美女は、いつまで許される?
「エヴァ・グリーン!貴様との婚約を破棄する!」
王宮の一角、王太子の婚約者に用意された私室へと踏み込んだフラウト・ジェネヴァは、開口一番にそう告げた。
フラウトは、蔑むような眼差しを婚約者であるエヴァへと向け、睨みつけ……たのだが、エヴァは動じる様子もなく、優雅に紅茶を傾けている。
「エヴァ・グリーン!貴様との婚約を破棄す……」
「フラウト殿下、聞こえていましてよ」
ふう、と溜め息をつきながら、エヴァはフラウトの二度目の婚約破棄宣言を遮る。
まるで緊張感のない仕草であったが、わずかに愁いを帯びた表情は、そんな事さえ気にならないほどに麗しい。
「いちおう、お伺いいたしましょう。婚約破棄の理由は何でしょうか?」
「……理由、だと?」
そんなエヴァに対して、フラウトはぴきりとこめかみに青筋を立てる。
「……それを答える前に、僕からも問おう。君の話せる外国語は?」
フラウトの質問に対し、エヴァは……僅かに口角を上げ、淑女の手本のような気品漂う笑みを浮かべた。
「私が口にするのは、生涯ジェネヴァ語のみですわ」
「『私が口にするのは』ではなく『私が話せるのは』の間違いだろうっ!」
激昂するフラウトに、エヴァは気怠げに溜め息を吐いた。
無駄に美しい所作に、フラウトの神経はさらに逆撫でされる。
「……そんなもの、通訳に任せれば宜しいでしょうに」
「王太子妃として、外国語は必須教育の一つのはずだが……!?」
「そもそも、外交に同行する通訳は、一つの外国語を極めたプロフェッショナルなのです。私が複数の言語を習得したとして、彼らには到底知識で勝てるはずもございません」
「くっ……!それらしい理屈を捏ねおって……!」
余裕たっぷりのエヴァに、フラウトはその場で地団駄を踏む。
彼は、冷静沈着で頭がキレるという評判なのだが、この婚約者の前ではいつも調子を狂わされていた。
「大体っ、その取り巻きはなんなんだ!」
ひとしきり地団駄を踏み、落ち着きを取り戻したフラウトは、エヴァの背後をびしりと指差す。
そこには、王宮の侍女だけではなく、十人前後の男女が、エヴァを取り囲むようにして並んでいた。
今まさにその一人が切り分けてくれた、新鮮な果物を口に入れながら、エヴァが驚いたように目を見開く。
「フラウト殿下……まさか、私の背後に誰か見えるのですか?」
「余計な小芝居はせんでいいっ!」
どこの世界に、取り憑いている人間に果物を切り分けたり、扇で煽いでやる幽霊がいるというのか。
フラウトは苛立ちから、乱暴に髪を掻きむしる。最近、このせいで十円ハゲが出来たのだが、今はそんな事はどうでも良い。
フラウトは顔を上げると、取り巻きの中の一人を見咎める。
「宰相!貴様、仕事はどうした!」
フラウトが糾弾すれば、澄ました顔でエヴァの足を揉んでいた宰相が、すっと立ち上がる。
「私の裁決が必要な仕事は、既に終えております」
「だからと言って、何故お前が僕の婚約者の足を揉んでいるんだ!?」
「私は、国家、引いては王家に忠誠を誓った臣下なのですよ。未来の国母の健康を気遣うことに、何か不都合でも?」
当然のように宣った宰相は、議論は終わりとばかりに、エヴァの足ツボマッサージを再開する。
よく見れば、取り巻きの中には女官長、辣腕で知られる辺境伯に、隣国から留学中の皇女までもがいた。
それだけではない。
各界の重要人物たちが、揃ってエヴァの取り巻きとなっているのである。
フラウトは、その場に崩れ落ち、がっくりと肩を落とした。
「何故だ……。皆、僕が茶会に誘っても来ないくせに……っ!揃いも揃って、エヴァのところに……っ!」
「元気をお出しになって下さいまし、フラウト殿下」
「やかましいっ、美貌くらいしか取り柄がないくせに!」
フラウトは、涙目になりながら自分の婚約者を見遣る。
純金よりも眩い輝きを放つ、金の髪。
髪と同じく金色の睫毛に縁取られ、翡翠を嵌め込んだような瞳は、目が合った人間に呼吸すら忘れさせ、連日医務室のベッドをパンクさせている。
ふっくらと滑らかな肌、ほんのりと淡く色づいた頬、艶やかな紅い唇は、宮廷画家が肖像画を描こうとして、再現できる絵の具が無いと顔料探しの旅に出てしまったほどである。
正面から見ても、横から見ても、斜めから見ても、どの角度から見ても黄金比で配置されたパーツ、そしてそのどれもが究極に美しい顔は、たしかに絶世の美女と言っても良いだろう。
「僕だって……っ、僕だって容姿は整っているほうだというのに……!」
事実、彼は文句のつけようがないほどの美青年だった。
しかし、悲しいかな、無類の美しさを誇るエヴァの隣では添え物くらいにしかならず、存在が霞んでしまうのである。
「フラウト殿下は十分素敵ですわ、自信をお持ちになって下さいまし」
自信を喪失させている最大の原因が、励ますようにフラウトの肩を叩く。
その眼差しは、さながら聖母のように慈愛に満ちており、取り巻き達がエヴァを拝み始める。
「エヴァ様、慈悲深い……」
「もう、これだけで一週間は生きていけますわ」
「呼吸してくれるだけで天才」
肌艶の良くなった取り巻き達とは対照的に、フラウトの心はさらに荒んだ。
王太子として生を受け、その期待に応えるべく、これまでフラウトは剣術の稽古に勉学にと励んできた。
それなのに、チヤホヤされるのは、いつもエヴァの方なのである。
「だいたい、王太子は僕であって、エヴァは僕の婚約者でしかないのにっ……」
やさぐれたフラウトは、足元の絨毯の毛をいじり始める。
最近、王宮内の絨毯の毛抜けが激しいと侍従長がぼやいていたが、そんなことは知ったことではない。
「そういえば……殿下、エヴァ様は名門であるグリーン侯爵家の令嬢なのですよ。顔だけしか取り柄がないなどという事はないと思うのですが」
他の取り巻きたちとエヴァを讃えていた宰相が、ふと気づいたようにフラウトを振り返る。
足元の絨毯の毛を毟っていたフラウトは、のっそりと顔を上げ、宰相の疑問に答えた。
「……今は、な。エヴァの容姿に目をつけた侯爵が幼いうちに養子にしただけで、元は子爵家の生まれだ」
生気のない瞳でフラウトが明かせば、取り巻きたちは再び色めき立った。
「さすがは侯爵閣下、心眼がおありですな」
「幼いエヴァ様、ひと目拝見したかった……!」
「わたくし、これからは侯爵閣下を心の父と呼びますわ」
その盛り上がりぶりたるや、フラウトの立太子式など比べ物にならない。何なら、フラウトの立太子自体がそれほど目出度いことではなかったのでは、と思えるほどである。
……もうやだ、この国。
フラウトが本気で出奔を考え始めた、その時だった。
「エヴァちゃん、遊びに来ましたよー!」
上機嫌な声とともに、勢い良く扉が開かれる。
そこに立っていたのは、フラウトにとって、これ以上ないほどに見慣れた顔だった。
「父上!は、母上まで!?」
フラウトの両親、つまりはジェネヴァ王国の国王カンフォートと王妃コラーナの姿が、そこにはあった。
多忙なはずの国王と王妃が何故、とフラウトが疑問に思う間もなく、取り巻き達が恭しく礼を執る。
「お疲れ様です、会長」
「本日も御機嫌麗しゅう、副会長」
「……ん?」
会長、そして副会長とは、何のことだろうか?
王妃であるコラーナは、国王たるカンフォートを補佐する立場であり、有事の際には摂政となる存在でもある。
だから、カンフォートが会長ならば、コラーナを副会長と呼ぶのも妥当かもしれない。
だが、そもそも何の会の会長なのか。
クエスチョンマークで脳内を埋め尽くされたフラウトの肩を、宰相がぽんと叩く。
「両陛下は『エヴァたんを愛でる会』の会長と副会長を務めていらっしゃいます。推しへの愛と資金力で他の追随を許さない、不動のツートップですよ」
「え、エヴァたんを愛でる会……?推し……?」
さらに追加された理解不能な単語に、フラウトの頭脳はショート寸前だ。
そんなフラウトに気づいたカンフォートは、威厳のある面持ちに微かな呆れと失望を滲ませ、溜め息を吐く。
「……フラウト。お前には、以前にも話したであろう」
怒りすら感じさせるカンフォートの様子に、フラウトの顔から血の気が引いていく。
(僕は、気づかぬうちに取り返しのつかない失態を犯していたというのか……?)
ここ最近の自分の行動を、脳内で必死に反芻するフラウトに対して、カンフォートは言葉を続けた。
「周知の通り、我がジェネヴァ王国は、性別に関係なく王位継承権が与えられる」
もちろん、王太子であるフラウトは、その法律について、誰よりも詳しく知っている。
(この状況と王位継承に関する法律とに、何か関係があるのか……?)
ひやり、とフラウトの背筋を冷たい汗がつたう。
だが、緊張する彼の耳に届いたのは、予想外の言葉だった。
「また、ここ数十年は近隣諸国にも大きな動きはなく、治世も安定している。……だからこそ、我々は、可愛らしい娘を欲していた」
「……すみません、もう一度仰っていただけないでしょうか。特に後半のほうを」
「我々は、可愛らしい娘を欲していた」
再び、同じ言葉が繰り返される。
聞き間違いではなかったことを確認して、フラウトは今度こそ頭を抱えた。
「だが、実際に生まれてみれば……長子であるであるフラウトを筆頭として、アナナス、バナーン、ペアジックと息子ばかり……」
カンフォートが、深い溜め息とともに嘆く。
その表情は、先代から仕えていた侍従の不正が発覚した時よりも、なお暗く沈んでいた。
「私たちは、ただ可愛い娘が欲しかっただけなのに……」
カンフォートの隣では、コラーナがこの世の終わりのような表情を浮かべ、崩れ落ちていた。
王家に反旗を翻そうとした逆賊に捕らえられながらも、冷静に投降するよう諭し、改心させた人物とは思えないほどの狼狽ぶりである。
「……状況は、絶望的であった」
さらりと自分が生まれたことを絶望と表現され、フラウトは少なからず傷ついた。
だが、コラーナとカンフォートは息子など眼中にないらしく、互いに手を取り合い、二人の世界に浸っている。
「だが……エヴァがデビュタントをした舞踏会で、我々に天啓が舞い降りたのだ」
カンフォートが、目を見開く。
先程までの生気のない表情が嘘のように、その瞳は希望に輝いている。
「そう、可愛い実娘がいないなら、可愛い義理の娘を迎えれば良いのよ!」
コラーナが、勢い良く立ち上がった。
こちらも、終末を思わせる表情からは打って変わり、その表情は歓喜に満ち溢れている。
「目から鱗、とは正にこのこと。我々は可愛らしい娘を欲していながら、義理の娘という選択肢を見落としていたのだ」
「ええ……。もう、このまま一生、むさ苦しい息子たちの相手をするしかないのだとばかり……」
カンフォートは深く安堵のため息を吐き、コラーナに至ってはうっすらと涙を浮かべてさえいる。
だが、面と向かって、実の両親に真っ向から存在を否定されている、むさ苦しい息子の立場はどうなるというのか。
フラウトのそんな葛藤をよそに、コラーナは弾んだ声でエヴァに話しかけている。
「エヴァちゃん、また一緒にお揃いのドレスを着ましょうね」
「あ、ずるいぞ。余もお揃いがいい!」
「では、また職人を呼んで、三人で相談いたしましょう」
「うむ。今度は、ドラウヴン公国から生地を取り寄せるとするか」
「アラクネの糸を織り込んだという、最高級品ですわね。きっと、エヴァちゃんに良く似合いましてよ」
その様子を見たフラウトの脳裏に、今年度の予算書の数字が過ぎる。
「まさか、最近王室の被服費が嵩んでいるのは……」
それまでは慎ましかった被服費の項目は、例年の三倍にまで増額されていた。
高級な素材を使用した大量の注文書に、泡を吹いたことは記憶に新しい。
「だって、エヴァちゃんとお揃いのドレスが欲しかったのだもの」
「愛娘に着せるドレスは、やはり最高級の生地で仕立てなければな」
カンフォートとコラーナの表情は満足げで、そこには微塵の疑問も浮かんでいない。
これ以上の議論は無駄だと悟ったフラウトは、宰相に矛先を向けた。
「宰相、なぜ止めないのだ!」
「どこに諌めるべき要素があるのですか?エヴァ様は我が国の至宝、もはや国宝指定も時間の問題です」
「国民の血税を遊興費に充てようというのか!?」
「御心配なく。増額された被服費の予算の補填のため、徹底的に無駄を無くし、コストカットを行いましたので、国民への負担はございません」
「そのコストカットのせいで、僕の部屋のカーテンレールは修理されないままなんだが!?」
増額された被服費の予算と反比例するかのように、王太子であるフラウトに支給される予算は、大幅にカットされていた。
おかげで、半年前に壊れたカーテンのレールが修理されず、燦々と差し込む朝日のせいで、毎朝五時には目が覚めている。
あれはこのせいだったのかと、フラウトは怒りに拳を握りしめた。
「くっ……!宰相のみならず、国王陛下や王妃殿下まで籠絡し、国費を貢がせるなど……やはり、君は王太子妃に相応しくない!婚約を破棄する!」
フラウトは、エヴァを指差し、高らかに宣言する。
それを神妙な面持ちで見ていたカンフォートとコラーナは嘆息し、目配せで頷き合う。
「それでは、仕方ないな」
「ええ……」
「フラウトを廃嫡とし、エヴァをアナナスの婚約者としよう」
「では、次期国王はアナナスに……」
「なっ……」
フラウトが、抗議の声を上げた瞬間だった。
再び、勢い良く扉が開かれる。
「エヴァたん、遊びに来たよー」
振り返れば、そこに立っていたのはフラウトの弟であり、第二王子のアナナスだった。
アナナスの姿を見たカンフォートは、ここぞとばかりに手招きをする。
「おお、アナナスよ。丁度良いところに来てくれた」
「かくかくしかじかで、貴方に王位を継承させたいのよ」
次期王位継承者を決める話を、かくかくしかじかで済ませていいのか。
フラウトの疑問をよそに、アナナスにはきちんと意味が伝わったらしく、珍しく新妙な面持ちで考え込んでいる。
「うわ、マジかー……。ぶっちゃけ王位はいらないけど、エヴァたんと結婚できるなら喜んで!」
「アナナス!?」
さらりと王位をおまけ扱いしながら、アナナスは明るい声で玉座に就くことを快諾する。
まさか、アナナスまでもが、エヴァの味方であったとは。
圧倒的に不利な形勢を悟ったフラウトは、必死に両親へと訴える。
「何故、そこまでエヴァを王太子妃にすることに拘るのですか!?アナナスは王太子教育をまともに受けていないのですよ!?」
「だって、王妃になったエヴァの晴れ姿が見たいし……なあ?」
「フラウト。貴方も良い年なのだから、聞き分けなさい」
カンフォートからはさもありなん、といった体で、コラーナに至っては窘められ、フラウトの憤りは限界点を突破した。
これまで、自分が必死に励んできた王太子教育とは、何だったのか。
「……所詮、美しさなど一時のものでしかないではないだろう……」
ぼそりと、フラウトが呟く。
その瞬間、それまで優雅にティータイムを楽しんでいたエヴァが、ピクリと眉を持ち上げた。
「美しさなど、いずれ衰え、失われるものになど、大した価値はないではないか……。王太子妃に必要なのは、貞淑さや教養のはずだ……」
フラウトが、よろめきながら立ち上がる。
そして、カンフォートとコラーナに向かい、叫ぶように訴えた。
「エヴァには、王太子妃たる資格などない!ブロンクス公爵令嬢のように慎み深い淑女や、ピカドール伯爵令嬢のような才女のほうが、エヴァなどより余程王太子妃に相応し……」
「フラウト殿下。そのお言葉、聞き捨てなりませんわ」
エヴァはフラウトの言葉を遮ると、ティーカップを置き、立ち上がる。
まっすぐに背筋を伸ばした立ち姿には凛とした迫力があり、計算された足運びはこの上なく優雅で、その場の誰もがエヴァに目を奪われてしまう。
「美しさは加齢によって失われる、たしかにそういった見方もあるかもしれません。しかし、それこそ、偏見に満ちているのではありませんか」
「へ、偏見だと?」
「若くなければ美しくない、そういった思い込みがあると申し上げているのです」
いつのまにかフラウトの目前まで迫っていたエヴァは、真っ直ぐにその目を見つめた。
至近距離で見る翡翠の瞳は思わず吸い込まれそうで、見慣れているはずのフラウトまでもが、鼓動が高鳴るのを抑えられない。
「そもそも、外見の美しさを一時のものと仰られましたが、その内面は不変であるとでも?」
それに、とエヴァは続ける。
「外見の美しさというものは、好みこそあれ、万人が等しく認識できるもの。しかし、人間の内面というものは、如何でしょうか。……例の物を」
エヴァが、パチンと指を鳴らす。
すると、いつの間にかエヴァの背後に控えていた宰相が、阿吽の呼吸で書類を差し出した。
もはや、完全にエヴァの忠実な下僕である。
「例えば、フラウト殿下がお名前を挙げられていた、ブロンクス公爵令嬢ですが」
すっ、とエヴァが数枚の書類を差し出す。
「フラウト殿下の前では慎ましく、親しみやすい令嬢を演じていらしたようですが……随分、それとは違う一面をお持ちのようですわね」
エヴァから受け取った書類に目を通せば、そこにはブロンクス公爵令嬢がカジノで豪遊した記録と、けして少なくない金額の借用書の写しがあった。
ぱくぱくと死にかけの金魚のように言葉を発せずにいるフラウトを、畳み掛けるようにエヴァが嘲笑う。
「ピカドール伯爵令嬢は、たしかに辣腕と言えるでしょう。これほどのスケジュール管理は、並の人間には出来ません」
エヴァは、冷たい眼差しで新たな書類を差し出しながら、鼻を鳴らす。
嗜虐的な表情は、怜悧な美貌を一層際立たせ、新たな境地に目覚めてしまったらしい宰相が「はうんっ!」と奇妙な声を上げている。
「フラウト殿下は、不特定多数の男性と関係を持つ女性が王太子妃に相応しいと、そうお考えなのでしょうか?」
フラウトの手にある書類には、ピカドール伯爵令嬢の行動記録がある。
そこには、両手の指の数では足りない逢引の相手、秘密裏に催される仮面舞踏会の常連であることまでが、詳細に記されていた。
「フラウト殿下。たしかに私は、美貌のみによって婚約者に選ばれました。……しかし、どんな才能も、使い方によって武器となるのです」
エヴァから手渡された資料の中には、ブロンクス公爵令嬢やピカドール伯爵令嬢だけでなく、フラウトの知らなかった機密情報がいくつも記されている。
再び崩れ落ちたフラウトを見下ろしながら、エヴァは最高の笑みを浮かべた。
「ここに宣言いたしましょう。私は、二十年後でも三十年後でも、この美貌だけで貴方の隣に立ち続けますわ」
***
婚約破棄の騒動から、数十年が経った。
結果として、エヴァは現在も王妃の地位にいる。
そして、国民からの支持率は、国王のフラウトを凌ぐ……というより、フラウトよりも高かった。
彼女は、自らが美しくあることに、どこまでも貪欲だった。
エヴァは、王太子妃となってすぐに、ドレスに使う新たな繊維を見つけたいと言い出した。
誰も見た事のない、誰も使った事のない糸で織られた布地が欲しいのだ、と。
そして、エヴァの鶴の一声によって、様々な研究機関への支援が行われ、新種の蚕が発見されたのである。さらに、エヴァは地方に伝わる染色技術に目をつけ、のちに王国の特産品となるネドアリア織を生み出した。
ネドアリア織は、それまでのどんな絹織物よりも繊細で滑らかな肌触りと、エヴァ自身が考案したエキゾチックな模様と鮮やかな染色が話題を呼び、世界中で一大ムーブメントを巻き起こした。
また、エヴァが香料を得るためにと、王家の直轄領で薔薇を育てるよう命じたことも、大きな経済効果を生み出した。
香り良く、美しい薔薇があちこちで咲き誇る庭園は観光名所となり、一目見ようと各国から見物客が訪れるようになったのである。
他にも、宝石採掘によって新種の鉱物を発見したり、クローゼットの整理と称して売却したドレスの売上を孤児院に寄付したりと、その活躍は多岐にわたった。
結果として、王国の国庫は大いに潤い、むこう数十年の財政は安泰であろうと言われている。
「エヴァ、今年も王国の貨幣には、君の肖像画が描かれることに決まったよ」
王妃の私室へと入り、フラウトは部屋の主に語りかけた。
かつて、この部屋で彼女に婚約破棄を言い渡した事もあったな、と遠い記憶を思い出す。
「ほら、この横顔なんて、君の完璧なヴィーナスラインをしっかり再現している。……ああ、でも、目元は全然ダメだな。実物の魅力を、まだまだ描ききれていない」
金貨の肖像画を、指でなぞりながらフラウトは語る。
最近は、だいぶ目も霞みやすくなってしまった。
「なあ、君もそう思うだろう?」
語りかけるが、返事はない。
そのことに寂しさを感じながらも、フラウトは努めて明るい声を出した。
「覚えているかい?」
かつての彼女を、脳裏に思い描く。
フラウトの偏見を指摘し、余裕たっぷりに笑った、あの時の彼女を。
「『私は、二十年後でも三十年後でも、この美貌だけで貴方の隣に立ち続けますわ』と、君は言っていたけれど」
フラウトは、横たわる彼女の髪を撫ぜる。
黄金のような煌めきは失われて久しいが、灰銀の落ち着いた髪色も、また彼女によく似合っている。
滑らかな肌には細かな皺が刻まれたが、それでも少女のように無垢で愛らしい顔つきは変わっていない。
安らかな表情は、まるで心地良い夢を見ているようだ。
「二十年や三十年どころか、五十年経っても君は美しいままで、国王である僕が霞むほど素晴らしい王妃だった。……美しさは武器、君の言う通りだったな」
かつて、自分をその美貌で翻弄し、宣戦布告をした婚約者は、息を引き取る瞬間まで美しかった。
その死に顔すら、見惚れてしまうほどに。
敗北宣言とともに、最期の口づけをして、フラウトは静かに棺を閉じた。
拙作をお読みいただき、ありがとうございます!
【登場人物紹介】
◯エヴァ・グリーン
子爵家に生まれ、その容姿だけで王太子の婚約者に選ばれた、絶世の美女。
自らの美貌を磨くことに心血を注いでおり、それ以外(婚約者であるフラウトを含めて)は、わりとどうでも良いと考えている。
また、己を美しく見せるためという理由からマナーは完璧で、発音や話し方、表情で相手に与える印象も完璧に把握しているという徹底ぶり。しかし、それは純粋に自らが美しくありたいと思うがためであり、他人を容姿で見下したり、嘲ったりという事はけしてしない。
◯フラウト・ジェネヴァ
ジェネヴァ王国の王太子。
当初、エヴァを「顔だけの女」と思っていたが、彼女の潔いまでに一貫した行動原理に、いつしか尊敬にも似た感情を抱くようになり、惹かれていった。
のちに『エヴァたんを愛でる会』の会員となり、二代目会長を引き継いでいるが、エヴァ本人はそのことを知らない。
◯カクトス・グリーン
本編未登場。
建国当初から王家に仕える名門、グリーン侯爵家の当主にして、エヴァの養父。
たまたま分家であるエヴァの生家を訪れ、兄姉と比べて可愛がられず、冷遇されていた末子のエヴァを見つけ、引き取る事にした。心優しく、養父としてエヴァに愛情を注いだ人格者だが、彼が溺愛したことによってエヴァは現在の性格になったとも言える。