境界線と介在物
「ミクロとマクロの境界線はあるのかないのか?」
「ない。」
「どうして?」
「虚数の時間軸を導入すれば、波動関数の境界はなくなる。」
「宇宙無境界仮説かしら?」
咲愛と理輝がリビングで話をしている。その横では祖母が朝食を食べていた。
「ごちそうさま。」
「おばあちゃんまだ残ってるよ?」
お粥が半分くらい残っている。
「もうお腹いっぱいで…。」
「そう。」
祖母は残飯と食器を片づけると、そのまま部屋へ戻って行った。
「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」
「おばあちゃんまた、仏壇に手を合わせているのかしら?」
「そうみたいだね。」
祖母が退院してきて、もうすぐ、半年程だろうか。何か元気もなく見えて来るのは気のせいだろうか。
「ごちそうさま。」
理輝は食器を片づけて、祖母の食器と一緒に洗う。
「じゃあ俺、大学行くから。」
「いってらっしゃい。」
電車の中は静かだった。
「資料配るから後ろの人に回して。」
講義資料が配られる。
「理輝、1限からなんだ。」
「周防。」
理輝の隣に今、来た学生が座った。周防杏子
「頂戴。」
「はい。」
講義資料を渡す。
「なので、エンタングルメントされた量子と量子の相関関係を、われわれにとって、『意味のある』これが大事な。意味のある情報にするには、古典的通信などの介在物が必要になる訳で…。」
「理輝、意味分かる?」
杏子が尋ねる。朝早くからの授業だからか、学生の数はまばらである。
「なんとなく。」
「へえ…。」
杏子は黙ってノートを取り出す。
「次回、試験な。」
講義が終わった。
「理輝、何であの授業取ったの?」
「おもしろそうだから。」
『情報通信学』は必修科目ではなかった。それを、1限の朝早くから取る学生はめずらしい。
「理輝、将来、AI関係の仕事したいんだっけ?」
「だいたいね。」
杏子は同じ高校だった。
「じゃ。私、次こっちだから。」
「(図書館でレポート書くか…。)」
理輝は次は3限からだった。
織田軍は去った。しかし、また来ることは明らかである。
「叡山が焼かれたらしい。」
皆は今、板の間で組紐を編んでいる。
「信長を止められる者はいないのか?」
治郎が尋ねた。
「信長に味方する者もいるからな。」
三郎兵衛は組紐を編む。その横では、火縄銃の撃つことを禁止された三兵衛が黙って組紐を編んでいる。
「(また織田が来てくれれば、鉄砲が撃てる。)」
三兵衛は内心そう思っていた。
「顕如上人は、甲斐の武田を頼りにしている。」
「武田?」
河原で小助と三兵衛が話していた。小助が地面に地図が書いて教える。
「ここが本願寺と京の都。近江、美濃。長島。甲斐。武田が来れば、信長は前と後ろから鉄砲で撃たれることになる。」
「分かりやすいな。」
「そうか。」
小助は持っていた枝を足で踏んでぽきんと折った。
「お前にこれをやる。」
片方の肩に担いでいた火縄銃を三兵衛に渡した。
「いいのか!」
「寺には鉄砲がたくさんあるからな。玉と火薬は明日持って来てやる。」
「ありがと。小助様。」
三兵衛は火縄銃を大事に抱えて家へ帰った。
「小助様がくれた。」
三兵衛が火縄銃を抱えて家へ帰って来たのを見て、三郎兵衛は驚き呆れた。
「組紐も編むんだぞ。」
「分かった。」
三兵衛から小助の話は聞いていた。下間様の家人だといる。
「和上に礼を言いに行かねばならないな。」
願証寺の証意和上が本願寺坊官下間頼旦の取次ぎ役になっている。翌日、三郎兵衛は編んだ組紐と銭を幾らか持って願証寺へ行った。
「下間様の御家人の小助様に取次ぎをお願いします。」
「少々、お待ちを。」
小僧が品物を持って奥へ行った。
「これは、今屋殿。」
四半刻程して証意和上がやって来た。
「先の品々にございますが、下間様の家人に小助という者はおらぬそうです。」
「いない?」
「ええ。下間様御本人にお聞きしましたが。」
組紐と銭は寺に納めることにしてもらい、三郎兵衛は家へ帰った。
「三兵衛。」
「なんだ?」
組紐を編んでいた三兵衛に、そのことを伝えた。
「ふうん。」
三兵衛にとって、小助がどこの何者かということはたいしたことではなかった。
「胡乱な者ではないだろうな。」
「知らぬ。」
ズドーン…!!
「当たった。」
三兵衛が作った石の的に弾丸が当たった。今、三兵衛は1町の距離では10発に7発は当てる。半町の距離では、10発全て当てる。
「そういえば、おとうが、小助様は下間様の家人ではないと言っていたぞ。」
火縄銃に玉を込めながら聞いた。
「おう。」
ズドーン…!!
小助はそう言っただけであった。
「当たった。」
筒の煤を払い、再び玉を込める。
「何者なのだ?」
「気になるか?」
「いや。」
ズドーン…!!
「はずした…。」
「十発全て当てることができるようになったら教えてやろう。」
「教えられぬとも、鉄砲が撃てれば俺は良いのだ。」
「鈴木さん。バンド解散したんですか?」
「うん。」
バイト先のコンビニで理輝と鈴木が話していた。
「売れないからね。」
「はあ。」
そんなの分かっていたことだと思った。たぶん、他に理由があるのだろう。
「青田さんは、将来、ちゃんと就職したほうがいいよ。」
青田とは理輝のことである。
「そうですね。」
「まあ、僕に言われるまでもないと思うけどね。」
鈴木は大学を中退して、東南アジアやアフリカなどを旅したあと、日本に戻ってフリーターをしているらしい。
「何でバンド初めたんですか?」
「ん?ノリ…。」
以前、聞いたとき鈴木はそう言っていた。それでも、もう何年も活動していたらしいが。
「1573円になります。」
コンビニの客足はまばらだった。
「ただいま。」
「お帰りなさい。」
家の中が慌ただしい。
「どうかしたの?」
「おばあちゃんが倒れちゃって…。」
「えっ?」
祖母の部屋へ行くと、布団が敷かれて簗絵は寝ていた。その横には母がいる。
「お帰りなさい。」
「大丈夫?」
「少し疲れたみたい。」
祖母は母と散歩に出かけて戻って、しばらくしたあと、倒れたらしい。
「先生に連絡したら、血圧を測って下さいって。」
「よかったの?」
「少し低めみたい。貧血気味かもしれないみたい。」
「ふうん。」
そういえば、祖母は最近、食事も残すことが多かったようだった。明日の朝まで、様子を見て、心配だったら病院に来てほしいということだった。
「私、今日はここで寝るから。」
「分かった。」
理輝と祖母の部屋は隣であった。
「理輝。」
「何?」
理輝が部屋で片づけをしていると、咲愛がやって来た。
「ご飯できたよ。」
「は?」
キッチンへ行くと、テーブルの上に食事が乗っていた。
「咲愛姉が作ったの?」
「何で、不思議?」
「めずらしいなと思って。」
テーブルの上には、豚肉のソテーとキャベツ。ポテトサラダ。
「ガパオ作ってみたの。」
「何それ?」
「タイ料理。」
ひき肉や玉ねぎなどのみじん切りとご飯が炒められていた。
「市販のだけどね。」
「いただきます。」
咲愛は母のところへ食事を持って行った。ガパオを食べてみた。ご飯の上には目玉焼きが乗っている。
「うまいよ。」
「よかった。」
何かは分からないが調味料の濃厚な味わいがする。
「オイスターソースとナンプラーが入ってるみたい。にんにくは後から入れたんだけどね。」
「そういえば、昔、こうやって二人で食べてなかったっけ?」
「忘れてたの?あのときも私が作ってたのよ。」
「そうなの!?」
昔、まだ父と母が共働きで教員をしていた頃。咲愛が高校生で理輝が中学生だった頃。両親の帰りが遅くなると、こうやって姉弟の二人で晩御飯を食べていたときがあった。
「理輝、あのとき部活で遅かったからね。」
「もしかして待っててくれたの?」
「今さら気がついたの?」
中学生の理輝が部活から帰って来ると、二人だけのときは決まって、咲愛がご飯だよと呼びに来た。理輝がキッチンへ行くと食事はできていて、二人で食べた。聞くと、理輝が帰って来る前に咲愛が作って置いてあったらしい。
「一人で食べても、つまらないしね。」
「そうだったんだ…。」
食べ終わった食器を片づけると、理輝は部屋へ戻った。
「出るぞ。」
草間を縫って、人々が移動していく。
「千種も赤堀も織田に降ったらしい。」
最初の織田軍の来訪から2年後の秋、再び、数万の織田軍が長島へ侵攻して来た。織田軍は本拠の願証寺を直接攻めることはせず、まずはその周辺に散らばる輪中と砦をひとつずつ攻め落として行った。西別所、坂井、近藤と順々に外側から砦が落とされて行く。輪中の中には、織田軍に降伏するところもあった。しかし、ある程度、砦を落とすと、織田軍は長島、願証寺へ兵を向けることなく、美濃へ帰って行った。門徒たちはその織田軍を追って、先回りしようとしている。
「撃て!」
ズドーン…!!
一度目同様、二度目も織田軍は退却中に門徒たちの襲撃を受けた。
ズドーン…!!
ところどころから銃声と鬨の声が聞こえる。この戦いにおいても、門徒たちの襲撃で、織田軍の武士が討ち死にした。
「あれは何者だ?」
襲撃を終えて引き揚げる途中、長島の門徒とは異なる集団を三郎兵衛は見かけた。
「伊賀者だな。」
一向門徒の襲撃には、周辺の地侍も混じっていた。
「お帰りなさい。」
「無事、戻った。」
三郎兵衛と治郎が家に帰った。
「三兵衛は?」
「まだ砦にいるみたい。」
三兵衛は襲撃には参加せず、砦の警固に当たっていた。
「そのうち戻って来るか。」
三郎兵衛は汗と土で汚れた胴鎧を脱いだ。この年の初めに、甲斐の武田信玄が死んだという話が長島に届いた。一時は、織田の本拠岐阜へ迫る勢いであったが、突然、武田軍は甲斐へ引き上げて行った。
「信玄が死んだか…。」
その報せを一番、喜んだのは信長であった。彼は、信玄の訃報を聞くと、反乱を企てた将軍義昭を近江に捕縛し、軍を北陸に向けた。
「その後、朝倉と浅井が滅びた。」
「滅びた?」
「一族が殺されて家が無くなったということだよ。」
理輝は父と食事をしていた。さっきまでテレビで織田信長の特集をやっていた。その後、祖母の簗絵も落ち着いて、今まで通りに戻った。
「そういえば、今度、市の教育委員会と火縄銃の実演をするんだけど興味があるなら来てみたら?」
ズドーン…!!
その次の土曜日、市と教育委員会が主催の火縄銃の実演が催された。
「今回は、今秋開催される市の戦国まつりで行わる予定の火縄銃実演のデモンストレーションとなります。」
ズドーン…!!
市と教育委員会関係者、報道関係者のみの出席である。理輝は観覧希望の一般市民席のひとつで見ていた。当日は小雨が降る中、空砲による火縄銃実演が行われた。
ズドーン…!!
曇り空の中、響く火縄銃の火薬の爆発音は、遠くから聞くと雷の音のようであった。
「火縄銃って、雨でも撃てるんだね。」
「うん。火薬と火縄が濡れなければ撃てるよ。」
家に帰ったあと、晩御飯のときに父に聞いた。
「あの火縄銃はどこの物なの?」
今日も咲愛姉が作った食事を食べている。あれ以来、咲愛姉は、時々、母に代わって晩御飯を作るようになった。
「火縄銃演舞会の人たちが持って来たやつだからね。」
「ふうん。」
火縄銃自体は江戸時代に作られた物らしい。
「理輝。」
「なに?」
咲愛が呼んでいる。
「ちょっと来て。」
理輝は咲愛の部屋へ行った。
「なんか変な虫がいるの。」
「虫?」
「そこ。机の上。」
咲愛の机にはパソコンが広げてある。
「今、箒持って来るから。」
パッパッ…。
「何の虫だろうね。」
「ありがと。」
理輝はそのゲジのような小さな虫を箒とちりとりで取って庭へ捨てた。
「蚰蜒だ。」
年の瀬が近づいた頃。三兵衛は板の間で組紐を編んでいた。家には、およしとお貞と三兵衛だけである。
「猟へ行って来る。」
この前の信長との戦以来、三郎兵衛と治郎は頻繁に猟へ出掛けるようになった。
「この前の戦で、けっこう砦が落とされたからな。」
落とされた砦や輪中から人々が長島へ逃げて来た。その分、人口が増えて、食糧が少なくなった。その分、人々は狩りや漁で食糧を賄うようになった。
「本山は何をしているのですかね。」
時折、およしはそのように言う。初めは頻繁に届いた物資も、最近では運ばれて来なくなった。輪中内では、鉄砲に使う火縄も落ち延びて来た人々が作るようにしている。鍋や釜も鍛冶場で溶かして、鉄砲の玉にし始めている。しかし、火薬だけはどうにもならないので、本願寺から送られて来た物を貯蓄している。そのような訳で、最近では、三兵衛も河原で火縄銃を撃つこともなく、家で大人しく組紐を編んでいる。
「戻ったぞ。」
夕方前に、三郎兵衛と治郎が帰って来た。手には雁を三羽持っていた。
「塩漬けにしておくか。」
本格的に寒くなると、猟にも出られなくなるだろう。
「そういえば、山で小助様にあった。」
「そうか。」
あれから、三郎兵衛は願証寺での談合のときに、伊賀国衆の者の中に小助と呼ばれる人がいるのを知った。
「知っていた。」
そのことを知った三郎兵衛が三兵衛に言ったら、その返事か返って来た。
「小助様。十発当たるようになったぞ。」
「そうか。」
あれからしばらくも経たないうちに三兵衛は1町離れたところから石の的に10発中10発とも当てられるようになっていた。
「そのときに教えてくれた。」
「そうか。」
三郎兵衛が三兵衛からその話を聞いたとき、何か得体の知れない恐怖を感じた。1町離れたところから、掌程の的に10発全てを当てることなど、どれほどと名人でもできるかどうか分からない。それを、18歳の若僧が、たった3年足らずでできるようになったという。
「どれほどのことか己で分かっていないのか?」
「何が?」
三郎兵衛が三兵衛に尋ねてみたが、けろりとしていた。
「何でもない。」
昔から三兵衛は子の中で器用な方だった。それでも、この子は子どもが玩具で遊ぶように、火縄銃に興味を持ち、それにのめり込み、自分でも知らぬうちに、名人の位に達してしまった。そのことが、三郎兵衛にはどこか恐ろしかった。
「理系の大学って、就職先あるの?」
「こだわらなければ、企業とかあると思いますけど。」
コンビニで鈴木と理輝が話している。
「僕、文系だったからな。」
「専攻は何だったんですか?」
「何だったかな?」
中退した大学のことなど覚えていないのだろう。
「僕、始めは戦場カメラマンになりたかったんだよね。」
「戦場カメラマンですか?」
「そう。」
鈴木はそれで、大学を中退し、海外を放浪していたのだろう。
「もともと大学のときも、ほとんど授業出なくて、バイトしてたからな。」
その金をもとに海外へ出たという。
「やめちゃったんですか?」
「なにが?」
「戦場カメラマンの夢?」
「人が死ぬところを見たくなかったんだよね。」
「はあ。」
時々、鈴木は支離滅裂なことを言う。それならば何故、戦場カメラマンになろうと思ったのだろうか。
「ただいま。」
「お帰りなさい。理輝、おばあさん寝てるから。」
望が言った。
「具合悪いの?」
「そうかも…。」
食欲がないと、晩御飯を食べずに、そのまま寝てしまったという。理輝は静かに部屋へ戻った。
「(何だこれ?)」
机の上を見ると、ジッパー付き袋に入った黒い丸い石のような物が置いてあった。
「あれ、火縄銃の玉。」
風呂から出た豊久がそう言った。
「本物?」
「正確には火縄銃の玉かも知れない物。」
「何それ。」
「火縄銃演舞会の人がネットか何かで大量に出品してるのを買ったんだって、いっぱいあるからって、配ってた。」
「本物なのかな?」
「たぶん偽物。」
豊久が言うには、実際に発射された玉が残って発見されるということはあるにはあるが、それほど大量にある訳ではないという。
「たぶんそれが分かってるから、演舞会の人も配ったんじゃない。中学校の教材用にって言ってたけど、本物かどうか分からない物も見せられないし、理輝にあげる。」
不用な物を押し付けられたようではある。
「(本物ならすごいんだろうけど…。)」
理輝は部屋に帰って、袋に入れられたその丸い玉を見つめた。
「成分分析機器?」
「うん。大学院にある?」
「何を調べたいの?」
「これ。」
理輝は袋を見せた。
「何これ?」
「火縄銃の玉だって。」
「ふうん。」
咲愛は明日、教授に聞いてみると言ってくれた。
「預かっとくよ。」
そう言って、袋を引き出しにしまった。