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トリック・オア・トリート

作者: 樫本 紗樹

「トリック・オア・トリート!」

「急に何だ」


 もうすぐ二十時になる頃、加藤祐一は斜め前の席に座る村田明日香の仕事の終わりを待っていた。事務所の鍵は一部の男性社員のみしか所持していない。女性事務員を無視して帰るわけにもいかずに残っていた祐一は、空腹で普段以上に不機嫌になっていた。他に鍵を持っている男性社員は妻が待っているだとか、彼女とデートとかで先に帰ったのも独り身の彼には正直面白くない。

 しかし明日香は祐一を残業につき合わせて悪いと思っていないようだ。悪いと思っていたらこのような事を言い出さないはずである。


「今日はハロウィンですよ」

「職場でやる事ではないな」

「お菓子をくれないと悪戯をしちゃいます」


 明日香は笑顔で祐一にウィンクして見せた。祐一は盛大にため息を吐く。


「俺がお菓子を持っていないと思っているのか」


 祐一は机の引き出しを開けると飴を取り出し、明日香へと差し出した。彼女は受け取った飴を見つめる。包装にはビタミンC配合と書かれていた。


「のど飴はお菓子に入りません」

「それはレモン味だからお菓子だろう」

「えぇー」


 明らかに不満そうな明日香の声色に、祐一も冷めた視線で彼女を見返す。彼はこの無駄なやり取りを一刻も止めて、食事に行きたかった。


「何だよ」

「ここは悪戯される所でしょう?」

「部下の悪戯を黙って受け入れる上司がいるか」

「加藤主任が飴をなめているイメージなんてないんですけど」

「急に冷え込んだせいか喉をやられたんだ」


 普段なら明日香の言う通り、祐一は飴など持っていない。ただ今朝起きた時に喉の違和感が気になり、自宅近くのコンビニでのど飴を偶然買っていただけだ。そして通勤中にひとつ口に入れただけで満足してしまい、残りは誰かに配ろうと引き出しにしまっていた。


「え、ちょっと可愛いですね」

「可愛い? 上司を何だと思っているんだ」


 祐一は呆れたような表情を浮かべた。この事務所に女性社員は五人いるが、彼にとって明日香はどうにも接し難い人物だった。距離感が妙に近く感じて、どう対応していいのか困るのである。現に彼女は笑顔のままだ。


「加藤主任は頼りになる上司だと思ってますよ」

「本当かよ」

「だから悪戯させて下さい」

「意味がわからん。仕事が終わったなら早く帰る支度をしろ」


 祐一の空腹は限界に近付いていた。彼はいつでも帰れるようにと机の上を片付けてある。明日香は不服そうな表情をしながらパソコンの電源を落とし、ロッカールームへ向かった。彼も一応つけていたパソコンの電源を落とすと、ロッカーへと向かい背広を羽織る。そしてエアコンの電源と事務所の電気を次々に消していく。


「加藤主任、急かし過ぎです」

「俺は早く帰りたいんだ」


 不機嫌そうに言い放つ祐一に、鞄を持った明日香が近付く。そして彼の横を通り過ぎようとした時、彼女は少し背伸びをして彼の頬に口付けた。


「なっ」


 予想外の事に祐一は驚く。明日香はそんな彼に笑顔を向けた。


「私の事、後輩ではなく女性として意識して下さいね。クリスマスイブは予定を空けておきますので、その気になったら誘って下さい。それではお先に失礼します」


 明日香は言いたい事を言うと軽く頭を下げて事務所を出ていった。祐一は暫く呆然としていたが、腹の鳴る音で空腹を思い出した。


「あいつ、悪戯が過ぎるだろ」


 明日香の妙に近い距離感がそういう意味だったのかと、祐一はやっと気付いた。しかし空腹で思考は上手く纏まらない。彼は最後の電気を消すと施錠した。

 事務所を後にした祐一の足取りは軽かった。馴染みの店で唐揚げ定食を食べながらスマートフォンでクリスマスの過ごし方を調べる。そしてお腹が満たされた時に、彼はひとつの事に気付く。


 ――どうやって誘えばいいんだ?


 支払いを終え家路についた祐一は頭を悩ませた。ハラスメントで訴えられるのが怖くて近過ぎる距離感に戸惑っていたのは、根底に明日香への好意があったから。しかし頬にキスひとつで心が動いたと思われるのは何だか癪だった。チョロい奴だと思われたくなかった。


 社会人になってから恋愛をしていなかった祐一には、どう誘えばいいのか皆目見当がつかない。しかしここで何も行動をしなければ終わる。せっかくのチャンスを見逃すのは惜しい。彼は先程の浮かれた気分など夢だったかのように重い足取りで自宅へ帰った。

 この後クリスマスイブは無事に過ごす予定ですが、そこまで書くとハロウィン関係なくなると思ったので端折りました。

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