第3話 救世主が誘拐された夜
ある若い研究員の男が基地から抜け出した。
近くの酒場に潜り込んで店主に絡み、≪一番人気が無い酒≫をねだった。
薄暗い場所に保管してあったその酒は、たった一人の男に飲み尽くされようとしていた。
「あんたも好きだね…。 店主の俺が言うのも何だけどよぉ…。
俺の親父の代には既に売れない子(酒)だったぜ…」
店主は、専用の白い布で皿を一枚一枚磨きながらぼやいた。
「俺が今拭いてる皿にツマミを乗っけるから、少しは代金を置いてけよ」
若い男は腹を抱えて笑い出し、ぼやく店主に簡単な質問をした。
「この酒を作ったのは誰だ?」
「…知らねぇな。俺の親父の前の代が何処からか手に入れたらしい…」
「このビンの底を見るとさあ…。いや、カラになって初めて気づいたんだけどね」
「あ、テメェ!とうとう1人で飲んじまいやがった!!」
「話しを聞けよ、なあ!…でね、ビンの底に人の名前が書いてあるんだよ…」
「マジか?」
店主は男からビンを奪い取って底を見た。
「…いい加減な事ぬかしやがって! ただの傷だろ?!」
「傷ね…。まあ、傷にも見えるんだろうけどね…実はこれ」
男は店主に耳を貸せと言い、ひそひそ声で話した。
「マジか…?!」
「ああ…。この話し、信じるか?」
「信じるとも! だってそりゃぁ、俺のひいじーさんが話していた由利…」
男はさりげなく店主の口を塞いだ。
「その名前、うっかりでも出すんじゃねぇよ」
低く唸る男に店主は萎縮し肩を丸める。
男は突然噴出し笑い出すと、深呼吸して自分を落ち着かせた。
グイッと店主の耳たぶを引っ張り無理やり近づけさせる。
男のギラリと光る目に店主が生唾を飲み込むと
男は軽く周囲を見回した後、店主の耳元で”ある事”を伝えた。
「決して言うなよ」
そう囁いて男は店から出て行った。
コンクリート造りの平屋の酒場は天井に丸い窓がポカリと開いていた。
その窓から光射す今夜の月は、店主が一人ボーッとするには十分過ぎる明かるさだった。
店主は閉店後の店で若い研究員の男の言葉を繰り返し呟いていた。
頭を激しく振るっても離れない言葉。
纏わり付くハエの様に言葉がしつこく巡っていたから、とうとう声になって出てきた。
「お前は、ぐしゃぐしゃになった世界を正す鍵…」
店主は肩の力を抜き、おもむろに天井を見上げると大笑いして叫んだ。
「ばーか!俺は今の世界がお気に入りだあっ!!」
翌日、群青色の背広に身を包んだ役人らが店主の元を訪れた。
若い研究員の写真を見せ、彼を知っているかと尋ねた。
何やら物騒な雰囲気だと感じつつも、役人らの物腰が至極上品で礼儀正しかったので
「そいつなら昨晩来たよ」と店主は口をすべらせた。
それだけでなく、頭から爪先まで正す気構えで精一杯丁寧の応対した。
普段からお高くとまった役人らが、しがない酒場の店主の自分に頭を下げたので気分が良かったのだ。
役人らは店主の対応にとても感心し和やかに質問を続け、そんな役人らに気分を良くした店主は更に誠意を持って一つ一つ答えた。
ずいぶんと沢山の質疑応答の後、役人らは
「これが最後です。快く丁寧に我々の質問に答えてくださり、本当に感謝しております」
と店主へ深く深く頭を下げ最後の質問をした。
すると店主は、役人のあまりな腰の低さに気を緩めてしまい、ついうっかり言ってしまった。
若い研究員が警告した、決して口にしてはならない言葉を。
当然、後悔しても今更だがどうしようもなかった。
役人らは突如、ロボットさながらの怪力を発揮し、店主を護送用の車に押し込むと瞬く間に何処かへと消え去った。
空間からスッと見えなくなったので誰にも追いかけようが無い。