振り返る猫
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
よーし、学年末テストの返却はこれで終了だ。
みんなどうだ? 思うような結果を得ることができたか?
この問いに自信をもってうなずける人は、そういないだろう。先生も学生時代には親の手に渡る前に処分したり、解答間違いをどうにか指摘して、点数をちょっとでもあげようとしたりと躍起になったものさ。
生涯ただ一度の勝負であるなら、そのような考えに及ぶこと、先生はそこまで非難しない。だが今回のテストはあくまで、今後につながるためのテストだ。
これによって決まるところ、決まらないところは多々ある。しっかり振り返りをすることが、結局は最良の策というわけだ。
――なに? いくら反省してもこの時の結果は戻ってこない?
ふふ、シビアなところをつくな。確かにその通りだ。
「たられば」は誰もが思うこと。ましてや、それが実際にかなってしまった身としては、強く考える気持ちもわかる。
――まるで自分が体験したかのよう?
そう、先生は生涯ただ一回、「たられば」が通用した機会があるんだ。
その時の話、聞いてみないか?
先生は学生時代、自転車通学だった。
本来なら電車を使っていい距離だったのだが、駅近くの駐輪場などを借りる手続きなどが面倒くさく思えてね。だったら自転車でそのまま行けばいいだろう、という判断さ。
片道200円と少しの電車代をけちり、14キロほどのサイクリングさ。川をはさんで向こうだし、陸路を考えると直線距離からの遠回りは、いたしかたない地形。
それでも身体が若いのはありがたいことで、往復30キロほどのチャリンコ通学に加えて、部活動なんかをしても、さほど疲労を残すことはなかった。ひと晩眠れば体力回復、RPGの主人公気分だね。
年とるとダメダメ。最大ヒットポイントが目減りするし、7割、5割とひと晩の快復量が落ちていく。みんなもフルスペックで戦える青春は、大事にしないといけないぞ。
しかしスペックの良さは、多かれ少なかれ、おごりを伴うものだ。
ビデオ鑑賞で夜更かしした結果、寝坊をかました先生は、朝ごはんもそこそこに玄関を出た。
自転車は親の使う車庫のわきに停めてある。いったん背後の柵を開け、車体を道路に出す必要があったんだ。
スタンドを蹴上げ、後ろ向きのままで出ようとして、つい「おっ」と声をあげてしまう。
影から猫が、ひょこっと跳ね出てきたんだ。
真っ黒い色をしていて、ちょうど先生の自転車のタイヤ、数十センチ前に突如姿を見せた。
判断がもう少し遅れていたら、間違いなくひいていた。なのに猫は、キッとかけたブレーキの音に、ちらりとこちらを見やる。金色の眼をらんらんと光らせて、にらんでいるかのように険しい顔。
「うっせえんだよ」と人語を解するなら、返ってきそうな空気だったよ。そしてあてつけしてくるように、今度はのそのそと視界を横切っていく。
「気にくわねえ」とばかりに舌打ちしつつ、先生は自転車を完全に出してまたがる。もう一度背後を見ると、先ほどの猫が一メートルほど後ろでちょこんと座ったまま、先生の背中へじっと視線を注いでいた。
最初の角を曲がるまでの数百メートルの間、猫はその場から一歩も動かずにいたんだよ。
これ以上、気を取られてはいられない。時計を見る限り、途中の信号に掴まらなくて、ようやく遅刻しないで済むほどのギリギリだ。これから無理を通さなくちゃいけない。
最短距離は初めこそ上りが多いが、学校に近づくにつれ、平坦と下り坂が大半を占めるようになっていく。
最初に全力を持っていくべきだ。あとはついたスピードに任せて、足を休ませるべき。
14キロの道のりの中、できる限り避けようとしても8つは信号を抜けなくてはいけない。それ以上減らすと、大幅なタイムロスになる。
2つ目の信号は点滅ギリギリを超えた。4つ目の信号は、ほとんど赤になってからの横断かつ、左折してくる車にかちあってクラクションを鳴らされた。
――大丈夫だ。死ななきゃ安い。
すでに登り坂の難所は越えた。後はどんどんと勢いのままに転がし、走らせていけばいい……。
そう思ってハンドルにかける手、ベダルにかける足と一緒に、ふっと息を抜いてしまったんだ。
忘れもしない。下り坂途中のゴミ収集所を過ぎた瞬間だ。
突然の羽音とともに、頭上から一羽のハトが舞い降りてきたんだ。自転車のタイヤの真ん前に。
わずかに前方2メートルとなかった。漕がずとも勢いのついていたタイヤ、なかば呆けていた先生の意識もあって、ハンドル操作の余地はない。
ハトは着地してから微動だにしなかった。声もあげさえしなかった。
代わりにあげたのは、先生の顔さえ優に越えて舞い上がる、いくつもの羽毛。そして前輪に何かが詰まったような、かすかな違和感。
「やっちまった」とブレーキをかけようとしたよ。
きかない。
けたたましい声さえ出さない。ボールに空気を入れるような、「シー、シー」と音を響かせるばかりで、加速の乗ったタイヤは抑えを聞いてはくれなかった。
加速はなお止まらず。途中、信号抜きのわき道が横たわっているが、そこからぬっと大型のトラックが顔を見せたんだ。右折待ちらしく、いまも先生の後ろから通り過ぎていく車たちを見送り、タイミングをはかっている。
ぐんぐん縮まるトラックとの距離に、なおも強くブレーキを握るが、勢いは緩まない。
運転手はこちらに気づいてくれるだろうか? いや、もうバックしてくれても間に合いそうになかった。
正面衝突。いまの勢いだと、飛び降りる方がずっと危険だ。ヘタにハンドルをきればスリップして、最悪、車のタイヤ前へ潜り込んで、ハトの二の舞さえ考えられる。
――とまれ、とまれ、とまれ……!
そう念じながら通じず、いよいよトラックに激突する寸前で。
黒猫が、トラックと同じわき道からひょいと出てきたんだ。
今朝見たものと同じような仕草で、跳ねるように現れたそれは、らんらんと目を光らせて、また先生をにらんできたんだよ。
確かに激突したと思ったトラックを先生はすり抜けた。
するとそこは、下り坂の手前。ほんの数分、いや数十秒前に通ってきたはずの道にいたのさ。
件のゴミ収集所が、眼下に見えている。先生はつい自転車を停めてしまった。
ほどなく、ハトが収集所前に降り立つ。あのとき、先生がタイヤのえじきにしたのと同じ場所へ。それからほどなくして、更に下ったところから、ぶつかったはずのトラックが姿を見せたんだよ。
結局、先生は遅刻覚悟でその坂を自転車に乗らず、押して通ることにした。
あのわき道へ差し掛かっても、猫が再び出てくることはなかったんだよ。