その四
「沖先生、起きてください。先生!」
異世界が飛び込んできた。
唐突にではない。来る時刻は決まっている。
沖はその声で、朝だと知った。
しかも、八時過ぎじゃないか。
愛鈴が来たからにはそうなのだ。
合鍵は渡してある。そうでないと、まず沖をたたき起こす仕事ができないからだ。
今朝も彼女はためらいなく、雇い主へのサーヴィスを開始した。
机上に突っ伏していた沖の身を揺さぶり、耳元で加減なしに叫びたてる。
「先生! 起きないと、ゴキブリ捕まえて背中に入れますよ、先生!」
これでは起きずばなるまい。
沖は上体をそり返らせ、両手で虚空をつかむように、大きく伸びをした。
傍らには、普段着ながらもメイドのようにかしこまった姿勢で、アイリンが控えている。
見慣れた顔ではあるが、見飽きることがない。
朝の陽が差し込んだ部屋で光の粒子に包まれながら立ち働くアイリンの若々しさ、そのしなやかな身のこなし、生命力を内奥から発散させる瞳の輝きはいつ見ても新鮮だ。
アイリンはどこからともなくやって来た娘だ。
ある日、沖の家を訪ね、愛読者だから弟子にしてもらいたいという。
「お給料はいりません。先生のため尽くしたいんです」
まるで安っぽい漫画のような関わりの求め方ではある。
沖は申し出の通りにしてやった。
いや、給金は払っている(ゴホン!)。
ただし若干のブラックな雇用主ぶりを発揮、アイリンには昼間だけ通ってもらい、アシスタントの名目で雑用を任せることにした。創作と関わりない、身の回りの世話だ。
最低賃金の提示にもかかわらず、彼女は喜んで引き受けてくれた。
しかも、よく働くこと。
掃除も、洗濯も、買出しも、料理も、そして後片付けまでみごとにこなすのだ。
おかげて、沖の家は見違えるほど綺麗になった。
沖自身も見違えるほどでなくとも、前よりはさっぱりした風体になった。
アイリンは、このうえなく愛らしく、快活で、不平も吐かず、働き者なうえに気が利いた。
リアリズムを重んじる作家ならば、ここまで美点――男視点での長所――ばかりで成り立った女性など気恥ずかしくて登場させられまい。
そんな娘が自分のほうから登場したとあっては、受け入れるほかないというものだ。
彼女はまさしく、異世界からの贈り物なのである。
ほんとうに、アイリンはどこから来たのだろう?
容姿はともかく、挙措はまるで日本人離れしている。
本人は台湾生まれと言ってるし、なるほどそういう雰囲気ではあるが実のところは怪しい。
もっとも。国際事情にうとい沖に、人の国籍の判別などできない。
だいたい、彼自身が風采にかまわないせいか、出生地をよく間違われるのだ。
「日本語お上手ですね」
まあ、いい。
ようするにアイリンがどこの生まれだろうと、台湾でも韓国でもフィリピンでもブラジルでも、あるいはヴェトナムやネパールでも、沖はまったく気にしなかった。
アイリンは変わらず、献身してくれる。
いまも彼女は、用意した熱いタオルを拡げて、沖の前に差し出す。
沖は至福の思いで、熱気むんむんのやわらかい布地に顔全体を包み込み、まんべんなく擦り付けると生き返ったようにフウーッと息をついた。
本心では、アイリンの豊かな胸に顔をうずめ、思う存分その若々しい魅力を満喫したかったが、性格がアレなため、師弟以上の関係となるのに踏み出せずにいるのだ。
今も、私事に触れるのを避けるように、話題を仕事のことだけに自分から限定してしまう。これでは、いつまでたっても進展しないはずだ。
手の早い男からは、もったいないと嘆息される状況に違いない。
「どうしても書けなくてね。寝込んじゃったんだ」
「お布団で寝込んでください。風邪ひきますよ」
「風邪ひかなくても寝込みたいんだよ。ラノベなんか書けって言われちゃあ」
「先生がラノベを? あんなにラノベの悪口ばっかり言ってた沖先生が?」
アイリンは、頓狂な顔で、目をパチクリさせる。
「よく引き受けたものですね。書かせるほうも書かせるほうだけど」
「ラノベ作家が団体で失踪したらしい。なんでかはわからない。変なものばっかり書いてたから、集団性の精神疾患でも発現したのかな。あっはっは」
「いいことなんですか?」
アイリンは、他人の不幸を笑う沖を咎める口ぶりながらも、面白がっている。
「とんでもない。おかげでこの沖栄一が、穴埋めで苦労してるってわけさ」
沖には、ライトノベルの購読層ばかりか、あんなキワモノを珍重する出版業界全体が気に入らなかった。
「まったく、人材の無駄遣いもいいところだ。あいつらときたら、ケーキが出来ないんだからパンを食えばいいのに、子供のようにケーキ台にしがみついて離れない。やるに事欠き、凄腕のパン職人を連れてきてケーキの飾りをさせやがる」
「名言です」
アイリンはわが意を得たりという顔をした。沖ならこう例えてみせるのではと予感したとおりの言い方だったから。
「先生ってほんと、ライトノベルお嫌いね」
「嫌いどころか、天敵だよ。あんなものツー・ネットとおなじに日本語圏のモラルを蝕むだけ。ラノベが滅びるか日本文化が滅びるかだって、いつも言ってる」
ツー・ネットとは、悪名高い巨大掲示板。
頭のいかれた愛国者や差別狂、変質者の群がる巣窟だ。
規制を求める声には聞く耳なし、運営人は厚顔にも言論の自由を盾にして平常営業、ツー・ネットそのものを敵対意見を圧殺する言論テロ空間に仕立て上げてしまった。
ネット文化の草創以来、日本社会におよぼした害ははかり知れまい。
ラノベの批判ばかりする沖が、このツー・ネットのラノベ板でアンチとして晒され、「恥祭り(ちまつり)」と呼ばれる悪罵による集団リンチをこうむったのも一度や二度ではない。
沖の見るところ、ラノベの隆盛とツー・ネットの台頭とは奇妙に重なり合うところがあって、どちらも現実から逃避したがる層を相手に経営が成り立つところで共通、つまるところどちらも、けっして手を組めない相手なのだ。
「でも、名言は慎んで言わないと」
アイリンは、沖が調子に乗っていると、乗り過ぎないよう訓戒するのが常だった。
「ラノベの愛読者って砂の数ほどいるんでしょ? そんなこと公言したら、恨みを買いますよ」
なんたるバランス感覚。
主人に同調し、おだてるだけじゃない。先行きまで気遣ってくれる。
「なんとでも言えだ」
沖は肩をすくめた。
「ラノベを書く参考に、投稿サイトの「小説家のヤロウ」で上位ランク作に片端から目を通してみた。辟易させられたよ。『異世界に飛ばされ、無双してやった』『中年オヤジだけど良家の令嬢に転生しちゃいましたの』『いっしょにお風呂はいろう、お兄ちゃん』……こんなのばっかりなんだぞ、本当に! マカロニウエスタンや香港空手映画を十本続けて見せられるより酷い気分さ。まったく。文芸市場の先行きには荒廃のほか予見できないってもんだろ」
実際、そうなのだ。
沖が口をきわめた言を吐き捨てたくなるのもよくわかる。
アイリンは屈託のない笑顔で、冗談めかした解決策を提案する。
「先生も割り切って、そういう、思いきり幼稚で変態ぽいのを書いてみたら?」
なるほど。
咄嗟にはいい考えだと思う。しかし……。
「平凡な奴が異世界に転生、有力者に見込まれて成り上がり、女にモテまくる話をか?」
アイリンは罪のない顔でこっくりとうなずくが。
恥があるなら無理というものだ。現に、徹夜でねばって一行も進まなかった。
いや彼女にも、沖がそんなもの書くわけないとわかりきっているのかもしれない。
「先生なら、どんなもの書かせても平凡にはならないと思う。ライトノベルの世界に新風を吹き込めるのは、先生しかいません」
「平凡にはならない……もしかしたら、そこが嫌われる理由かもしれない。よく言われるんだ。素直におさめればいいのに、あいつのは余計なひねりが多いって。筋運びでも、台詞でも」
「わたしは先生のそんなところ、大好き」
アイリンはひたすらフォローしてくれるけど、それで本が売れたら世話がない。彼女のように沖を大好きになってくれる読者が少ないからこそ、ラノベなんぞ書かねばならないのだ。
沖は甲斐のない問答を打ち切り、シャワーを浴びにいく。
朝の日課だ。
熱い湯に全身を打たせながら思いめぐらす。
しかしアイリンと話すうちに、自分はつくづくライトノベルに不向きな作家なのだと実感できた。やっぱりこんな仕事断って、実入りが悪くとも書きたいものを書くべきなのかな。
しかし。ここで断ったら、次の仕事はもう入ってこないという予感がしてならない。
思案のしどころだ。
とりあえず身体だけでもすっきりさせて戻ってくると、アイリンが朝食の支度を整えてくれている。
これも日課のようなもの。
「はい、先生。朝ごはん」
台所に引っ込んでたアイリンが、お盆をかかえてきた。
献立は何パターンかの日替わりみたいなものだが、今朝は、熱いココアに豆乳がけミューズリー。半熟卵。豆を添えた温野菜とバナナ。
だいたい、週のこの日の定番だ。
アイリンが来るまでは栄養管理なんてできなかった。
以前は、目玉焼きにハムかベーコンをつけた。多いときで六枚くらい焼いたのを、熱いコーヒーで流し込む。
それを彼女は自殺行為だと呆れてみせ、食生活を改めさせたのだ。
ベーコンを食べなくなってから体の調子がいい。腹も引っ込んだ。そういえば知人の一人は、カリカリに焦がしたベーコンの常食をやめられずにいたが、あっけなく大腸がんで殺られたっけな。
アイリンは命の恩人かもしれない。
(続く)