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蟲穴(むしあな) ~永遠の四日間~

作者: 朝戸あんり

     一日目

 隣で小さな寝息を立てている夫の顔をよく見ようとベッドサイドの小さなスタンドライトを点灯させた。懐かしくてかわらぬ寝顔が、ぽう、と浮かび上がった。その顔を見てワタシは、おもわず涙ぐんでしまった。

 夫の三か月の単身赴任という期間は、ワタシの精神に、どうにもならない闇を植えつけていた。たった一晩では決してぬぐい去れない仕事場でのパワハラという闇が根づいていり。しかし、夫の帰宅によってどれほど和らぐのだろうか、自分でもわからないし、同時に、知りたいとも思う。

 むかつく上司の顔を忘却の彼方へと葬り去るべく、ワタシはベッドの上で(ほお)(づえ)をつき、日に焼けて、いくぶん細くなった夫の顔をじっと見つめた。

 ずっと待っていた、待ち焦がれていた寝顔を、飽きることなく見続けた。

「なんだ、起きていたのか?」

 夫が薄眼を開けて大きなあくびをした。

「ごめんなさい、起こしちゃった?」

「今、何時?」

 スタンドライトの下にある小さな置き時計を確認する。デジタルの数字は午前七時六分を表示していた。

「もう少し寝ていたら? 昨日は飲みすぎたでしょ。若くないんだから無理しないで」

「まだ四十になったばかりだ。年寄り扱いするなよ」と笑顔で答えた夫の頬に、黒いゴミがついていた。取り払おうと手を伸ばす。そのとき、あれ? と異変に気づく。

「なんだよ、くすぐったいな」

「動かないで。おかしいな。これ、ごみとかじゃないわ」

 ベッドから下りて寝室の電気をつける。室内が頼りない明かりからしっかりとした光に包まれる。そしてすぐ夫の隣に戻った。

「シミかなにかだろ。電気を消してくれ、まぶしい」

「ダメよ、動かないでったら。まあ、これって……穴よ」

「穴?」

「そう、小さな穴があいているわ」

「そんなはずないよ。だって痛くないし」

 夫は鼻で笑ったが、ワタシは笑えなかった。

 ボールペンでプスッと刺したような小さな穴。ワタシは爪の先でもう少しくわしく確認してみる。こすってみたり押してみたり。中に虫が入っているとかではない。血も膿も出てこない。それなのに、とても、深そうだった。

「本当になんともないの? 奥まであいているみたいだけど。口の中はどう、貫通してない?」

「してないよ。いいから寝るぞ」

 そう言って背を向ける。

「もう……」まあ、痛くないなら大丈夫ね、そのうち治るでしょう、とワタシは決めつけ、もう少しだけ休息を取ることにした。


     二日目

 ガコンという音でワタシは眼を覚ました。時刻を確認すると午前十二時を少し過ぎたところだった。隣に夫はいない。ワタシの眼を覚まさせたあの音は、夫がどこか別の場所で立てたものだろう。

 寝室を出る。常備灯(じょうびとう)の明かりが左右に伸び、ぼうっと廊下が浮かび上がっている。正面のドアは仕事部屋。右隣が来客用の空き室。そのさらに隣がバスルームで、扉の隙間から光がもれている。ここかと思い、移動し、ドアをノックする。

「どうしたの、大丈夫? やっぱり頬の穴が痛くなってきた?」

 薄暗い廊下は不安感をあおる。返事がないことにワタシは焦る。やっぱりあの穴が夫の身体に異変を起こしているのではないのか。助けなくては。バスルームで苦しんでいるかもしれない。ワタシが、ワタシだけが……夫を救えるのだから、なんとかしなくては。

 戸を何度も叩くが返事はない。うめき声すらきこえない。もしかして、バスルームにいないのではないのか? そう思い、リビングへと移動する。

 広いダイニングキッチン。大型のテレビは暗いまま。窓とカーテンも閉め切ったまま。夫の姿はない。

 どこへ行ったの? 仕事部屋? 空き室? それとも外へ出たの?

 膝がガクガクと震えだす。喉を突き破って悲鳴が出てきそうだった。孤独の闇が広がる。

「そんな暗い所で、何をしているんだ?」

 夫の声だった。振り返る。廊下に夫が立っていた。

「心配させないでよ!」

「どうしたんだよ、いったい。ちょっと怖いよ。それより、バスルームの扉が開かないんだ。どうしたんだろう」

 移動し、確認する。扉は奥へ押すタイプだ。カギはかかっていない。取っ手は回るが微動だにしない。

「どうすることも出来ないわね」

「今日はもう遅い。明日、業者でも呼ぼう」

 寝室へ戻り、ベッドへ倒れこむ、だけどワタシはこのとき電気は消さなかった。

 眼を細めながら夫が愚痴をもらす。

「おいおいまだ起きているつもりか?」

「穴が気になるのよ。もういっかい見せて」

 夫の頭をまくらに押さえつけ、頬を調べる。

「あれ?」

「ないのか? やっぱり気のせいだったんだよ」

 確かに消えている。頬の中央にポツリと開いていた小さな穴。あとかたもなく消えていた。念のため反対の頬も見る。ない。

「治ったのかしら?」

「違うよ。もとからなかったんだ。見間違いだったのさ」

「そうなのかしら……」

「休日も限られているんだ。時間を、大切にしよう。もう寝るぞ」

 夫の寝息を聞きながら、ワタシはしばらく眠りにつけなかった。何故ならば、どこからともなく聞こえてくるチキチキチキチキという音が、鼓膜の中でパーティーを繰り広げていたからだった。


     三日目

 香ばしいかおりで眼を覚ましたのは、午後を少しまわったころだった。いつの間に寝ていたのか、しかし疲れは取れていなかった。目覚めたあとも、しばらく水の中につかっているような感じだった。

 隣に夫はいない。このかおりは、きっと夫が発しているのだ。ワタシは急いでキッチンへと向かった。

 料理をしている夫の背中がそこにはあった。たのもしく、広く、がっしりとした愛しい背中。トントントントンとリズムよく音を奏でている。

「ごめんね。ワタシが用意しようと思っていたのだけど」

「いいんだよ。もっとゆっくりしていてくれ」

 夫がそう言いながら振り返った。優しい微笑を浮かべる夫の顔。

 ワタシも笑顔を返そうとした、しかし、表情筋が硬直した。


 無数の黒い斑点が夫の顔中に、ボツボツ、ボツボツ、と出来ていたからだ。


 言葉を失うワタシに対し、

「そんなところで突っ立って、どうした?」

 などと悠長なことを言うのでワタシは駈け出した。

「その顔どうしたのよ!」

「え、顔がどうかしたの?」

「鏡を見ていないの?」

 被害を免れている夫の眼がいぶかしげにゆがむ。

「バスルームの扉が開かないからね」

 ちょっと待ってて、と言い残し、ワタシは寝室へ戻りバッグから手鏡を取り、またキッチンへと引き返した。

 夫は料理を再開させていた。その背に向かって言う。

「何やってるの。料理どころじゃないわよ!」ところが、振り返った夫の顔は元通り美しいままだった。

「あれ? どういうこと……穴がなくなっている」

「疲れているんだよ。さ、ご飯の用意が出来たから座って」

 (うなが)されるままワタシはダイニングテーブルのイスに腰を下ろし、顔を覆った。夫の言う通り、疲れているだけなのかもしれない。三か月の孤独と夫がいる安堵感の温度差がワタシの精神を不安定にさせているのだ。

 夫はしばらく家にいる。だけどまたすぐに出て行く、という現実に焦っているのだ。未来に待ち受ける孤独に、早く、慣れなければ。

「お待たせ。アフリカの郷土料理だよ。現地の人に教わったんだ」

 そう言って眼の前に出されたのはカレーライスのようなもの。鶏肉と野菜を煮込んだスープがかけられている。口に入れる。お米ではなくて小麦粉だった。小さなパスタ? スパイスがふんだんに使われている。ローズマリー。クミン。バジル。口の中いっぱいにかおりが広がる。

「世界最少のパスタと言われているんだ。おいしいだろ」

「ええ、とっても」

 夫がグラスに赤ワインを注いでくれた。美味しい料理にワインの食卓。なんてすてきなんだろう。感動が全身を駆け巡ったあと、ワタシは夫の手をガシッとつかんだ。

「痛い。どうしたんだ」

 手の甲に小さなクレーターのようなくぼみがいくつも出来ていた。少し、血がにじんでいる。

「何……これ」

「おや、なんだろう」

「痛くないの?」

「ぜんぜん」

「ちょっと、左手も見せて」

 そう言って反対側の腕を引っ張る。あった。細い耳かきでえぐられたような、無数の、くぼみ。ぼつ、ぼつ、ぼつ、ぼつ、いっぱい。

 ワタシは夫を引き連れて流し台へ移動した。水を出し、穴を洗う。

 夫がこのとき、けだるそうに言う。

「大丈夫だよ。痛くもかゆくもないんだから」

「何かの病気よ。そうじゃなきゃ、こんな症状なんて出ないでしょ」

「そうは言っても、本当になんでもないんだから」

 タオルで濡れた手を拭う。しかし、すぐにへこみの中に血がにじみ出す。料理中に負ったかのように新鮮な傷痕。本当に痛くないのだろうか。夫の顔を見るとまるで他人事のようにけろっとしている。そんな様子にいらいらして、ワタシは声を荒げてしまった。

「とりあえず横になって休んでいて! 病院に電話するから」

「いや、いいよ。疲れてないし痛くないし、それに、ふたりの時間をもっと満喫したい。それにこれはダニか何かにやられただけだよ。心配しすぎだ。気をしっかり持ってくれ。ちょっとこわいぞ」

「もう……そうね。わかったわ。でも、少しは休んでちょうだい。それで少しは安心するから」

 そう言って夫を無理やり寝室へ押し込み、そのあと、ワタシは仕事部屋へ入った。すぐにパソコンを起動し、ネットを開く。

 夫はアフリカに行っていた。そこでの感染症……病……。

 ワタシの指が、ふと、とまった。

 (はえ)

 アフリカ生息の蠅を検索する。うじゃうじゃと、出てくる。

 ツエツエバエ、ヒトヒフバエ、ヒトクイバエ、ニクバエ、クロバエなど。そこからさらに絞る。

 似たような症例が見つかった。いわゆる、ハエ症だ。


【ハエが人の身体に卵を産みつけ、孵化(ふか)した幼虫が体内に侵入して成虫になるまで成長し、それから体外に飛び出す】


 卵ではなくて直接、幼虫を産む蠅もいるらしい。

 夫の身体に起こっている現象はこれだ。見つけた。

 治療法は?


 医療機関を受診。

 穴をテープなどでふさいで呼吸できなくし、這い出てきたところを捕獲する。

 ピンセットなどで幼虫を取り出す。


 ワタシは《目的のアイテム》を引き出しから取り出し寝室へと移動する。扉を開け、中へ入る。夫はこちらに背を向け、ベッドに座っていた。

「治す方法がわかったわ」

 ワタシの右手にきらりと光るカッター・ナイフ。()を変えたばかりだから痛みも少なくてすむだろう。

「心配しすぎだよ」夫がゆっくりと振り返る。「本当になんともないんだから。放っておけばそのうち治るよ。ところで、手にしているのはなんだい?」

 笑顔を作っているのだろうか。いや、もう夫の顔を識別できないほどの……


 穴穴穴穴穴穴穴あなあな穴アナあな穴穴――


 ワタシの意識は、暗い穴の中に、落ちていた……。


     四日目

 ルルルという電子音がはるか彼方から届いている。ここは深い闇の中。まるで夫の身体に出来た穴の中に入ってしまったかのようだった。するとワタシは蠅? 精神だけが蠅の意識にもぐりこんでしまったのだろうか。それなら好都合。ワタシが蠅の幼虫を除去しよう。ウジだ。ウジを退治しよう。正直、恐ろしい。だけど夫を救えるのはワタシしかいないのだ。ならばウジへの恐怖心を意識下に封印しよう。封印しようと思うと逆にウジのことを鮮明に思い出してしまう。だから夫が作ってくれた料理のことを考えて脳内から強制的にウジを追い出す。

 ウジのぐにぐにと動く蠕動(ぜんどう)。身体の節々が伸び縮みして前進。意外と早い動きなのだ。だけど恐れるな。世界にはウジを喰う人たちもいるのだ。喰え。喰らえ。ワタシもウジを喰らってしまえ。

 ルルルルル。音が鳴る。もしかしてこれは電子音なんかじゃなくてウジの鳴き声かしら。

 泣いている? 喜んでいる?

 わからないしどっちでもいい。ワタシはウジを喰らうのだから。

 ルルルルル。

 ルルルルル。

 気づいた。なんてことはない、ただの電話の音だった。

 眼を覚ますとワタシはベッドの上だった。夫の姿はない。

 ルルルルが痛みを伴い頭の中を暴れまわる。額をおさえながらサイドテーブルにある子機を取る。

「もしもし……」

『何所へやったの?』

「え?」

『何所へやったのと聞いているのよ。しらばっくれないで!』

 電話の女性は何をわめいているのだろう。頭が痛いので怒鳴らないでほしい。

「ちょっと、落ちついて。あなたは誰?」

『はん、もう知っているんでしょ。そんなことより早く出してよ』

 ダメだ、まったく話にならない。電話を切る。

 しかし何故、夫はずっと鳴り続けていた電話に出なかったのだろう。親機はリビングにある。つまり、リビングと寝室にいないということは確か。どこへ行ったのだろうか。探しに行かなくては。

 ルルルルル。また電話が鳴る。もう一度、出る。またあの女だった。

『ごめんなさい。怒らせるつもりはなかったの』チキキキキ。なに、この音。どこかで聞いたことがあるのだけど思い出せない。

『お願いよ。助けて』

 助けて? この人は命の危機に(ひん)しているのかしら。でも、ワタシにも余裕はない。夫の無事を確認しなければならないからだ。

「あの……ごめんなさい。今はどうしても手が離せないの」

 そう答えると、しばらくの間があり、また女は、ヒステリーを起こした。彼女の感情に比例して謎の音も増量された。

『《チキチキキ、チ》私の願いを聞きなさいよ! あなたの気持ちはわかる。でも、《チキ》仕方ないじゃないこればかりは! 《チキキキキキキ!》』

 ワタシは電話を切り、子機を壁に投げつけて大人しくさせた。頭痛がひどい。子機はバラバラになり血管を身体からまき散らしている。もう、鳴くことはないだろう。ひとまず安心だ。

 午前三時を少しまわっていた。

 ぞっとする。あの女はこんな時間に電話をかけてきたのだ。普通じゃない。

 夫を捜すために寝室を出る。常備灯の薄明かりの中、バスルームの扉の隙間から光がもれている。夫は、中にいるのだろうか。

 ドアの前へ移動し、ノックする。

「そこにいるの?」

 返事はない。耳をそばだて、物音を探る。虫や野鳥が死滅した森のように静かだ。

 どうしても扉は開かないので、あきらめてリビングへ向かう。だけど電機も消され、夫の姿はなかった。

「あなた?」

 自分でも情けないほど弱々しい声だと思った。今度は気をしっかりと持って声を出す。

「あなた!」

 しかし、夫は答えてくれない。

 代わりに――

 ドンドンドンドン!

 玄関のドアを叩く音。動けずにいるとまたドンドンドンドン。駆け寄ってみると、ドアチェーンは下りている。つまり、夫は外へは出ていないということ。じゃあ、仕事部屋かしら。そう考えているとまた、ドンドン、ドンドン。

「誰?」

 ドンドンド……。

 もう一度訪ねる。

「こんな時間に迷惑でしょ。やめてちょうだい」

「ゆるさないわよ絶対にゆるさない早くここを開けて開けなさい開けろ!」

 ガチャリ。

 最悪なことに、チェーンだけでカギをかけ忘れていた。グイッと戸が開き、女の左眼がドアの隙間から覗いた。視線が交差する。女は扉の(ふち)に指をかけ、ちからでチェーンを引きちぎろうとしている。爪を立て、鉄をこすり、いやな音が鼓膜を振動させる。

 ぎぎぐりりまりまりぱき――

 ワタシは逃げた。何をされるかわからない。異常すぎる。夫に助けを求めよう。きっと仕事部屋にいる。

 全力で走った。すぐに着いた。扉を開ける。闇。電気をつけた。

 居ない。

 残された場所は隣の空き室だけ。そこにいるに違いない。

 廊下へ出ると、ワタシは呼吸を忘れて、動けなくなってしまった。

 女が、家に侵入していたのだ。

 三十代前半、いや、二十代後半だろうか。肩にかかる黒髪が知的さを助長させ、眼尻のほくろが目立つ美しい女性だった。

 爪がえぐれていた。ボタボタと指先から血が滴り落ち、女の足元に小さな血だまりを作っている。

 血の量から推測して、その場で、ワタシが出てくるのをじっと待っていたのだ。動かず、血を止めようともしないで。

 彼女はぶつぶつと意味のわからないことをつぶやいている。

「許してねごめんなさいあなたは悪くない悪いのは私なのごめんなさいわかっているのよ」

 いくらか状況を把握したワタシは女を落ち着かせようと思った。しかし、言葉が出て来なかった。

 絶句した理由は、女が家の中に入り込んだわけでも指の先をずたずたにしていることでも意味のわからないことを口走っているからでもない。

 女の全身に、ぼつぼつぼつぼつ、があったからだ。

 腕、首筋、スカートの下からのぞく脚、そして顔中にぼつぼつ黒いぼつぼつぼつぼつ。

「どこなの?」

 そう言うと同時に彼女の口の中から異物が飛び出し、浮遊し、横の壁に張りついた。

《それ》は、蠅だった。

 数十匹、数百匹……。無数に彼女の口から飛び出してくる。

 女が駆けてきた。一瞬の出来事でワタシは反応することだ出来なかった。そして、女に押し倒される。両腕を抑えつけられ、馬のりで全体重をかけられているため、ワタシは身動きひとつ取れなかった。

「仕方ないじゃない」ワタシの顔の真上から見下ろすように女が言う。「こればっかりは、他人がどうこう出来るもんじゃないのよ」口をぱっくりと開ける。「ゆるさない!」

 次の瞬間、女の口の中から無数のウジが噴き出した。

 ぼぼぼぼぼぼぼ――ワタシの顔中にウジがかかる。ぴた、ぴた、ぴた、見開かれたワタシの眼球にとまり、耳、鼻、口から体内に侵入してくる。そのうちの数匹を噛み潰してしまった。生暖かい汁がウジの身体からどろどろと出てくる。こんなに小さな身体のどこにこれほどの体液が含まれていたのか。口端から、濃度の高い液体が流れ出る。


 何度目だろうか、悲鳴を上げたのは……。

 そして悲鳴の中に、耳慣れた音も混ざっていた。チキチチ……。


     五日目

「……さん。居ますか? 隣近所からですね、異臭がすると苦情があったのですよ。ねえ、大丈夫ですか? 異常はないですか?」

「すみません、ちょっと生ごみを片付けるのを忘れていて。すぐに始末します」

「そうですか、大丈夫ならいいんですよ。何かあったらいつでも相談にのりますからね」

「ありがとうございます。ご心配おかけしました」


 大家さんの心配なんてどうでもいい。夫と妹の料理の準備をしなくちゃ。ふたりとも、きっとお腹を空かせているわ。


     一日目

 夫の寝顔はいつものようにおかしかった。ときおり鼻をひくひくさせ、半眼を開き、また、鼻をひくひくさせる。何度見ても、飽きることがない。

 ワタシはベッドの上で頬杖をつきながら夫の顔を見ていた。

 そこでノックの音。

「お姉ちゃん、入っていい?」

 促すと、肩まである黒髪があい変わらず美しく、知的さを(かも)し出す妹が入ってきた。眼尻のほくろが男性の心をつかんで離さないだろう。妹のように、ワタシも美しくなりたかったわ、と見るたびに思う。

「早起きね。まだ六時前じゃない」

 呆れ気味に忠告したけれど妹は聞いていないようだった。

「やっぱり……」

 妹が第一声、そう不安げな声を上げた。いつも陽気な妹なので、ワタシはただごとではないと居住まいを(ただ)した。

義兄(にい)さんの顔、穴があいている……」

 ぞっとして隣を見る。確かに、小さい黒い斑点があるのを確認できる。

 妹が電気をつけた。明るみに出た彼女の顔にも、無数の穴が開いていることに気づいた。

「あなたもじゃない! ちょっと見せて」

 その瞬間、夫と妹の身体から蠅が何匹も何匹もいっせいに飛び出した。

 助けなくちゃ、彼らを救えるのは、ワタシだけなのだから。


     十日目

「ね? ここからでもにおうでしょ。前に警告したんですけどね。それがよくならなくて」

「わかりました。ここから先は私たちにまかせてください」

「開きました。どうぞ」

「ありがとう。家主さんはここで待っていてください」

「ものすごいにおいだ。うげえええええええええ」

「ふがいない。先に行ってるぞ」

「すみません、先輩。もう大丈夫です」

「無理するなよ。ふむ、においの出処はどうやらバスルームからのようだ。カギがかかっているな。突破する」

「こ、これは……」

「ああ、こりゃ~」

「うわああああ!」

「こら、待っていろと言っただろ、まったく。ところで、ここの住人はどこだ?」


 チキチキチキチキ――


「先輩! 廊下に女性が――」

「おい、家主さん、彼女か? あの女がそうなのか! おい、普通じゃないぞ」

「気をつけてください、手に――」


 チキ、キキキキ――


     一日目

 忙しい忙しい。

 今日はお父さんと長男と次男も遊びに来ているのだ。ランチはちょっとしたパーティーね、腕をふるってご馳走を作らなくちゃ。

 でも、どこからこんなに多くの蠅が入ってきたのかしら。

 退治しなくちゃ。みんなを守れるのは、ワタシだけなのだから。




                     蟲穴 ~永遠の四日間~   終 らない


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[一言] (検索ページから来ました) 素直な表現がすんなりと入ってきて怖かったです。 僕の怖さのピークは電話の辺りでした。
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