まれびと
『空間というものは量子の群衆である。
私とあなたも量子の群衆である。
私とあなたは出会わなくても存在はしている。
出会えば、何らかの反応を量子が示す。
ただそれだけである。
私があなたと会うか会わないかは、何で決まるのだろうか。
例えば、あいにく、電車をひとつ乗り逃がしてしまった。それによって、私とあなたが会うか会わないかは変わる。私とあなたが会った。そこに必然性はあったのだろうか。
マクロの世界では、そこには人間の意志決定が内在している。では、ミクロの世界では、そこに何が内在しているのだろうか。
量子がここにある。存在は不確定である。不確定とは有限と無限の両方の性質を持っている。そこでは、量子はないということと同じである。したがって、あるということとないということは同じになる。ある=ない。無限=有限。量子エンタングルメントのエントロピーと反ドジッター空間との曲面の面積とは等しい。
物質をミクロにミクロにと突き詰めていくと『ある』から『ない』状態への特異点が存在する。それが不確定性である。その特異点あるいは、境界面はブラックホールとホワイトホールの特異点であり、拡張と収縮の境界であり、単一世界と多世界の境界である。
ブラックホールとホワイトホールにより、宇宙と宇宙はつながられ、それが無限に拡張し、多世界の構成し、あらゆる時空を構成させる。
マクロを突き詰めていくと、ミクロになり、ミクロを突き詰めていくと、マクロになる。ミクロ=単一であり、マクロ=複数である。
私たちの体はミクロにもなり、マクロにもなる。ということは私たちの体自体が単一世界であり、同時に複数世界とつながっていることになる。それはあの世とこの世の境界ともいうこともできる。異界への扉ということもできる。過去と未来をつなぐ橋というかも知れない…。』
ポキッ…。
シャープペンシルの芯が折れた。理輝は読んでいた本から顔を上げた。
「分析できたよ。」
咲愛姉に火縄銃の玉を分析してもらった結果、それは、今から約500(+-50)くらい前の鉄であるという。
「本物かもね。」
そう言って咲愛は袋を返した。
ズドーン…!!
伊勢長島の砦は、願証寺と長島砦を残して、あとはほとんどが織田軍により、陥落させられていた。信長は今までで最も多くの人数を持って攻めて来た。海上には船団が浮かび長島の砦を監視している。
「死んだ…。」
兄の治郎が死んだ。織田軍の鉄砲に腹を打ち抜かれていたのだが、今日の朝、気がついたら息をしていなかった。
「広場へ置いて来い…。」
信長は長島、屋長島、中江の三砦を残し、その後は攻撃をやめた。長島の砦には、逃げて来た人々も大勢いた。食糧が底を尽き、子どもたちが餓死した。およしとお貞は口減らしにと、自ら命を経った。
「…。」
三兵衛は治郎を広場へ担いで行った。
「南無阿弥陀仏…。」
広場には、遺体が集められて、数日に一度、荼毘に臥される。
「南無阿弥陀仏…。」
信長は降伏を許さなかった。降伏を表して船に乗って行った人々は、岸に着く前に織田軍の鉄砲に撃たれて死んだ。
「病院行って来るから。」
母が出掛けた。数日前、祖母が倒れた。病院に連れて行くと、入院することになった。肺炎だと言う。
「1574円になります。」
店長の廣木がレジを打っている。
「鈴木さんと連絡取れました?」
「いや。」
突然、フリーターの鈴木がいなくなった。
「書いてあるアパートの住所に行ったけど、もともと住んでなかったみたい。」
履歴書の経歴は詐称されていたようだった。
「悪いね。」
「いえ。」
鈴木がいなくなった分、理輝や廣木がシフトを変わった。
「今、新しい人探してるから。」
来年、理輝は大学4年になる。
「理輝。」
「杏子。」
理輝と杏子は付き合っている。とはいっても、お互いドライな関係だった。
「いつ終わるの?」
「まだあと1時間。」
「終わったら電話して。」
告白して来たのは杏子の方からだった。
「うち、高校のときから理輝のこと好きだったんだよ。」
ある日、大学の帰りに言われた。
「うちと付き合ってほしいんだ。」
「うん。」
理輝はそう言った。たぶん、うすうす、杏子の気持ちには気づいていたのだろう。ちなみに、咲愛は大学院を終えて、今は地方の研究所で働いている。彼氏はいない。将来は米国に移住すると言っていた。
ズドーン…!!
長島では、死を覚悟した門徒800人程が織田軍に斬り込んで、織田の武士たちを討った。その中には、三郎兵衛もいた。一門を殺された信長は、門徒たちの殲滅を決めた。砦の周りに柵が付けられた。その周囲を織田軍の兵士がぐるりと囲った。
「何をする気だ…。」
それでも砦の中にはやせ衰えた者たちが、1、2万人はいた。
「砦に火をかけよ。」
松明と火矢が投げ込まれた。火は下草や砦の建物に移り燃えた。
ぎゃあ!!
人々が叫び声をあげる。それでも、逃げ回れる人は数少ない。ほとんどの者たちは逃げる力もなく、口々に念仏を唱えながら、火と煙に巻かれて死んでいった。
「南無阿弥陀仏。」
「南無阿弥陀仏。」
「南無阿弥陀仏。」
…。
…。
…。
小さく唱えられる念仏の声もだんだんと少なく聞こえなくなって行く。
「おばあちゃん亡くなったって…。」
入院中の祖母が息を引き取ったという連絡があった。電話を取ったのは理輝だった。
「今から病院行って来るから。」
母は急いで、病院に向かった。
「三兵衛。海へ飛び込め。」
そう言ったのは小助だった。
「お前が死ぬのは惜しい。」
小助は砦の裏手に三兵衛を連れて行った。そこは海につながっていた。周りには、他にも人々が海へ逃れようとして、飛び込んでいる。
ズドーン…!!
小舟から火縄銃が撃たれている。海は血で赤く染まる。
「生きて、仇を討て。」
小助は三兵衛を海へ投げ込むと、織田軍の小舟に向かって鉄砲を撃ち続けた。
「(信長を殺せ…。)」
小助はそう言っていた。血と人々が浮かぶ海の中で三兵衛はもがき、苦しんだ。
祖母の葬儀には皆が参列した。
「この度は…。」
遺影の中の祖母は笑っていた。
「いい笑顔ね。」
母はそう言った。家の仏壇には祖父の遺影の隣に祖母の遺影が並べられた。
「南米で現地の警察官と麻薬組織との間に銃撃戦が起こり、日本人が一人、銃撃戦に巻き込まれて死亡したと見られています。死亡したのは、鈴木一良さん。(35歳)。鈴木さんは一人で南米を旅行中、銃撃戦に巻き込まれたということです。」
テレビから聞こえたその名前に理輝は聞き覚えがあった。
「理輝。」
「はい。」
「杏子さん来てるよ。」
「今行く。」
「(信長…。)」
ズドーン…!!
長島の砦が焼かれてから、5年後。近江膳所で、何者かに信長は狙撃された。
「上様!?」
森の中から発砲されたその弾丸は信長の胸を貫通した。
「是非に及ばず…。」
それが信長の最期の言葉だったという。
1579年(天正7年)。天下布武の道半ばで織田信長はこの世を去った。信長の死を知った者たちは、各地で兵を挙げた。織田家は嫡男信忠のもとに各地の謀叛の鎮圧に当たったが、謀叛の火は各地へ飛び、織田家は近江と美濃二カ国の大名に落ちた。京の都では、毛利家と本願寺を後ろ立てにして、上洛した足利義昭のもと、再び幕府が再興された。天下の統一は成らず、戦国の世が再び蘇った。
「あれ?」
「どうしたの?」
大学に卒業後、理輝は杏子と結婚した。二人は同じコンピューターシステム会社で働いている。理輝はAIを組み込んだソフトウェアの開発をしていた。
「この袋なにかな?」
新しく購入したマイホームの引っ越し作業のときに、ジッパー付きの袋に入れられた黒く丸い玉が出て来た。
「見覚えないな?」
父と母に聞いたが、知らないという。
「子どものときのじゃないの?」
「咲愛姉に聞いて、調べてもらうか。」
理輝は袋をダンボールにしまった。
「上手く行ったな。」
「はい。」
信長を暗殺したのは、本願寺教如に頼まれた伊賀者だった。名は伝わっていない。その後、将軍家の命により、荒木村重を大将とした織田家討伐の軍が差し向けられたとき、村重の鉄砲足軽の一人で、名を朝比奈三兵衛という者が信長狙撃の犯人ではないかと言われている。
「あの袋の中身だけど。」
「分かった?」
新居の祝いに訪れた咲愛が袋を差し出した。
「成分は鉄。」
「正体は何なの?」
「年代測定だと50年前くらいだから、錆びたパチンコ玉じゃないかって。」
「ふうん。何でそんなのが袋に入ってたのかな?」
「さあ。」
信長による天下統一はならなかった。その後、三河の徳川家康は衰退した織田家を傘下に組み込み。足利将軍の権威を盾にして、東日本を統一した。そして、1600年。東日本の盟主徳川家康と西日本の盟主足利義昭の間で天下分け目の戦が行われた。この戦いに勝利した家康は義昭を廃し、子の信康を征夷大将軍とし、尾張名古屋に幕府を開いた。家康は駿河、次子義忠は京都に配した。
1615年。自ら鎮西大将軍を名乗り、独立して、明国や南蛮と外交関係を結んでいた九州王島津家を、スペイン、ポルトガルやオランダ、イギリスなど、東南アジアにおけるヨーロッパ諸国の争いに乗じて攻めるべく、家康は全国から大軍を擁して九州に渡海した。スペイン、ポルトガルと結ぶ島津家とイギリス、オランダと結ぶ徳川家との間で十数年に及ぶ戦いが起こった。その中で、家康は死に、将軍信康のもと、1638年。島津家当主、家久が戦死するに及び、島津家は降伏、徳川家の日本統一が成った。