十話
ルーナは今、ディーに手をひかれ女王の元へ向かっていた。
「母上は、少しお茶目な方だから、貴方を驚かせるかもしれない。けれど、女王としても人としても、立派な方だ」
誇らしげな口ぶりで語るディー。
噂では、ディー……古王国の第三王子は、唯一力を受け継がなかったみそっかす王子だとされていた。
ルーナはずっと、自分と同じような人間なのだろうと思っていた。周囲に虚勢を張り、あるいは斜に構え世の中を冷めた目で見ているような、つまらない人間なのだと思っていた。
しかし、実際は全く違った。
自分と同類に扱うのが恥ずかしいとすら思った。
――古王国セライアの第三王子、ディエムノクス。彼は腐ることなく、真っ直ぐに家族と国を愛している。
こうして城の中を歩いているだけでもよくわかる。
すれ違う者はみんな、ディーに敬意を示している。
「……貴方は、家族が好きなのね」
知らず知らず、ルーナの口からそんな言葉がこぼれた。
「もちろんだ」
ディーは迷う素振りなく、力強く頷いた。
「姫も、そうだろう」
曇りのない笑顔で同意を求められたルーナは、即答できなかった。
「……姫?」
是非を答えず、曖昧な笑みを浮かべた事が不思議だったらしい。ディーは、訝しむようにルーナに呼びかけてきた。
「…………わからないの」
「わからない?」
「好きだった時も、あったかもしれないわ」
でも、今はどうだろう。
セライア行きを命じた父の顔を思い浮かべようとして――おぼろげにしか思い出せない自分自身に、ルーナは眉をよせた。
「でも今は――」
どうでもいい……そんな本心を吐露する前に、冷ややかな男の声が二人の会話を妨げた。
「何をしておいでですか、姫」
「…………」
ライン。
今回の使節団の、実質上の長だ。
人前では貴公子然とした態度を絶やさない男が、苛立ちもあらわに立っていた。その横には、ラインの連れてきた娘がいる。彼女もまた、非難するような目でルーナを見ていた。
「何? 見て分からないかしら? おしゃべりを楽しんでいるのよ」
そんな目で見られる理由などない。
ルーナは、心外だという風に答えた。
ぴくり、とラインの片眉が跳ね、娘の目がますますつり上がった。
「ここから先は、許可無く立ち入ってはいけない場所です。部屋にお戻り下さい」
つかつかと大股で近付いてくるラインは、明らかに怒っていた。
「勝手に部屋から出ては困ります。我々は、ただでさえ貴方が仕事を放りだしたおかげで、多忙なのですから」
ディーもいるというのに、敬う素振り一つ見せず、不平不満を口にする。
姫の立場を慮るなどという気持ちは一切無いらしい。
むしろ、あえてルーナの立場の弱さを露呈させているようにも見えた。
「部屋にお連れいたします、姫」
言葉だけは丁寧だが、否定を許さない雰囲気だった。
まるで、自分が王にでもなったかのような、傲慢な態度だ。
それこそ、ヒルゲネスのあの男を思わせるかのような……。
ルーナは、はっきりと不快感を示し眉を顰めた。
しかし、ラインは気にしない。
「シイナ。君はそちらの騎士殿のお相手を」
「はい、お任せ下さい」
ぱっと、娘の顔が華やいだ。
当然のような顔で、ディーにエスコートを求めるように手を差し出す。
「シイナと申します。ルーナ姫は、心身共に万全ではない様子。僭越ですが、わたくしがかわりと務めております。……これより先は、なにかあれば是非わたくしにお声がけください、騎士様」
暗に、ヒルゲネスの姫は頭がおかしいと言われたルーナは、一瞬呆然とした。
そして、当然のようにルーナをいないものとしてディーに笑いかける娘と、それを止めもせずに見ているラインに猛烈な怒りがわく。
馬鹿馬鹿しい。
馬鹿が勝手にやっているのだから、放っておけばいい。
いつものルーナならば、自尊心を慰める口癖を胸に、波風を起こすことを嫌い引き下がった。
けれど今、どうしても我慢できなかったのは、ディーが自分を庇うように前に立ったからだ。
何を思ったのか、女王はライン達にすらディーの正体を教えていないようで、二人もまたディーをただの騎士と思い込んでいる。
立場上ディーが拒否するとは思っていないのだろう。拒否されれば、それこそ大騒ぎするはずだ。
そんなくだらない事に、ディーを取られるのは嫌だった。
「下がりなさい」
鋭い声が、ルーナの口から発された。
こんなにも強い声を出すのは、初めてかもしれない。
現に、ライン達二人は、驚いた顔でルーナを見ている。
「私は心身共に、いたって健康よ。……誰の戯れ言を真に受けたかは知りませんが、代役は不要。下がりなさい」
「っ、で、でも」
一瞬気圧された娘だったが、未練がましい声を上げラインとディー、二人の顔を見た。
救いを求めるような眼差しに答えたのは、ラインだ。
「失礼します、騎士殿。姫様は気分が優れないらしい。薬の時間だ」
強引に、この場からルーナを連れていこうとする。
ぴくぴくと目尻が痙攣しているのは、怒りが極限まで高まっている証拠だろう。
ラインという男は、ルーナの反抗がよほど気に食わなかったようだ。
「近付くな」
そんなラインの接近を制したのは、ディーだった。
険しい顔で手を上げ、これ以上距離を詰めてくるなと示している。
「騎士殿、姫には治療が必要なのです」
「…………ほぉ? ヒルゲネスは、我がセライアに、絶えず治療薬が必要で寝台から起き上がることも出来ぬほど病弱な姫を使節団に加えてよこしたのか? ――そのような、非人道的な行いがまかり通る国なのか、貴殿らの国は。……よくわかった、陛下に報告させていただく」
「なにを……! ただの騎士風情が、下手に出ていれば大口を……!」
ラインの顔が、思い通りに行かない事による苛立ちにより大きく歪んだ。
「お兄様……! 顔は駄目よ……! そんな綺麗な顔に手を上げるなんて、駄目!」
娘が見当違いの悲鳴を上げる。
騒ぎを聞きつけた人々が集まってくる前に、とある一声が場を支配した。
「騒々しいな、なんの騒ぎだこれは」
厳しい顔つきをした、長身の男。
ライン達は顔を見るなり、慌てた。
「これは……、お見苦しいところを」
「あぁ、本当にな。…………コレが、どうかしたか?」
男は視線だけで、ディーを示す。すると、ラインは愛想笑いを貼り付けた。
「えぇ、実は、姫を」
「姫? 気分が悪いからと寝込んでいた姫君か。起き上がれるようになったとは幸いだ。我らが母が、貴方に会いたがっていた。ちょうど良い――付いてこい」
ラインがルーナを一瞥し、思わせぶりに語ろうとするや否や、男はかぶせるようにして自分の意見を押し通した。
「姫、こちらに」
「お待ち下さい!」
制止したのは、ラインだった。厳しい視線が向けられる。
「なんの支障がある? ヒルゲネスは女王の招きを拒否する、と?」
「い、いえ、あの……」
ラインは、しどろもどろに視線をさまよわせる。
「姫は気分が悪いので、かわりに私の妹を」
「不要だ。長い時間は取らせぬ。それに……連日寝込むほど具合が悪いならば、セライアの風土が体に合わぬかもしれぬからな。〝星読み〟に頼るのが一番だ。……姫はこちらでしかと送り届けるから、下がって良いぞ」
その背を追いかけるように、ディーがルーナの手を取り歩き出す。
「――姫様、くれぐれも、失礼の無いように。貴方のせいで、私や妹までもが、無知で無教養な人間だと思われては困ります」
歯を食いしばる程の怒りが、見てとれる。
ルーナは、ラインという男が自分に向けて抱く怒りの激しさに、恐怖を覚えた。
さしたる面識もないこの男に、ここまでの怒り……――憎悪を向けられるいわれはないのに。
何も答えず彼らに背を向けたルーナの背に、娘の泣きじゃくる声が聞こえた。
「……お兄様! どうしてあんな子が! 今回は、わたくしが姫なんじゃなかったの……! 後から出てきていいところだけ盗み取るなんて、あんまりよ!」
いないもの扱いしていたのはそちらだろうに。
それでも、ルーナの胸には腑に落ちない何かが残った。