知らないことが増えていくのが嫌だった。
「じゃあお前、誰かを好きになったこととかないわけ?」
「家族は好きだぞ」
こういうド天然なところも嫌いだ。
「家族が好きって……そういう好きじゃねえよ……」
「あ、もしかして恋愛のほう?」
もしかしなくても、この流れならそっちしかないだろうが。
「そういえば昔、一回だけあったな」
「女?」
「男」
さっきゲイじゃないって言ったじゃん。
「ゲイじゃないって言ったよな?」
「最初は可愛い女の子だなって思ってたんだけど、その子が男子トイレに入っていったのを見てさ。あ、男なんだーって」
どこまでいってもド天然だな。これは手に負えない。
「そいつのこと、まだ好きなのか?」
「好き、なのか分かんない。でも俺の中で特別だよ」
「それ、僕?」
何も考えていなかった。口から出た言葉に、自分が一番驚いている。
「そうだよ」
予想外の言葉に驚きを隠せない。
「へ、へえ?そう!僕のことそういうふうに思ってたの!」
声が裏返った。最悪だ。
「うん。だけど、好きって言ったら嫌がるだろうから、俺は死ぬまで言わないよ」
「あ、そう……」
「うん。だって俺のこと、嫌いでしょ?」
「い、いや、別に……」
ああ、これも予想外だ。こいつだけは何があっても僕を好きでいてくれると思っていた。甘えていた。少し考えればそんなこと、あるはずがないって分かったはずなのに。
「あ、んじゃまた明日!おやすみ!」
元気よく笑顔で手を振っている。
「また明日」
僕は冷めた様子で言い、家のドアを開けた。
「ただいま」
返事は返ってこない。
当然だ。親父もお袋も浮気しているんだから。
僕的にはいないほうがいい。浮気して、酒気を帯びて雄や雌になって帰ってきて、暴力を振う親を見たくなかった。僕は痛いのを我慢すればいいだけ。昔大好きだった親の姿を今の姿で塗りつぶしたくなかった。
『仕事してお金稼いでるし、あんただって学校行けてるしご飯だって食べれてるんだからいいでしょ』
両親は揃ってこう言う。
別に僕は何も思わない。これが僕にとっての普通だから。
不意にピンポンと乾いたチャイムの音が鳴った。
「あ、夕飯、余っちゃったから食べない?」
インターホンにあいつが映っていた。
「食う」
僕は静かに玄関のドアを開けた。
「これ、シチューとサラダと白飯。あと、デザートのプリン」
夕飯が入った、可愛らしいヒヨコと花の柄の袋を差し出してくる。
ありがとう、とそれを受け取ると、あいつは僕の腕を自らのほうへ引っ張った。
「うわっ!何?!」
あいつは僕を見て目を合わせ、こう言った。
「今日、泊っていい?」
「なんで」
「ん?」
「なんで僕なんかに優しくしたりするの」
幼稚園のときからそう。それよりも前からだったかもしれない。
僕は今と同じように、いつも一人だった。公園で遊ぶときも、風呂に入るときも、ご飯を食べるときも。学校行事に親が来てくれることなんて一度もなかったし、それが普通になっていた。本当はそれを望んではいなかったけれど。家に帰っても誰もいないし、一人で暗くて冷たい家で夜を過ごすんだ。もうこの家に親は帰ってこないのかもしれないって思ったこともあった。僕が悪い子だからかもしれない。何もできない、出来損ないだから。
そうやって心にひびが入って折れてしまいそうなとき、決まってあいつが家に来た。
『一緒に食べよう』
『今日は朝までゲームしよう』
『今日、泊っていいかな。』
その体に似つかわしくない、ゲームがたくさん入った大きなリュックを背負い、駄菓子屋に売っている小さなプリンを差し出して言うんだ。
「なんで、って言われてもなあ。泣いてほしくなかったからかな」
あいつは困ったような顔をして言った。
「お前、いつも泣きそうな目しててさ。転んで血ぃ出してても全然泣かないし、意外と強いのかって思ってた。でも夕方になって他の子たちが親と帰ってんの見て、今にも涙が零れそうになってたんだ。すごく、綺麗だったんだ。夕陽も、お前も、お前の涙も」
「なにそれ、変態くさっ」
はは、と小さく笑った。
「今思えばヤバいよな。でもあのときは本気でそう思ったんだ。だけど、それを見るのは俺だけでいいって、他のやつに見せたくねーって思ったんだよ」
真剣な顔をして、冗談らしい声で、あいつは言った。
「お前、僕のこと大好きなんだなあ」
「だけどお前は俺のこと嫌いだろ?」
あいつはどこか寂しげな顔で言った。
「ああ、嫌いだよ。そういう鈍感なところとかな」
あいつは首が捻じれるんじゃないかという勢いで僕を見た。
「僕、寂しかったんだな、きっと。お前が家に来てくれるときが一番安心してたよ」
あいつは泣きそうな目をしていた。
「中学、高校って、段々お前は家に来てくれなくなった。お前は人気者だからな」
「だ、だけど、お前は俺が話しかけようとしたら離れて……」
「お前の歴代彼女が睨んできたからだよ。僕はいじめられてたしな」
あいつは悲しそうな、泣きそうな、驚いたような顔をしていた。
「ごめん」
何も悪くないあいつはうずくまって、漫画みたいな大粒の涙を膝に落とした。
「お前と僕は関わるべきじゃなかったんだよ。お前は持ってるやつ、僕は持ってないやつ」
「そんなことない!」
あいつは大きな声で言った。だけど僕は淡々と続ける。
「そんなことあるんだよ。だから持ってるお前が羨ましくて妬ましくて大嫌いだ。お前がどんなに僕を褒めたとしても現実は変わらないし、お前も僕もそれを受け入れるほかないんだ」
あいつは嗚咽を漏らしながら、さらに涙を落とした。
「僕はお前を好きになればなるほど嫌いになる。自分との埋まらない差がどんどん大きく広がっていくからな。だから僕はお前を嫌いだと言っているんだ。なのにお前ときたら僕を好きだと言う。お前は僕を殺す気か?僕はお前が傍にいるだけで安心するし落ち着く。けど逆に苦しくて辛いんだよ」
僕は息の仕方も忘れて最後に言った。
「ごめん」
メモ用紙に『お前は僕のベッドで寝ろ。風邪をひいたら僕のせいだ。僕はソファで寝る。』と書いてあいつの前に置いた。あいつにとっても僕にとっても狂った夜だった。
朝になると頭痛がした。熱も少しある。マスクをして、冷感シートを額に貼って、朝食の準備をする。いつもよりも一人分多く作った。あいつが寝ている自分の部屋に行って、机の上に朝食とメモを置く。枕カバーに染みがついている。僕はそっと部屋を出て、解熱剤を飲み、課題を進めた。今日は土曜日で明日も休みだが、何もしないという気分にはならなかった。
三時間ほど経って、食器を持ったあいつが起きてきた。
「おそよう。もう十二時だ」
ヒリヒリと喉が痛むのを我慢して言った。
「おはよう。お前が風邪をひいたのは俺のせいだ。看病は俺がする」
こんな時間まで寝て、寝惚けているのか?
「寝言は寝て言え。着替えたら帰れ」
「いいや、帰らない。着替えたらドラッグストアに行って帰ってくる。ここにな」
あいつは食器をキッチンに持っていってから着替えをしに僕の部屋に戻っていった。
「勘弁してくれ……」
僕は熱のせいか熱くなった耳を冷えた手で冷ました。
しばらくするとあいつは昨日と同じ服で僕の部屋から出てきた。それから靴を履いて出ていった。
僕は自分の部屋に行って枕カバーを外し、洗濯機に投げ入れた。洗面所の鏡を見ると、思ったより辛そうな僕がいた。
「僕、こんな顔、してたのか……」
鏡の中の僕はぐらぐらと歪みだし、視界が真っ暗になった。
気が付けば病院のベッドの上だった。帰ってきたあいつが洗面所で倒れている僕を見つけて救急車を呼んだらしい。あいつは、良かった、目が覚めたんだね、と嬉しそうだった。反対に僕は最悪な気分だった。
「どうして救急車を呼んだ……病院はお金がかかるだろ……」
お金がかかるということは、親に迷惑がかかるということ。
もう親に迷惑はかけてはいけないと、そう思って頑張って生きてきたのに。それが一瞬で無駄になった。殴られる。蹴られる。叩かれる。踏まれる。嫌だなあ。
「お前の親は来ないよ。連絡もいかない。お金なら俺の親が払った」
あいつは僕をまっすぐに見て言った。
「え……だめだよ……他人のお金は使っちゃいけない……」
「今はそんなこと言ってる場合じゃない。お前の体のほうが大事だ」
あいつの目は赤く腫れていた。
「泣いたのか?」
「泣いた。これ以上何か言うようなら、今ここで俺は大泣きする。それが嫌なら黙って寝てろ」
想像して吹き出した。
「それはやめてくれ。面白すぎて熱が上がる」
あいつは笑いをこらえて言う僕に微笑してから病室から出ていこうとした。
「どこ行くんだ?」
「買ってきたやつ、お前の家に忘れたからとってくる」
あいつは、んじゃまたあとでな、と言って病室から出ていった。
いくら待ってもあいつは帰ってこなかった。
外はもう真っ暗だ。あいつは嘘を吐いた。
あいつが帰ってくることはもうなかった。
次の日になって、あいつの家族が僕のところに来た。
「事故にあったの。あの子はもう……」
あいつの家族はみんな泣いていた。あいつは死んだ。
僕があいつを家に入れなければ。泊めなければ。熱を出さなければ。あいつを死なせなくて済んだのに。僕のせいだ。僕が、僕が、僕が。
「あなたのせいじゃないわ」
あいつの母さんは言った。
違う。僕のせいだ。
「ごめん、なさい……」
「君のせいじゃない」
「あなたのせいじゃないわ」
いっそ、僕を、責めてくれ。お願いだから。僕を責めてよ。
「あの子が取りに行ったもの。あなたに渡さなきゃいけないと思って」
あいつの母さんはビニール袋ごと僕に渡した。
僕はそれを受け取ると息を呑んだ。
僕が好きな清涼飲料水。僕が好きなアイス。僕が好きなのど飴。僕とあいつが好きなプリン。
「ペットボトルのラベルを見て」
そう言われて初めて気付く。
『早く治せよ!!お前がいないと毎日楽しくねーからな!!』
雑なのに腹が立つほど綺麗なその手書きの文字はあいつのものだった。
「……ありがとう、ございます……」
僕はかすれそうになる声を振り絞ってお礼を言った。
あいつの家族は肩を震わせながら病室を出ていった。
僕は一人、声を殺し、涙が枯れることも知らず泣き続けた。
あれから数年が経った今、僕は家庭を持ち、会社員として働いている。
そんな僕の部屋にはあの日のペットボトルに斑のカーネーションとカタクリが生けてある。
それを見るたびにあいつの声が聞こえるような気がする。
――今日、泊っていいかな。
読んでくださりありがとうございました。
初出稿なので稚拙なところもあったと思いますが、最後まで読んでくださったことをお礼申し上げます。
主人公の想いが分かりやすくなるかと思いますので、最後の二種類の花の花言葉を載せておきます。
斑のカーネーションの花言葉は「愛の拒絶」
カタクリの花言葉は「寂しさに耐える」「初恋」