夫は私を湖に沈め初恋を救った――そして私は家族を捨てる
夫の初恋の令嬢が戻ってきた日、屋敷の空気は微妙に変化した。
応接間の花の位置。
食卓の席順。
使用人たちの視線。
伯爵家を取り仕切ってきたのは私だった。
社交の予定も、家令と予算の調整も、執事や侍女の動かし方も、庭師への指示も、息子の教育も、すべて私が管理してきた。
それを夫は“当然”と思っていた。
だが夫の初恋のエレンが来た途端、夫の隣に座るのは彼女になった。
私の席は端。
息子は彼女の部屋に通うようになった。
⸻
お茶会の日。
いつもなら私が決める席順が、当日いつの間にか変更されていた。
夫の隣はエレン。エレンの隣が私。
周囲は笑顔で迎える。
私の目には、計算されたその笑顔が冷たく映った。
席の変更をうながそうと彼女に近付いたその時、不意に彼女が立ち上がった。
椅子を引く音。
そして、バランスを崩す気配。
次の瞬間、彼女は床に崩れ落ちた。
「……っ」
小さな呻き声。
私は助け起こそうとした
その拍子に、肘がテーブルに当たる。
カップが弾かれ、紅茶が私のドレスにかかった。
「伯爵夫人に……押されましたの……」
震える声。
私は凍りついた。
助け起こそうとした手が動きを止めた。
私は何もしていない。
だが、誰もそれを見ていない。
見たのは倒れた彼女と、近くにいる私だけ。
視線はすべて、怯えた彼女に集まった。
同情の声。
友人だった夫人たちの目も、私から一歩引いた。
私のドレスを気にする者はいない。
夫は言った。
「大人になれ。彼女は傷ついている」
私の声は届かない。
⸻
湖の午後。
夏の終わり、波一つない湖。
ボートの縁に手を置いたとき、背後で声がした。
「あなたは邪魔なのよ」
振り向くより早く、背中を押された。
水飛沫が上がり、底へ底へと落ちていく。やがて冷たい水が肺に流れ込む。
重く、暗く、沈む感覚。
「エレン!」
呼ばれたのは私ではない。
岸では夫が彼女を抱き上げていた。
私は必死で水面から這い上がった。
「どうして私を落としたのですか!」
彼女は震える声で叫ぶ。
「最低だ、母上!」
息子の目は軽蔑に満ちていた。
ーぷつりー
その瞬間、胸の奥で細く繋がっていた何かが完全に切れた。
⸻
夜。
書斎で離縁状を書く。
『どうぞ初恋をお選びください』
荷物は最小限。旅行鞄が一つ。
屋敷を出ても振り返らなかった。
私は伯爵夫人だったが、その役目から下りた。
******
伯爵夫人が去ってから三ヶ月後ー
屋敷は崩れ始めた。
社交の招待は滞り、支払いの書類は山積み。
使用人同士の小さな衝突も増えた。
執事は判断を仰ぐ相手を失い、家令は帳簿の整合に頭を抱える。
伯爵家は“自然に”回っていたわけではない。夫人に回されていたのだと。
伯爵は初めて気付いた。
「クリスチーナ…」
その名を口にするのは一年振りだった。
*****
やがて湖事件の真相が明らかになる。
船頭の告白、侍女の証言、彼女の前夫からの書状。
エレンの虚言は暴かれ、社交界から追放された。
だが、夫人はもういない。
*****
息子は母の部屋に入る。
整えられた机、引き出しの成長記録。
『今日はアランが一人で詩を暗唱できた』
震える指でページをなぞる。
言った言葉、「最低だ」が耳から離れない。
泣いても、届かない。
⸻
海の見える小国。
私はカフェを開いた。
帳簿をつけ、仕入れを交渉し、焼き上がりを確かめる。
誰にも支配されない労力は、こんなにも穏やかだった。
「店主、このケーキは絶品だ」
笑顔が向けられる。
それだけで十分だった。
夕暮れ。
遠くに伯爵家の紋章を掲げた船が見える。
潮風が髪を揺らし、そっと窓を閉める。
湖に沈んだあの日、私はすべてを終わらせた。
後悔は持ち主のもの。
私はもう背負わない。
私は私の人生を貶められることなく生きたい。
――完――




