九話
朝。早めに起きていたルーナを、世話係達は誰も気にとめない。
誰もルーナの顔色には気が付かない。
違和感すら覚えない。
当然だ、だって私は強いのだからと、ルーナは心の中でおまじないのように同じ言葉を繰り返す。
けれど事実は違うという事を、ルーナは嫌と言うほど知っていた。
本当はみんな、興味が無いだけだ。ルーナと言う人間に興味が無いから、違和感にも気が付かない。
ただそれだけのこと。
けれど、そんな事実を認めてしまえば、ルーナは惨めな自分と向き合わなくてはいけなくなる。だから、言い聞かせるのだ。
自分は強いのだと、心は氷のように冷たいから、どんなことにも揺らがないのだと。
しかし、朝食を終えたルーナの元へやってきた騎士……――ディーは、一目見るなり端正な顔をしかめた。
「どうした姫、顔が悪い」
「……最低の挨拶ね、この無礼者」
率直な言葉に、ルーナの返答も地を這うような低い声になる。
すると、ディーは言い間違いに気が付いたのか、違う違うと首を横に振った。
「違うんだ。僕はつまり……顔が青いから、どうしたんだと心配になったんだ」
「…………」
気付いてくれた人に、喜べば良いのか。
気が付かれたと、悔しがれば良いのか。
ルーナは極端な二つの答えの間で揺れた。
「体調が悪いのか? どこか痛むか? 食欲は?」
本国から連れてきた世話係達が無関心だった自分の状態を、他国の騎士が心配している。
なんておかしな光景だろうと、ルーナは笑いたくなった。
――上手く笑うはずだったのに、どうしてか目から涙がボロボロとこぼれる。
「言ってくれ。言葉にしてもらえないと、僕は分からない」
細い椅子に腰掛けたままのルーナの傍に来ると、ディーは片膝をついた。
下から見上げてくるその顔は、真剣で、何よりもルーナに対する気遣いに溢れていた。
「なんでも、ない……っ」
「僕には、なんでもないようには見えない。なにもないなら、人は泣いたりしない。体が痛むのか? 気分が優れないのか? それとも……――他になにか、言いにくい理由があるのか」
びくっとルーナの肩が揺れたのを、ディーは見逃さなかった。
思案するように、青空色の目が細められる。
「――姫、何に怯えている」
ぴたりと自分の不安を言い当てた低い声に、ルーナは顔をゆがめて反論した。
「私は……! 私は怯えてなんていないわ……! 怯えるはずないっ、だって……、だって私は強いから……! 誰より強いんだから、放っておいてよ……!」
嗚咽混じりの、みっともない反論だ。
ちっとも強く見えない。
ヒルゲネスの兄弟達が見れば、無様と嘲笑しただろう。
けれど、ディーはじっとルーナを見つめていた。
笑うでも、眉を寄せるでも、ましてや面倒だと苛立つわけでも無い。
彼はただ黙って、ルーナが落ち着くのを待っていた。
やがて、激情から荒くなっていたルーナの呼吸が、沈黙の中で落ち着いていく。
膝をついたままだったディーは、まだ涙のあとが残っているルーナの頬に手を伸ばし、寸前で止まった。
「姫……。許可を」
そして、かしこまった口調でルーナに求めた。
「許可……?」
「あぁ、許可だ。今欲しい。僕は貴方の許可無く触れたりしないと約束した。だから、今貴方の涙を拭いたくても、許しが無くては叶わない」
「――…………」
「姫、今僕が触れて構わないなら、ただ一度だけ、頷いてくれれば良い」
普段のルーナならば「馬鹿馬鹿しい」の一言と共に突っぱねるような要求だった。
それなのに、頷いてしまったのは心が弱っていたからか、真摯に見上げてくる青い瞳に魅入られたからか。
許可を得たディーは、優しい笑みを浮かべるとルーナの頬に触れた。
まるで壊れ物でも扱うかのように、慎重な仕草で涙のあとを拭う。
「……どうして? 貴方は、どうして私にここまでするの?」
義務ならば、放っておけと言われた時点で退出しても誰も彼を咎めないだろう。
それなのに、癇癪を起こした自分の傍に寄り添ってくれるディーを、ルーナは不思議な思いで見つめた。
「貴方は、姫だ」
「…………姫だから、ここまでするの?」
「あぁ。貴方は僕の、大切な姫だ。泣いていたら慰めたいと思うし、困っていた力になりたいと思う」
「…………そんなの、変よ」
「変? どうしてだ?」
「だって、私達、出会ったばかりよ? それも、他国の王族じゃない。それなのに……」
気恥ずかしさから、ルーナは俯いた。
ディーは、流れるような仕草でルーナの手を握る。
「でも、これが僕の偽りの無い気持ちだ。ルーナ姫、どうか僕に教えて欲しい。貴方を悲しませるものが、何なのかを」
信じても良いのだろうか。
他国の騎士を。主の代わりだと、自分からのうのうと宣言するような、ちょっとズレている騎士を。
けれど、ディーは嘘の無い人間に見える。
信じたいと、ルーナの心の中にある、脆い部分が叫んでいた。
「……ちょっと、質の悪い悪戯をされただけです」
けれども、完全に信じることが出来ないルーナは、ごく自然に……――まったくたいしたことなさそうな口調で、切り出した。
ぴくっとディーの片眉が跳ね上がる。
「悪戯?」
「朝目が覚めたら、枕元に短刀が突き立てられていた。それだけです」
「――」
ディーが、大きく目を見開いてルーナを凝視した。
握られた手が痛いと感じるほど、彼の手に力がこもる。
「それだけだって? それだけの一言ですむ話ではない、姫。一大事だ。もっと騒ぐべき、大事件だ。ヒルゲネスの者は、何故誰も何も言わない。内々で隠しておける事では無いぞ」
「だって、誰にも言ってないから……!」
ディーは初めて怒りをあらわにした。
淡々として口調が、余計に彼の怒りの強さを表しているようで、ルーナはたまらず叫んだ。
「……――言って、ない? どうして……?」
「だって……、だって……!」
誰も信用できないんだもの、とルーナはとうとう我慢の限界を迎えた子供のように大声で泣きじゃくった。
「寝室に忍び込める相手だもの、どうしてあの人達が無関係だって言えるの? 信じられない、もう、誰も信じられない……! だって私は価値がないから、いらないと思えば誰だって私を殺せるもの……!」
ディーの手を振り払ったルーナは胸の内にたまっていたものを一気に吐き出した。
立ち上がったディーは、頭を振るルーナを押さえ込むように抱きしめた。
「そんな悲しい事を、言わないでくれ」
「……っ」
「価値がないなんて事、有り得ない。いらないなんて、有り得ない」
自分を抱きしめている腕に、ルーナは思いきり爪を立てた。
「……うるさい……! 私の事なんて、知らないくせに……!」
綺麗事は、もう沢山だった。
けれど、ディーの腕の力は緩まない。それどころか、離すものかとなおも力が強くなる。
「僕は、あなたのを事何も知らない。だから、知りたいんだ」
「え……?」
「これから先、貴方のことを知っていきたい。同時に、僕のことも知って欲しい。……出会った時に、そう強く思った」
ルーナが暴れない事を確認したのか、ディーの腕の力が微かに緩んだ。
戸惑いがちに顔を上げれば、ひどく優しい顔をしたディーがルーナを見下ろしている。
「貴方に価値がないなんて、そんなこと……この先、誰にも言わせない。貴方自身すら、許さない。貴方は僕にとって、何と引き換えにも出来ないほど、心惹かれる存在なんだ」
ぱちぱち、と瞬きしたルーナは自分を抱きしめる騎士の一心に顔を見つめる。
「なに、それ」
とても、胸が苦しかった。
ディーにとって自分は特別なのだと、勘違いしそうになるとルーナは唇をゆがめる。
「……愛の告白みたいだわ」
笑い飛ばそうとして、失敗したルーナの声は、くしゃりと途中から崩れてしまった。 こ
れでは、ただの自意識過剰な女だと自身を卑下するルーナの耳に、信じられない言葉が届いた。
「僕は、そのつもりで言っている」
「! だって、貴方、騎士で……私は、第三王子の……」
「…………あぁ、本当に僕は貴方に肝心な事を伝えそびれていたんだな」
ディーは、再び跪くとルーナの手をとった。
「僕の名は、ディエムノクス。セライアの第三王子だ。――貴方と会える日を、楽しみにしていた。ようこそセライアへ、夜空のように輝く、美しい瞳の姫」
そして、出会った時と同じように、ルーナの手の甲に口付ける。
「第三、王子……?」
「信じられなければ、母に尋ねてもいい。兄姉にも」
「そんな、貴方は騎士じゃ」
「そうだ。僕に母上達のような特別な力は無い。だが、僕も王族の端くれだ。国のため、家族のために尽力したいという思いがあったから、騎士になった。何もおかしい事では無い」
自分は、決して軽んじられていなかったのだと、ルーナは思い違いを悟った。
そして、これまでの自分の態度を思い出す。
「申し訳ありません、私……!」
「やめてくれ、姫。普通でいい。これまで通りが良いんだ。本当の貴方がいい」
確かに、今更取り繕っても無意味だ。
ルーナは、驚きと混乱で落ち着きを無くした。
反対に、ディーはすっきりしたような顔だ。
「やっと言えた」
「なぜ、最初に言わなかったの? 自分は王子だと」
「最初は、姫のことを知りたい一心で、そんなこと気にとめていなかった。後からは――姫が僕を嫌いなのかもしれないと思って、言い出せなかったんだ。貴方は結婚式を見て言っただろう? 自分もいつかは……と。その相手から僕が省かれていたのが、あまりにも衝撃的で……」
簡単な事だった。
ただ最初に、きちんと相手に向き合えばよかっただけだったのだ。
それなのに、くだらない思い込みでルーナは何も見ていなかった。
「…………ごめんなさい、違うの……そうじゃないの、あの時は全く気付いていなくて、謝って済むことではないけど」
「うん。気にしないでくれ。ただ、僕をどう思っているかだけ、教えて欲しい」
あっさりとルーナの謝罪を受け入れたディーは、その後でとんでもない要求を付け加えてきた。
「僕は貴方に、嫌われていないだろうか?」
「…………っ」
「言葉にしてもらえないと、分からない。頼む、教えて欲しい」
切実な問いかけに、ルーナは消え入りそうな声で告げた。
「嫌いじゃ、ない……です」
「そうか!」
ぱっとディーの表情が明るくなる。
「それなら、僕が貴方の夫候補ということで、問題無いな」
「えっ? えぇ……、でも、貴方はいいの?」
「ありがたいことこの上ない。僕は貴方に、恋をしているから」
ルーナは、ぎょっとした後で顔を真っ赤にした。
ディーは、とろけそうな甘い笑顔で、ルーナを抱き上げた。
「よかった。これで僕達の間にはなんの問題も無くなった。もう、この部屋にいる必要も無い。さっそく母上に紹介しよう」
「え? ちょっと、待って……!」
「待たない。……貴方は危険にさらされているんだろう? しかも、この部屋は一度くせ者の侵入を許している。そんな所に、僕の大切な姫は、一秒たりとも置いておけない」
「…………まさか、守ってくれるの?」
ルーナが半信半疑で問いかけると、珍しくディーはムッとした。
「なぜ疑問系なんだ? 何をおいても、貴方を守るに決まっている。……だから、もう一人で無理をしないでほしい。辛ければ辛いと、僕に教えてくれ。この両腕、いつでも貴方のために使おう」
ディーはいつになく饒舌だ。
こんなにもよく喋る人だっただろうかとルーナは、赤面した顔を伏せる。
けれど、不思議と安堵感を抱いた。
この人なら、大丈夫だとルーナの臆病な少女の心が笑っている。
(結局……私は、この人に惹かれていたのね)
遠ざけなかったのも、傍に居るのを許容したのも、きっと一目見たあの瞬間に、心を奪われていたからだ。太陽のように明るく柔らかな、この若者に。
ルーナは、始めて安堵を覚えた。