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夫は私を湖に沈め初恋を救った――そして私は家族を捨てる

作者: 雛雪
掲載日:2026/02/20

 夫の初恋の令嬢が戻ってきた日、屋敷の空気は微妙に変化した。


 応接間の花の位置。

 食卓の席順。

 使用人たちの視線。


 伯爵家を取り仕切ってきたのは私だった。

 社交の予定も、家令と予算の調整も、執事や侍女の動かし方も、庭師への指示も、息子の教育も、すべて私が管理してきた。


 それを夫は“当然”と思っていた。

 だが夫の初恋のエレンが来た途端、夫の隣に座るのは彼女になった。

 私の席は端。

 息子は彼女の部屋に通うようになった。


⸻


 お茶会の日。


 いつもなら私が決める席順が、当日いつの間にか変更されていた。

 夫の隣はエレン。エレンの隣が私。

 周囲は笑顔で迎える。

 私の目には、計算されたその笑顔が冷たく映った。


 席の変更をうながそうと彼女に近付いたその時、不意に彼女が立ち上がった。


椅子を引く音。

そして、バランスを崩す気配。


次の瞬間、彼女は床に崩れ落ちた。

「……っ」

小さな呻き声。


私は助け起こそうとした

その拍子に、肘がテーブルに当たる。

カップが弾かれ、紅茶が私のドレスにかかった。


「伯爵夫人に……押されましたの……」

震える声。


私は凍りついた。

助け起こそうとした手が動きを止めた。


私は何もしていない。


だが、誰もそれを見ていない。

見たのは倒れた彼女と、近くにいる私だけ。


視線はすべて、怯えた彼女に集まった。

同情の声。

友人だった夫人たちの目も、私から一歩引いた。


私のドレスを気にする者はいない。


夫は言った。


「大人になれ。彼女は傷ついている」


 私の声は届かない。


⸻


 湖の午後。


 夏の終わり、波一つない湖。

 ボートの縁に手を置いたとき、背後で声がした。


「あなたは邪魔なのよ」


 振り向くより早く、背中を押された。

 水飛沫が上がり、底へ底へと落ちていく。やがて冷たい水が肺に流れ込む。

 重く、暗く、沈む感覚。


「エレン!」


 呼ばれたのは私ではない。

 岸では夫が彼女を抱き上げていた。

 私は必死で水面から這い上がった。


「どうして私を落としたのですか!」

 彼女は震える声で叫ぶ。


「最低だ、母上!」

 息子の目は軽蔑に満ちていた。


 ーぷつりー


その瞬間、胸の奥で細く繋がっていた何かが完全に切れた。


⸻


 夜。


 書斎で離縁状を書く。


『どうぞ初恋をお選びください』


 荷物は最小限。旅行鞄が一つ。

 屋敷を出ても振り返らなかった。

 私は伯爵夫人だったが、その役目から下りた。


******


 伯爵夫人が去ってから三ヶ月後ー


 屋敷は崩れ始めた。

 社交の招待は滞り、支払いの書類は山積み。

 使用人同士の小さな衝突も増えた。

 執事は判断を仰ぐ相手を失い、家令は帳簿の整合に頭を抱える。


 伯爵家は“自然に”回っていたわけではない。夫人に回されていたのだと。

 伯爵は初めて気付いた。


「クリスチーナ…」

その名を口にするのは一年振りだった。


*****


 やがて湖事件の真相が明らかになる。


 船頭の告白、侍女の証言、彼女の前夫からの書状。

 エレンの虚言は暴かれ、社交界から追放された。


 だが、夫人はもういない。


*****


 息子は母の部屋に入る。


 整えられた机、引き出しの成長記録。


『今日はアランが一人で詩を暗唱できた』


 震える指でページをなぞる。

 言った言葉、「最低だ」が耳から離れない。

 泣いても、届かない。


⸻


 海の見える小国。


 私はカフェを開いた。

 帳簿をつけ、仕入れを交渉し、焼き上がりを確かめる。


 誰にも支配されない労力は、こんなにも穏やかだった。


「店主、このケーキは絶品だ」


 笑顔が向けられる。

 それだけで十分だった。


 夕暮れ。

 遠くに伯爵家の紋章を掲げた船が見える。

 潮風が髪を揺らし、そっと窓を閉める。


 湖に沈んだあの日、私はすべてを終わらせた。

 後悔は持ち主のもの。

 私はもう背負わない。

 私は私の人生を貶められることなく生きたい。




――完――


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― 新着の感想 ―
読みやすいというと、読みやすい
息子の心情がよくわかりません。 何故、父親の初恋の人に懐いたのでしょうか? 湖のシーンでもずぶ濡れの母親を見ているのに罵倒していますし、「魅了」でも使われたのでしょうか? 伯爵は「大人になれ」と偉そ…
連載の方では息子の後悔をもちょっとみたいです。
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