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夏と孤独と幽霊と。

作者: 霧央椿

 ここはどこだろう。

 

 気づいたら真っ白な世界にぽつんと一人で立っていた。

 そのまま立っててもしょうがないので試しに歩いてみた。しばらく歩いても何もない。ただ真っ白な空間が続いているだけ。

 その内疲れてきてその場に座り込んだ。地べたに座るのは多少抵抗があるが、見たところ汚れているようでもないし、別にいいか。

「はぁ…」

 一つ大きな溜息を吐く。ここに来る前は何をしていたっけ。それすらも思い出せない。

 膝を抱えうずくまる。これからどうしたらいいんだろう…ずっと一生このままなのかな。

 なんだか眠くなってきた。あ、そうだ!

 ある考えが頭に浮かんではっと顔を上げる。これは夢だ。絶対そうだ。そうじゃないと意味が分からないもん、この状況。

 よし、このまま寝て現実世界の自分が起きるまで過ごそう。そうしよう。

 そう思ったら気が楽になってきて、余計に眠くなってきた。そのまま仰向けに寝ころぶ。天井も真っ白で、ずっと見ていたら吸い込まれそうだ。目を閉じてごろんと横向きになった。

 うとうとと意識を手放しそうになったとき、何か地鳴りのような音がするのを感じた。

 ゆっくり目を開け、私はびっくりして飛び起きた。白い空間が、じわじわと黒い靄のようなものに浸食されてこちらに向かってくるのだ。

 立ち上がり、思わず走り逃げる。あの靄が何なのかは分からないが、本能があれは危険だと警鐘をがんがんと鳴らしていた。

 必死に走り続けるが、やっぱり出口はどこにもない。ふと振り返ると靄の浸食するスピードは徐々に上がっていた。

 焦りながら足を動かす。喉がひりつき、息が苦しい。

 一瞬、深く息を吸い込むと同時に足がもつれて派手に転んだ。それを知ってか知らずか、浸食の速度がどんどんと上がっていく。

 立ち上がる前に靄が足から順に覆って行く。恐怖からか、動けなくなってあっという間に全身を飲み込まれた。

 意識を失う直前に私が見えた物は、一寸先も見えない闇だった。



「……っ!」

 がくんと頭が重力に従い頬杖をついていた手のひらからずり落ちた。

「じゃあ、今日はここまで」

 遠くの方で教授が教科書を閉じて教室から出ていくのが見える。それと同時に生徒たちも次々と立ち上がる。あちこちで、帰りにどこ寄るかとか、バイトがどうとかいう会話が聞こえる。

「……ふぅ」

 少し荒かった呼吸がなんとか整い、私も広げたままのノートや筆記用具を片付けて立ち上がった。

 今日はもう授業はない。このまま帰ろう。

 心なしか行きより重くなったような気がする鞄を手にして、私は一番最後に教室を後にした。



 暑い。

 照りつけるような日差しの中、私は鞄の中からハンカチを取り出して流れる汗を拭った。

 今日一日、今年一番の暑さになるでしょう、と声がしたので見上げて見れば、ビルに取り付けられたテレビからアナウンサーが涼しい顔で今日の天気を伝えていた。

 まだ自宅まで十数分ある。どこか自販機か何かないかな。

 そう思い辺りを見回すが、何処にも自販機もコンビニも見当たらない。いつも通っている道なのに暑さで記憶力まで退化してしまったか。

 しょうがない。家まで我慢するか。

 肩からずり落ちそうになる鞄を持ち直した時、「千夏(ちなつ)~!」と聞きなれた声がした。振り返ると同時に、勢いよく抱き着かれて思わず「ぐえっ」と蛙が潰れたような声が出てしまった。

「千夏、なんで先に帰るの! せっかく今日早く終わったんだから誘ってくれても良かったじゃん!」

静那(せいな)ちゃん……」

 見れば高校からの友人の花房 静那が不貞腐れた表情でこっちを見ていた。

「ごめん……」

それ以外の言葉が見つからず、ついそう口にしてしまった。静那ちゃんは一瞬で笑顔になり、私の肩を叩いた。

「なぁに本気にしてるのよ! ねぇ、この後予定なかったらスタバ行かない? 新作気になってるんだ」

「いいよ」

 いつも通り明るい静那ちゃんにほっとして、再び歩き出す。しばらくして、後ろのほうから「しず~!」と数人の声が聞こえて私たちは振り返った。

「しずなー、明日学校終わったらカラオケ行かない?」

 数メートル離れたところから叫ぶ女の子へ向かって、静那ちゃんも負けじと叫んだ。

「だから『しずな』じゃなくて、『せいな』だってば! いいよー、また明日連絡するね!」

 そのやり取りを聞いて、私はなんとなく居たたまれない気持ちになった。自分がここにいてはいけないような、なんだか妙な感情。

 明るくて人懐っこい静那ちゃんは昔から友達が多い。対して私は引っ込み思案で、静那ちゃん以外に友達と言える存在はいなかった。

 多分、静那ちゃんは私が居なくても大丈夫だろうな……。

 そんなことを思いながら、自然と静那ちゃんから少し離れたところまで歩いてしまっていた。

 その時だった。「きゃー!」とけたたましい声が響き渡ったのは。

「え……?」

 声のする方を振り返ると歩道に突っ込んでくる白い車。真っ直ぐ私の方へ向かってくる。

「千夏!」

 静那ちゃんの悲鳴のような叫び声を最後に、私は一瞬意識を失った。



「……なつ! 千夏!」

 遠くの方で声がして、私ははっと我に返った。見れば静那ちゃんが不思議そうに私を見ている。

「千夏、どうしたの? ぼーっとして。暑さにやられた?」

 心配そうに問う静那ちゃんに、私はううん、大丈夫とだけ答えた。

 辺りを見回してもさっき突っ込んできた車はどこにもない。何事もなくみんな日常を過ごしていた。

 さっきのは、一体……?

「きっと水分不足なんだよ。早く行こう」

 いつまでも動こうとしない私の手を、静那ちゃんが引いて歩き出した。

 日差しがまだ照りつけているせいか、私の手はじんわりと汗ばんでいた。



 夕方六時頃、静那ちゃんと別れた私は自宅であるアパートの階段を上がっていった。

大学生になってから借りたワンルームの古い小さなアパートだ。別に実家から通えない距離ではなかったけど、家族とはいえ、あまり人と生活が好きじゃなかった私は一人暮らしを選んだ。

 鞄の中から鍵を取り出し、差し入れて回す。軽快な音を立てて鍵が開く。

「ただいま」

 中に入って下駄箱の上に無動作に鍵を置く。中には誰もいないと分かってはいたけれど、つい口に出してしまっていた。

「おかえり」

 返ってくるはずのない返事が返って来て、思わず靴を脱ぐ手を止めた。今確かに「おかえり」って聞こえたような……。

 なるべく音を立てないように靴を脱ぐ。玄関に置いてあるビニール傘を手に取り、武器替わりに構えながらそろりそろりと中へ入る。

 いつもキッチンとワンルームの間にある扉は閉めてある。玄関に入るときに声を出したから意味がないと思いつつも、なるべく音を立てないように扉に近づいて耳を澄ます。

 中からは特に目立った音は聞こえないものの、何故か時折パリッと乾いた音が聞こえた。

 一度深呼吸して勢いよくドアを開ける。傘を構えて部屋の中に向かって叫んだ。

「だ、誰ですか!? 警察呼びますよ!」

 怖くて前を見れず、構えた傘も心なしか下を向いていた。その傘の先も自分で見て分かるほど震えていた。

「久しぶり、蓮見(はすみ)さん」

 聞いたことあるような声に恐る恐る顔を上げて正面を見ると、一人掛けの座椅子に座った男が柔らかく微笑んでこっちを見ていた。

葛西(かさい)先輩……?」

 その笑顔を見た途端私は気が抜けてしまい、気付いたら手から傘が滑り落ちていた。



「どうぞ」

「ありがとう」

 私は葛西先輩の前に温かいお茶を出して向かいに座った。部屋に入るときに大分緊張していたのだろう。点けたばかりのエアコンの風が気持ちいい。

 そんな中淹れたばかりの熱い緑茶を美味しそうに葛西先輩はすすった。何もこんな暑い日に、と思って冷たい麦茶もありますよ、と声をかけたがそれでも本人が熱い方を希望するのだから仕方ない。

 自分用に注いだ麦茶を一気に飲み干して、私は先輩に尋ねた。

「それで、後輩の家に不法侵入してまで来た理由って何ですか?」

 ビクビクしていたのを見られたという腹いせも込めて少し先輩を睨む。

「やだなぁ、不法侵入だなんて人聞きが悪いよ、蓮見さん」

 湯呑から口を話して先輩はへらへらと笑った。

「いや、普通家主の許可なく勝手に入ったら不法侵入扱いになるでしょう」

 先輩の態度を見て、中学の頃から変わってないな、と内心溜息を吐いた。

 他人の部屋の真ん中を独占しているこの男、葛西 正志(まさし)との出会いは、私が中学二年生の頃まで遡る。



 今から数年前、私が中学二年生の頃。当時は今以上に友達も居なく、お昼の時間の弁当は一人で食べていた。

 でも賑わっている教室の中一人で食べる勇気のない私は、弁当を持ってさも他のクラスの友達と食べる振りをして教室を後にしていた。

 いつも私がお昼を食べる場所は決まっていた。屋上に出る扉前の階段だ。そこに座って弁当を広げるのが私の日課だった。

 その日までは。

 ある日いつも通り階段に座り込んで弁当の蓋を開けようとしたとき、誰かが階段を登ってきた。何故か私は焦って、弁当箱を鞄に入れて屋上へと出て物陰に隠れた。

足音の数から察するに、上がってきたのはどうやら一人らしい。その人物はためらいもなく屋上へ入ってくる。

 私、何やってるんだろう……。

 内心、溜息をつく。この人目を気にしてコソコソする癖、なんとかしたい。

 でも今更どうしようもないじゃん、これが私なんだし。と、もう一人の自分は開き直ったように言う。

 でもこのままじゃ……。

「おや、珍しいね。こんな所に人がいるなんて」

 私が一人心の中で葛藤している間に、その人は目の前に来てそう声をかけた。

 その人こそが、葛西先輩だった。

「あの……」

 私は思わず鞄を落としそうになって持っていた手に力を込めた。

 学年別に違う室内スリッパを見る限り、二つ上の学年のようだった。綺麗に整えられた黒髪に日焼けをしたことないのではないかと思うくらいに白い肌がよく映えていた。

「俺、あっちで食べてるから。じゃあごゆっくりね」

 私が何かいう間も与えず、先輩は歩き出した。二、三歩歩いて何かに気付いたように「あ」と声を上げた。その場で立ち止まり、ポケットの中を漁って「はい」と手を差し出した。手のひらの上には一つのイチゴの絵が載った飴の袋が乗っていた。

「もし良かったらどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 柔らかな声に私は思わず素直に受け取ってしまった。先輩はそのままフェンスの方に歩いて行って座り込んだ。そして鞄の中から大きな包みを取り出して広げた。細い身体に見合わず結構食べるんだな、と内心呟いた。

 しばらく私は飴を眺めてその場に立っていたが、お腹が空いているのを思い出して扉の向こうの階段に戻った。



 それから数日間、その先輩は毎日現れた。私が入学して一か月間経ってから屋上に来始めた理由は分からないが、私が階段で食べてると「こんにちは」と必ず笑って挨拶を残して屋上へ消えていった。外が雨の日は一つ下の踊り場で黙々と食べている。その時も必ず挨拶は欠かさなかった。

 状況が変わったのは初めて二週間ほど経った頃だった。しばらく雨が続いた後の久しぶりに晴れた日のことだった。

「ねぇ、今日すっごく良い天気だよ。たまには外で食べてみない?」

 初対面以外で話しかけられたのはこれが最初だった。

「え……」

「せっかく晴れたのに、あんな暗いところで食べてたらもったいないよ。明るいところで食べたほうがもっと美味しいと思うな」

 彼のふんわりとした雰囲気と笑顔に、私は断り切れずについ「はい」と答えてしまった。彼の後に付いて行って扉の向こうの屋上に出ると、先輩の言う通りからっと晴れた青空が広がっていた。日差しもそこまで強くなく、風もそよ風程度で外で食べるには打ってつけの天候だった。

「ね? 気持ちいいでしょ。僕ここが学校の中で一番好きなんだ」

 知ったのは最近だけど、と先輩は付け加えて笑った。

「……はい」

 先輩はポケットに手を入れて私の方に差し出した。今日はパインアメだった。

「良かったらデザートにどうぞ」

「ありがとうございます」

 食後に食べたその飴は、その日の天候と一緒ですっきりとした味がした。



 その日を境に私と先輩はお昼を共にするようになった。ちなみに初めてその時に名前をお互い知った。

 何故か先輩は毎日のように飴を持ってきていた。毎日日替わりで味が変わっていた。

 同じ屋上でご飯を食べてはいたけど、特別に会話を交わしていたわけではなくお互い黙々と食事をするだけだった。

 一つ気になることと言えば、先輩は飴を口にしたらすぐにガリガリと音を立てて噛んでいることだった。

 そしてお弁当を食べて残り三十分しかない昼休みの間に、平均五個は袋を開けているのだ。

 どうしてもそのことが気になって、一度聞いたことがある。

「そんなに噛んで、歯が悪くなりませんか?」

 そう聞かれた先輩は、少し困ったような笑顔を見せて、歯切れ悪く答えた。

「んー、癖なんだよ。あまり気にしたことなかったけど、気をつけるよ」

 先輩はそう言いながら、先輩は本日六個目の袋を開けた。


 そして、あっという間に夏は来た。



 夏休み直前の七月のある日。四限目の終わりのチャイムが鳴り響き、私はいつも通り屋上へ行こうと教科書と筆記具を片付けて屋上へ上がる準備をしていた。

 そんな中、ふとクラスメイトの声が聞こえてくる。

蓮見(はすみ)さん、いっつも一人でどっかに行ってるよね」

「他のクラスにでも行ってるんじゃない?」

 ビクビクしながらちらりと声のした方を見やると、話していた二人は既に別の話題を交わしながら前後の机をつけてお昼を食べる準備をしていた。

 別に何を言われても私は平気だ。あの子たちと関わることもないだろうし。

 そう自分に言い聞かせて教室を後にする。胸の辺りがチクリと痛んだような気がするが、多分気のせいだろう。



 屋上への扉を開けると夏の鋭い日差しが差し込んできて、私はつい目を

細めた。今日はとても暑い。夏の制服は男女共に長袖と半袖があるが、今日は半袖を着てきて正解だった。

「蓮見さん、こんにちは」

 既に葛西先輩は屋上にいて、こちらをみると柔らかい笑みで迎え入れてくれた。いつもと変わらない先輩に、なんとなくほっとする。

「こんにちは、先輩」

 先輩に挨拶を返して少し距離を開けて座る。お弁当を広げていると視界の端にハンカチで汗を拭う先輩が映った。この暑い中、先輩は長袖のワイシャツを着ていた。それも袖まできっちりボタンを留めて。

「今日は暑いねぇ」

 そう言いつつ鞄を開ける先輩の額には早くも汗が滲んでいた。

「先輩、凄い汗ですよ。せめて袖捲ったらどうです?」

「ううん、大丈夫だよ」

 ありがとう、と口にして先輩はもう一度ハンカチを手にして汗を拭った。右の袖口から微かに青い染みのようなものが見えた気がして私はふと何気なく聞いた。

「先輩、手首のそれ痣ですか?」

大丈夫ですか、と続けようとした時先輩がギクリと目に見えて動揺したのが見てとれた。いつも微笑みの形から表情を崩さない先輩にしては珍しい。

「……大丈夫だよ。ちょっと転んで打っただけ」

 それ以上上がらないだろう袖を一生懸命引っ張りながら先輩は私の方から目を逸らした。

 


 それ以降は特に変わったやり取りもなく、半年過ぎて先輩は卒業した。連絡先も聞いてなかったから卒業後のことは分からなかった。

 二年後私も中学を卒業し、高校で先輩との再会は果たせなかったものの、静那ちゃんと出会うこととなる。



「それで、どうしてここに来たんですか?」

 私は麦茶を一気に飲み干して目の前にいる先輩に聞いた。

「先輩とは卒業式以来会ってないですよね?」

 先輩は、お茶を美味しそうに啜ってにっこり笑った。

「うん、今日は久しぶりに蓮見さんに会いにきたんだ」

 先輩はどこか寂しそうな顔で笑い、湯呑をゆっくりと置いた。

「実は蓮見さんと話す必要があって」

「私と?」

 先輩はうん、と深く頷いた。

「それで、実は僕もう死んでるみたいなんだ」

 それはあまりにも衝撃的な発言で、素直に受け止めるにはあまりに重すぎて。

「だから、蓮見さんを説得しに来たんだ」

 この人は何を言っているのだろうか。そう思う私をよそに先輩は結論から言うね、と続けた。

「まだ、蓮見さんはこっちに来てはいけないよ」

 それはとても理解しがたい一言だった。

「こっちに来ちゃいけないって一体どういう……」

 一体先輩が何を言ってるのか理解が出来ない。先輩がもう死んでいる?私がこっちに来ちゃいけないってどういうこと?色々いきなりすぎて意味が分からない。

 先輩の顔から笑顔が消えている。どうやらふざけているわけではないらしい。

「最初から説明して下さい。先輩は何故亡くなったのですか?」

 先輩はちょっと困った顔をしてたが、そうだよね、説明は必要だね、と自分に言い聞かせるように呟いた。

「僕、中学卒業後はそのまま高校行かずに就職したんだ。うち、母親を早くに亡くして父親と二人だったんだ。元々ギャンブルとお酒が好きな人だったんだけど、母親が亡くなってからは益々ひどくなって。俺が高校行きたいってある日話したら酷く殴られてさ」

 先輩はいつもの穏やかな表情とは一変して、右腕を擦りながら硬い表情で話し始めた。

「それで中学卒業して就職したんだ。それと同時に父さんが仕事辞めちゃって。俺一人で生活していくには全然足りなくて、ダブルワークするしかなくて」

 それで過労で倒れてぽっくり逝っちゃったみたい、とそこで先輩はやっと笑った。

「どうして蓮見さんが泣くの」

 何処か寂しそうに笑う先輩にそう言われて、初めて自分の目から涙が零れ落ちているのに気付いた。

「どうしてだろう……」

 袖口で涙を拭いながら私は呟いた。先輩の境遇に同情したわけでもなければ、先輩が死んだ事実を知って悲しいと思って泣いた訳でもない。いや、全く悲しくないと言ったら嘘になるけど、悲しみよりも驚きの方がまだ勝っているので実感がないのだ。

 涙はそれ以上流れることはなかった。

「大変でしたね」

「いや、それなりに楽しかったよ」

「楽しかった……?」

 私はまた涙が滲むのを感じながら先輩に問うた。

「うん。なんか上手く言えないけどさ。なんか嫌なことばかりじゃなかった気がする」

 そう口にする先輩は強がっている様には見えず、本心からそう言っているように見えた。

「そうですか……」

 なんとなくほっとして、私も先輩につられて薄い笑みを浮かべた。

「蓮見さんはどう?」

 不意に先輩に尋ねられて、私はえっ、と先輩の目を見た。

「どうって……」

「今、楽しい?」

 真っ直ぐこちらを見る先輩の目を見つめていると何もかも見透かされそうで、怖くて私は目を逸らした。

「まぁ、それなりには……。大学にも行けてますし……」

 私の答えを聞いた先輩が軽く息を吐いて、続けた。

「聞き方を変えるね。本当に今死んでしまっても後悔はない?」

 その先輩の言葉を聞いた瞬間、私は全てを思い出した。



「きゃーっ!」

 けたたましい悲鳴が聞こえ、振り向くと白い車がこちらに向かって突っ込んでくるのが見える。

 次の瞬間、鈍い痛みと共に目の前が真っ暗になる。

「おい、誰か救急車呼べ!」

「千夏!…な…つ!」

 喧噪の中、静那ちゃんが私の名前を呼ぶ声が段々と遠のいていく。私はここで死ぬんだな、と何故かほっとした心持ちでゆっくりと意識を手放した。



「思い出しました。あの時私死んだんですね」

 ふっ、と自嘲じみた笑みが零れた。

「ということはここはあの世って所ですか?」

 私の思惑とは裏腹に先輩は静かに首を横に振った。

「ううん、ここはあの世とこの世の境目の世界。蓮見さんはまだ死んでいないんだよ」

 先輩の言葉を私は何故かすんなり受け入れられて「そっか」とだけ口にした。

「さっきの質問の答えですが」

 私の目の前に置かれたグラスの中の氷がカランと音を立てた。

「私は今死んだとしても未練はありません。なので、先輩について行きます」

「それは出来ないよ」

「なんでですか!」

 先輩の言葉に私はつい大きな声を出してしまった。

「私、自分が嫌いなんです。だから早く自分自身とお別れしたいんです」

私の発言にも先輩は動じることなく冷静に次の言葉を口にした。

「どうして?」

「人付き合いも苦手だし、生きている意味が分からないんです。それなら早く終わらせてしまいたいです」

 それに、と私は更に続ける。

「私が犠牲になることで、他の誰かが傷つかないのならそれが一番じゃないですか?」

 先輩はしばらく黙って私の話を聞いていたけど、やがてゆっくり口を開いた。

「生きる意味なんて、分からなくてもいいんじゃない?」

「……?」

「それも答えの内の一つだと思うな、生きる意味の」

 どういうことだろう。

「ちょっと、何言ってるか分からないんですけど」

「生きるのに意味なんて分かってても分からないまま生きていくもいいと、僕は思うな。生きてること自体に意味はあると思うけど。……うーんごめん、やっぱり上手く言えないや」

 先輩はそこまでいうとふにゃっと笑った。先輩の言うことはやっぱりよく分からなかった。

「でも、やっぱり私、自分が好きになれそうにないです。被害妄想強いし、どうしてもうじうじしちゃうし」

 私の言葉に、先輩は少し考えて、なにか聞こえたように窓の向こうを見た。つられて私もそちらをみるが、何もない真っ暗な闇が窓の向こうに広がっているだけだった。

「自分を大事にしろ、なんて僕は言えないけどさ。自分のことを大事にしてくれる人の、大事にしているものをないがしろにいてはいけないよ」

 窓の向こうを見たまま話す先輩の言葉の意味を考えている間もなく、先輩はあ、と声を上げた。

「もう迎えに来たみたいだね」

「迎え?」

 怪訝な顔をして私も窓の向こうを見た。暗闇の向こうに一点の光が灯っていた。

「じゃあね、蓮見さん。元気でね。まだ当分来ちゃだめだよ」

 光は、徐々に大きくなりあっという間に部屋まで侵入してきた。強い光に私たち二人も飲み込まれる。

 最後に見た先輩の顔は静かに、いつもの微笑みを浮かべていた。



「……」

 光が収まり、気が付くと私は何処かで寝ているようだった。

 あぁ、起きたくない。起きてしまえば現実に戻らなきゃいけない。

 ―――大丈夫だよ。

 どこからか、先輩の声がしたような気がする。

 ―――ほら、蓮見さんのこと大事にしてくれる人が、すぐ近くにいるじゃない。

 ふと左手の温かい感触に気が付いて、私はゆっくりと目を開けた。ずっと目を閉じていたせいか、眩しくて思わず眉根を寄せた。

「千夏……?」

 私の左手を握っていたのは静那ちゃんだった。

「せ……な……ちゃ……」

どれくらい眠っていたのだろう。彼女の名前を呼ぼうとしたが掠れて上手く声を出すことが出来なかった。

「良かった……!今すぐ看護師さん呼ぶから!」

 静那ちゃんはポロポロと涙を零しながら左手を握ったままナースコールを押した。

 私は小さく頷いて、弱弱しく手を握り返すことしか出来なかった。



 静那ちゃんの話だと、私はあの時歩道に乗り上げた車に撥ねられて三日間意識不明の状態だったらしい。両親も毎日病院に来ていて、私が目を覚ましたときはたまたま席を外していたみたいだった。

 どうやら私以外に怪我人はおらず、運転手も私を撥ねた後電柱にぶつかって停止したらしいが命に別条はないらしい。

 とりあえずは良かったと、ほっと胸を撫でおろす。

 私が目を覚ましてから一週間後、リハビリが始まった。正直上手くいかないし、投げ出したかったけど何か一つでも出来ると、親も静那ちゃんも喜んでくれたのでもう少し頑張るかという気になれた。

 そして、事故から一か月半。退院の日がやってきた。

「千夏、退院おめでとう!」

 受付で両親と退院の手続きをしていると、大きな花束を持った静那ちゃんが入ってきた。

「ありがとう、静那ちゃん」

 静那ちゃんから花束を受け取るといい香りが鼻をついた。

「他に欲しいものある?」

 今日はお祝いだからなんでも買ってあげる! と意気込む静那ちゃんに私は「えー、もう充分だよー」と返す。

 外に出ると暑いながらも穏やかな風が吹いて心地が良かった。なんとなく、初めて先輩と屋上に出た日のことを思い出した。

「飴……」

 私はポツリと呟いた。

「飴?」

「うん、何だかパインアメが食べたいな」

 私は青空を仰いで静那ちゃんにそう言った。きっと、あの日と同じすっきりとした気分になるに違いない。



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― 新着の感想 ―
全体を通して、小さな温かさが人を救う、とても優しい物語であるように思えました。 主人公の千夏にとって、葛西先輩は昼食時の孤独をさり気なく埋めてくれた隣人のような存在に思えます。そんな彼が数年後に気負い…
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