「書きたい」と「読ませたい」の向こう
思いついた事を、つらつらと書き流したので、まとまりはあまりよくありません。
■「書くことの動機」と「面白さ」
「小説を読もう」で数多くの作品を読んで色々なことを考えたりしました。
それは自分が昔から考察しているファンタジーとは何か?という部分だったり、オリジナリティとエンターティメンという部分だったりします。その延長で「面白いって何?」という本質に繋がり、その大きな柱に沿って常に考察しているのだと思う。
例えば最初は面白いなと思っていたのに、途中からどうでもよくなってくる作品というのは結構あって、ただ詰まらなくなるのなら良いのですが、そうじゃなく、、普通にストーリーも進行し最初に感じた「面白い!」と思った構図は変わらないのに、、そうなる場合がある。
で、大抵、そういう場合は「何故、この作品を書きたいと思ったのか?」というのが読んでいてさっぱりわからない場合なのです。なにかしらのイベントのループになっている。大きな流れにおける起承転結が見えないのです。
そういう事から「書く動機」そのものの強さが、最終的な「面白い」「面白くない」に密接に繋がっているのだと感じています。
■「書きたい」という衝動と「読ませたい」という衝動は、違う
書きたいという衝動は、自分に向かっている。
例えば、何か思いついた事や、とても感動した事などを、忘れないように書き留める作業がそれにあたると思う。そこにあるのは、純粋な内容そのもの。
読ませたいという衝動は、他者に向かっている。
そこにあるものは、自分を受け入れてくれているかどうか?という事だと思う。
そこにあるのは、相手が受け入れてくれる為の語り口。
■「面白そう」と「感動」の違い
・こういう話があったら面白いだろうな
・こういう設定でこんな展開とかならワクワクするだろうな
そういうのと、
・作品を読み終わって、心に突き刺さる、心を揺り動かす
・何かを考えさせられる
というのは違う。
それは前者が出だしに提示される景色だけでも成立するのに対して、
後者が、最初から最後まで一連の流れで見せる幾つもの景色、という違いだと思っている。
「面白さ」とは装飾であり、「感動」とは中身である、と言えるのではないでしょうか?
食べ物に例えるなら
・見た目や最初の食感が「面白さ」
・食後の満足感が「感動」
といえると思う。
チョコレートケーキを食べるとしよう。
見た目は美しく食欲はそそり、とてもとても甘いチョコレートケーキだとしよう。
最初、とてもおいしく「なんて甘くておいしいのだろう」そう思ったとしよう。
しかし、ずっーと変化のない甘さだけでは、うんざりしてしまうのではないだろうか? 人にもよりますが、ケーキに限らず食べ物というものは、最初のインパクトだけでは満足させるためには足りず、食べる人が最終的においしかったと思わせる味の変化と深層化(重層性)が必要だと思うのです。
それは単に「甘い」とか「辛い」とか、そんな一言ではすまされない「その料理独特の味」なのだと思う。……そう、一言では表せない独特なニュアンス、、、テーマ。
テーマとは最終的に見える着地点そのものでもあり、その作品を表す存在。
もちろん、単純な言葉やイメージで表すことができないからこそ、作り始めの時点でのテーマそのものは、大抵曖昧なぼんやりとしたものかもしれない。しかし、完成した際に見えてくるものがあるならば、それはテーマの完成であり、それこそが感動なのだと思う。
■面白さや感動は常に主観的なもの。
もし「面白さ」「感動」に客観的なものがあるとしたなら、それは、その時代に流れる空気であり、多くの人が体験したことのある経験から派生した、共有認識だと思う。
それは理性的な何かではなく、動物的な脊椎的な感覚そのものであり、リピドー(衝動)だと思う。
いうなれば、「生きること」とは何か?という問いを掛けられて、無意識上で浮かぶイメージに近いのではないか、とすら感じる。
なぜならば人は主観的に生きており、そして曖昧な共有認識…常識…の上で不完全なコミュニケーションをしているから。
そして上の点を踏まえて断言したいと思う。……客観的な「面白さ」「感動」などない。
主観的な視点をより客観的に伝えることのみが、人々を楽しませ、感動させるのだと思うから。
だから、客観的な「面白さ」「感動」を探す必要もない。
あなたが面白いと思うことそのものが、面白さや感動の種なのです。
これはとても重要なことです。
なぜならば、商業主義において、客観的な面白さというものがあるように語られ、そして、そこにおいてマーケティングなるもので面白さが計測されるから。
そして実はそれこそが、もっとも面白さや感動を阻害するものなのだと私は感じるのです。
読ませたいという衝動において、これらの商業的な要素、または、過去における他者の成功作品が、作者の個性を阻害させる事は多々あると思う。
そして更にいえば、客観性が必要とされる語り口こそが、もっとも個性を表すものだという事。何故ならば、それは「主観的に客観性を見た語り口」に過ぎないからです。わかりやすくいえば、書き手にとっての「世の中」「常識」「普遍性」それが語り口におけるコミュニケーションの要素となっているだけですから。これは私達が行っているコミュニケーションそのものが、常に主観的なやり取りの上でされている事を考えれば、わかりやすいと思う。
■
今まで書いてきた事は、ひとつの疑問から出発しています。
それは、
・人は書きたいから書くのか?
・それとも読ませたいから書くのか?
という事です。
というのは、今まで読ませたいという動機について考えたことがなくて、でもよく考えると、作品を発表するという事そのものが、そういう事なんですよね、、。無理して書く必要もない、声を大にして主張したい事もない、ただ読んで欲しい、、という事が、どういう事なのかなと思ったのです。
今回、「書きたい」と「読ませたい」について簡単に説明はしましたけど、その部分の考察はあえてしませんでした。考察すると、あまりにも長くなるという事と、又あえてしなくてもその二つを提示するだけで十分な「気づき」があるのだと思ったからです。
その上で作品における「面白さ」「感動」について考察すると、見えてくるものがある気がしました。
それは、「面白さ」「感動」は主観的なものであって、そして作品(文章)というコミュニケーション媒体において、語り口は客観的である必要があるにもかかわらず、そこにも主観性がはいりこんで大きな個性を作っているという事です。
そして「読ませたい」という衝動において、流行モノを取り込んだり、多くのネタを仕込んだりしますが、それそのものが面白さを保証するものではないという事。これは「テンプレのメリット・デメリット」でも書きましたが、面白さにおいてやはり個性が重要であり、そしてテーマが重要であるという事を感じたのです。
だから「別に自分は書きたいものなんて無く、皆が楽しんでくれたらいいんだ」そういう人であっても、書きたいことは必要なんだと思う。それは自分が面白いと思うことを書くことだったりするし、自分が感動するだろうなという事だったりするのだと思うのです。
物語は常に主体性の中から流れ出るものだと、強く思いました。
当たり前の事かもしれませんが、忘れがちな事じゃないかなと思うのです。