第1章 手紙 ⑹ 義母の死
明治五年十月、義母が死んだ。
雑巾がけが日課だったが、ある朝、廊下で蹲っているのに気付き、床に運んだ時は
既に眼球が異常な位置にあった。
恐らくもう目は見えなかったろう。
意識が戻り、枕元にいるのが私とわかると何か言いたそうに口を動かした。
「綿を換えてあげないと……」
義母は寒くなる前に必ず半纏の綿の打ち直しをしてくれていたが、その年はまだで
気になっていたらしい。
私は義母に恩を感じてはいたが恨んでもいた。
叱責されるたび、突き放したような冷たさは血がつながらない故だと思った。
義母の一存で産みの母から引き離されたと思っていた頃もあった。
だが家存続を重視する周囲の思惑に慣れてくると、義母の心の奥の疼きを想像するようになった。
そして義母は今、死の床にあるにもかかわらず私の半纏のことを気にかけている。
厠に立って涙を拭った。話ができたのはその夜までで、三日後に息を引きとった。
義母が亡くなる少し前から、私は基督教に惹かれていた。
きっかけは函館で医院を開業していた酒井という医師が、伊豆野に来て布教したことによる。
酒井は金成という近郊の村の生まれだった。
彼の義父も医者であり馴染だったので、ある日、寄合と称して自宅に呼ばれたのが始まりだった。
診察室兼居間では二十人ほどの老若男女が集っており、酒井は部屋に入るとすぐ真鍮の額に
入った一枚の絵を胸の前に掲げた。
まだ三十を過ぎたばかりだそうだが、目が窪んでいて浅黒く、かなり老けて見える。
「皆様方は何をよりどころに生きておられるかな。私は函館にて基督の教えと出会いました。
そして今や、かつて金成村におった頃とは全く違う人生を生きております」
耳の奥に染みわたる、まったりとした声だった。
一同顔を見合わせた。
「何かと思えば耶蘇か。関わったと知れたら捕まる。それを知っとってようもまあここに呼んだべ!」
客である老夫の怒りに対し、酒井は眉ひとつ動かさなかった。
「ご安心召されよ。禁教令は間もなく解かれる。ロシア領事館の司祭であるニコライ様が
そう申されておった」
「その、ニコとやらが何者かは知らんが耶蘇っちゃこの国を亡ぼす!」
「されば耶蘇の教えとはどのようなものか、ご存知か?」
酒井は穏やかに一点を見つめたままでいる。
老夫は睨み付けながら「ふんっ!」と言うと部屋を出て行った。
妻らしき老女が後に続いた。
「他の方は、よろしいかな?」
落ち着き払った声のせいか、みな座ったままだった。
先ほどの老夫がこのことを役所に申し出れば、お咎めがあるに違いない。
禁教が解かれるという確信があるのだろうか。
酒井は軽く咳払いをすると手元の絵について説明し始めた。
イコンと呼ばれる聖画で、描かれているのは幼い基督と生神女マリアだという。
二人は頬を寄せ合い、マリアの柔らかそうな右手が基督の小さな左手を包んでいる。
基督は母マリアの目を一心に見つめているが、マリアはなぜか悲しそうな目で遠くを見ていた。
酒井が神の子基督の生涯やその弟子たちについて語る間、私は吸い込まれるように聖母子像に見入った。
しかし、ある言葉が耳に止まり現実に戻った。
「基督の教えは、武士道と通ずるものがござる。
函館のロシア病院では、日本人の医師を受け入れるだけでなく治療も率先してやっておる。
貧しい者からは金もとらぬ。
それが神から与えられた使命と考えているからだ。
これは仁の心だ。
それに切支丹にとって神からの命は絶対であり、これはまさに武士の主君に対する忠誠心と類似しておる」
「それは……合点がいきません。
異人は魔法を用いてこの国を蝕んでいくと信じられている。
現に清国は征服されつつあると聞いています。
そのような者達が信じる教えが武士道と通ずると言うのですか?」
酒井は私の言葉を聞くと高らかに笑った。
「その武士も、つい先頃まで、いや、考えようによっては今も国の中で殺し合いをしているではないか」
「ならばなぜ、わざわざ基督を信じることを勧められるのです?」
「基督は、汝の敵を愛せよと説かれる」
静寂が部屋を覆った。
一同再び顔を見合わせた。
明らかに意味を解せないでいる様子で、それは私も同じだった。
酒井は待っていたかのように頷くと語り始めた。
「基督教は、人は神によってつくられたと考える。
生きとし生ける者は皆、神に服従せねばならない。
神は一人一人を愛しておられ、地上にも愛の満ち溢れた国ができることを熱望しておられる。
だが人間に罪を犯す力も与えてしまったことをお嘆きになり、ひとり子イイススをこの世にお遣わしになった。
イイススはこの世の罪をすべて背負われ、人々の代わりに磔になった。
敵は本来憎むべき存在だ。
だが敵も神がおつくりになった。
敵をおもいやって憎しみの連鎖を断ち切ることが、地上に神の国を築く上では肝要なのだ。
これこそ真の勇気と思われぬか?」