第01話 致死性不整脈
「オペ終了、ご苦労様。あとは学生さん縫合の手伝いよろしく」
教授は第一助手の上級医と学生の僕に声をかけて、手術室から早足で去っていった。肺癌の部分切除および周辺のリンパ節切除、開胸手術だったので少々時間がかり約7時間ほどのオペは無事に終了した。
「はい!お疲れ様です」
やっとおしまいか。なんとか威勢良く返事だけはしたがもう体は限界だ。長時間にわたる手術で僕の足は棒のようだし、手術着の中は汗でじっとりと湿っている。
上級医の先生と術野を縫合していく。ここはとある医科大学付属病院の第3手術室。僕は医学部6年の学生でただいま臨床実習中だ。学生といっても5、6年生の臨床実習では手術中の吸引や縫合といった簡単な医療行為の補助が認められている。
僕はここまでくるのに相当な回り道をしたので学生といえど、もう年齢は27歳。若手の先生よりも年上だし最近は実習中もフラフラだ。
「そこ、もっと強く引いて結ばないと緩んでくるよ」
「わかりました」
皮膚の縫合が終わりドレープを取り去る。麻酔科の先生が抜管し、患者さんの意識が徐々に回復してきた。患者さんを移動用のベッドに移し、病棟まで運んで家族に手術の経過を説明。これで僕たちの仕事も終了だ。一緒に手術をしていた外科の先生とオペ室を出て、ロッカールームへと向かう。
「結構長いオペだったけど、レイトくんは疲れなかったかい?」
「いえ、僕は外科志望なんで術野見ているだけであっという間でした」
とりあえず模範的な返答をする。本当はもう疲れきって立っているのもやっとだ。
「ははは……それは大したもんだ。卒業したらぜひうちの大学残って医局入ってよ」
雑談をしながら術着を脱いで白衣に着替える。時間は午後8時を少し過ぎていた。
「じゃあ肺癌のステージ分類とオペの適応について明日までにレポートまとめといてね」
「わかりました。お疲れ様です!」
「お疲れー。明日もよろしく」
先生は医局に向かって去っていった。いったい何時まで仕事をするんだか。
「はああ……明日までって無茶苦茶だ……」
思わずため息をついた。僕は先ほど課されたレポートをまとめるため大学図書館の自習室で資料と睨めっこしている。テキスト数冊を開きながら適当にネットで呼吸器外科学会のガイドラインを探す。
ちょうど深夜12時をすぎてそろそろ帰ろうと思ったその時、急な冷汗と激しい動悸を感じた。呼吸が浅くなり頭がくらくらする。
自分の手首を触れると橈骨動脈は弱々しく不整に脈打っていた。致死性の不整脈でなければ良いが……
電話で助けを呼ぼうとしたが、不幸なことにスマホはロッカーに忘れて持っていなかった。痛む胸を押さえながら図書館の職員を探して周囲を見渡す。締め付けられるような胸の痛みはどんどん増していき、身体中を嫌な汗が這い呼吸が乱れる。
「クソ、誰かいないのか?」
フラフラした足取りで探し回るが、職員を見つける前に視界が暗転した。姿勢が維持できなくなり、冷たいリノリウムの床に倒れこむ。徐々に霞む意識のなかで、ふとこれまでの人生を思い出が蘇ってきた。
考えてみれば、ずっとぼっちの学生生活。高校卒業後しばらくのニート生活の後は、勉強ばかりして親しい友人の一人もいなかった。
大学に入ってからも落ちこぼれないように必死で、充実したキャンパスライフとは程遠かった。走馬灯に浮かんでくる風景といえば、勉強漬けの日々と引きこもり生活だけという悲しいものだった。
ここで死ぬならせめてもう少し人生を楽しんでおけばよかった。せっかく医者になって安定ライフを送ろうと思っていたのに。ニートから一念発起してやっとここまできたのにあんまりだ。
「あーあ、頑張ってこんなことになるならずっとニート続けていればよかった」
そんなくだらない考えが最後に脳裏に浮かぶ。僕の意識は深い闇ヘと沈んでいき世界は静寂に包まれた。
「やっぱり……僕は死んだのか」
闇の中でぼんやりとした思考だけがかすかに残っていた。
『あなたのここまでの努力は無駄ではありません』
闇の奥底から語りかけられた。願いを叶える?神か天使かわからないがどうやら天国への案内ってわけじゃないらしい。
「どういうことなんだ?」僕は思わず謎の声に問いかけた。
『あなたの能力と知識を必要としている世界があります。そこであなたの力を使って人々を救いなさい』
いきなり呼びかけてきて人々を救えって一体なんなんだ。そんなこと言われても全くもってわけがわからない。再び意識が遠のき闇へと沈んでいった。
−−−−−−どれくらいの時間が経ったのだろうか
どうやらまだ生きている、体に感覚が戻ってきた。おそらくだれかが見つけて病院に搬送してくれたんだろう。そう思って目をうっすらと開けると爽やかな風とそよぐ木々、どこかの森の中で僕は横たわっていた。
服をみると白衣ではなく簡素な麻の服になっている。やはり僕が現実世界で蘇生されることは叶わなかったみたいだ。さしずめここはあの世ってところか。
しばらくして起きあがって周りを見渡す。針葉樹が生い茂り見たことのない青い花が咲き乱れている。周りには死後の世界にしては爽やかな、まるでヨーロッパの避暑地のような森と山々が広がっていた。
大きく息を吸い込むと新鮮な空気が肺全体に行き渡る。心臓も正常に脈打っているし、正常に呼吸もできる。死後の世界にしては随分と瑞々しい感覚だ。
「もしかしたら僕は生き返ったんだろうか?」
ひとり呟くと、森の中を歩み始める。一体全体ここはどこで、倒れた後の僕はどうしてこんな場所にいるのか疑問は尽きなかったが、この新たな世界の自然は壮大で美しく、そんな考えはどうでもいいことのように思えた。