篠崎先生のバレンタイン
バレンタインデー。
それは日本で一番チョコレートが行き交う日だ。
特に学校という箱庭ではその比率が他の場所より一段と増しているように思えるのは、きっと気のせいではないだろう。
「篠崎先生、チョコレート受け取って下さい」
仄かに頬を染めて差し出された包みを一瞥して、雅人は軽く肩を竦めて見せた。
目の前の女生徒の名は森下恵里。担当教科のクラスの生徒でもなければ、顧問をしている部活の生徒でもなかった。
しかし、学校という場に於いては、こうしたことは珍しいことでも何でもない。事実、彼は過去にもこちらが名前すら把握してない生徒から告白されたり、誕生日やクリスマスやバレンタインといった行事の日にプレゼントを差し出されたりしてきた。
思春期の少女達にとって、教師というのは手っ取り早く憧れやすい身近な大人なのだろう。
そもそも男女の別を問わず、若い異性の教師というものは、特にそうした想いを抱かれやすい。たまに本気で思い詰めてしまう生徒もいないではなかったが、大多数のそれは一過性の熱病のようなもので、だから一々取り合ったりしないで流すのが常套手段だ。
「残念だけど、生徒からは受け取っちゃ駄目って言われてるんだ」
「義理チョコとしてでも駄目ですか?」
「ああ、義理チョコとしてでも受け取れない。悪いな」
甘いものは嫌いではないし、義理チョコくらいなら貰ったところでばちは当たるまいと思うのだが、昨今ニュースなどで目にすることも多い教職員の不祥事に憂慮して、我が校では生徒からの贈り物は一切受け取ってはならないと通告されていた。
勿論、日常で飴玉一つとかいうレベルでならば目こぼしはされるし、知らん顔をして内緒で受け取っている教師もいないではない。
だが、雅人は余計ないざこざを避けるためにも、律儀すぎるほど律儀にその規則を徹底して遵守していた。そこにはただ一つの例外もない。
森下は不服そうに唇を尖らせながら、包みを持っているのとは反対の手をポケットに突っ込んだ。
そうして今度は指でつまめる一口サイズの駄菓子のようなチョコレートを差し出してきた。
「これなら他の先生には見付からないんじゃないかと思うんですけど」
それでも駄目ですか?
悪戯っぽく微笑むその顔は小悪魔めいた可愛らしさだったが、彼はそんな誘惑にも顔色一つ変えることなく笑顔で首を振った。
「どんなものでもチョコはチョコだろ。先生は、生徒からは受け取れないんだ。大体、普段生徒に「校則守れ」って言ってるのに、先生が率先して規則を破ったら説得力が無くなっちまうだろうが」
「守ってない先生だっていますよ。例えば……」
「言うな言うな。聞いたら俺がその先生に注意しなきゃならなくなるだろ。とにかく、俺は生徒からのチョコは貰えないの。ほら、そろそろ予鈴鳴るから教室戻れ」
それ以上の言葉を遮るように言い放てば、彼女は少しだけ恨めしそうな眼差しを向けつつも、渋々自分の教室へ引き上げていった。
「篠っちはやっぱり駄目かぁ」
「相変わらずガード固いよね」
「でもそこが良いんだけど」
「言えてる。しょうがない、これは他に渡すか」
「私は自分で食べようっと。ここのチョコ美味しいんだ」
「あんたダイエットは?」
「明日からする」
程なく、近くで雅人と森下の攻防を窺っていた女生徒達も賑やかに囀りながら散っていった。
「篠崎先生、朝からご苦労さん。俺達が若い頃はこんな煩く言われなかったから気軽にチョコも受け取ってやれたもんなんだがな……断るのも一苦労だろう」
部活動の朝練指導を終えて引き上げてきた年配の教師が苦笑混じりに労ってくれたのを受け、彼も苦笑で応じて肩を竦めた。
「折角の好意を無下にするのは心が痛みますけどね。でもどっちにしろ、受け取るだけで答えることはできないんですから、それなら下手に期待を抱かせるよりいいのかなと」
「篠崎先生は真面目だなぁ」
笑いながら肩を叩き、雅人の倍ほどの年齢の先輩はそのまま彼を追い越して職員室へ戻っていった。
罪悪感が胸を掠めないわけではない。
だが、それでも教師として胸を張って教壇に立つために、今後もそうし続けるために、例え「融通が利かない」と揶揄されようともそれを曲げるわけにはいかなかった。
仕事を終えて帰途に就いた雅人は、明日の授業の算段を頭に描きながらエレベーターに乗り込んだ。
バレンタインということもあって、放課後は普段以上に生徒が訪ねてきて、結局仕事はあまり捗らなかった。しかしそれも例年の恒例行事のようなものだ。それを見越してこの数日は予め前倒して準備をしていたから残業をしなければならないという程ではなかった。持ち帰りの仕事もないわけではないが、それも今日に限っては微々たるものだ。
気疲れで凝った肩を解すように首を回していたら、チンッ、と軽快な音がしてエレベーターのドアが開いた。
狭い廊下を足早に進み、鍵を開けるのももどかしくドアを開けた。
「ただい……」
ま、と言い切るより早く、雅人の視界に見覚えのある包みが差し出された。
「篠崎先生、チョコレート受け取って下さい」
今朝聞いたのと全く同じ台詞が、制服姿の森下恵理によって満面の笑みと共に繰り出された。
違うことと言えば、ここが学校の廊下ではなく自宅の玄関で、彼女が履いているのが上履きではなく我が家のスリッパということくらいか。
いや、表情もまるで違う。
こちらの反応を窺うような上目遣いではなく、受け取ってくれることを確信している自信満々の笑顔だ。
「……着替えてなかったのか」
「だって制服で、先生の雅人さんに渡したかったんだもの。家でだったら受け取ってくれるでしょう? だってここにいる私は、制服を着てたって、生徒じゃなくて──」
奥さんなんだから。
忍びやかに紡がれた言葉に、彼は柔らかく苦笑して、今度こそその包みを受け取った。
「はいはい、生徒からじゃなくて可愛い女房殿からなら喜んで頂戴しますよ」
そう言って、言いそびれた「ただいま」と共に愛妻の頬にキスをすれば、恵里は蕩けるような笑顔で唇へのキスを返してくれた。
篠崎雅人と森下恵理はれっきとした夫婦だ。
そのことは校長や教頭などごく限られた人間にしか知らされていない。
身内が成績に関与するのは望ましくないということで、担任はおろか担当教科からも外れているから、校内での接点はないに等しかった。
だが、女子校における若い男性教諭というのは、接点のない生徒からでもアプローチを受けることは数知れない。だからこそ、恵里はここぞとばかりにこうしたイベントの折りには率先して参加するようにしていた。
同じように雅人を狙っている女生徒に対する牽制の意味も込めて。
彼はどんなにアプローチしても決して生徒からのプレゼントの類は受け取らないのだと、ただそれをアピールするために。
──と、そういう理由だと思っていたのだが。
普段は皺になるのを嫌って帰宅したら即座に私服に着替える彼女が、どうして今日に限っては制服のまま待ち構えていたのだろう?
雅人は首を捻りながら妻の謎の行動について考えていた。
「どうしたの? 味、おかしい?」
考えに耽るあまり、いつの間にか箸が止まってしまっていたらしい。
正面に座る恵里が心配そうに眉を下げているのを見て、彼は慌てて首を振った。
「ごめんごめん。ちゃんと美味しいよ」
「じゃあ、何か悩み事?」
「悩みというか……どうして恵里は制服で俺にチョコを渡したがったのかなって、それを考えてたんだ」
隠すようなことでもないし、解らないなら聞いた方が良いだろう。勝手な憶測で見当違いな結論を導き出すよりその方が余程建設的だし手っ取り早い。
雅人の言葉に、彼女は「何だそんなこと」と呟いてふわりと微笑んだ。
「来年は受験でしょ。推薦が決まってれば試験休みの真っ只中だし、一般受験なら試験日に重なるかもしれない。そう考えたら、もしかしたら今年が雅人さんに制服でチョコを渡せる最後のチャンスかもしれないって思ったの」
夫婦としてはこの先毎年渡せるけれど、教師としての彼に生徒として渡せるのは、恵里が高校生でいられるこの三年間だけだ。
去年はそんなことまで考えが及ばず、それ以上に「初めて妻として迎えるバレンタイン」ということに盛り上がってしまったのもあって果たせなかった。
今説明したように、来年のこの時期にそんな余裕があるかは今の時点では判らない。
他人に話したら大袈裟だと笑われるかもしれないが、彼女にとっては「これを逃したら一生機会を失うかも」という切迫した思いがあり、是が非でも成し遂げたいことだった──と、そういうことらしい。
それを聞いた雅人は、まるで頭痛を抑えるかのように顔の上半分を片手で覆った。
「あ、呆れた……?」
おずおずと問いかけてくる妻に首を振り、彼は込み上げるあれこれを飲み下すために殊更にゆっくり息を吐き出した。
彼の愛する女房殿は、今日もすこぶる可愛い。結婚して一年以上経つのに、思わず悶絶したくなるほどだ。
つくづく、授業などの受け持ちがなくて良かったと思った。もしも授業中に何かの拍子でこんな不意打ちを食らったりしたら仕事にならない。
「明日が平日じゃなかったら思い切り可愛がってやるのに」
思わず漏れた呟きは、幸か不幸か恵里の耳には届かなかった。
明日は金曜日。今日一日だけ我慢すれば、明日の晩は存分に可愛い妻を堪能することができるだろう。
「恵里、今日は先に寝ててくれ」
「え? だって、お仕事は前倒しで終わらせたって……」
「ああ、そのつもりだったんだけど、まだ終わってないのが幾つかあるのを思い出したんだ。週末ゆっくりできた方がいいだろ?」
にこやかに告げれば、彼女は疑うこともなく、
「じゃあ、何か夜食用意しておくね。でもあんまり夜更かししないようにね」と笑顔で頷いてくれた。
金曜の夜から「美味しいチョコのお礼」と称して週末たっぷり可愛がられる未来を、恵里はまだ知らない。