とある転移者の人生より一部抜粋
(ここは……どこだ?)
流は一日の職務を終え、暫しの睡眠を取っていたはず。然し、目を覚ますと其処は草原の上。流が周りを見渡すとそこには一面に鮮やかな緑。眩しい程に輝くお天道様が流を照らす。
そして、流の目が確かなら、目の前にはこの様な草原にはとても似つかわしくない水色のゼリーの様な不定形の塊が蠢いている。これはスライムではないか。流はそう思ったに違いない。
ここで流はある種の悟りを開いた。
(そうか、ここは異世界なのか)
流の顔からは笑みがこぼれていた。
つまり、流は念願だったのであろう異世界転移を果たしたのだ。
しかしながら、ここは屋外。そして草原。見渡す限り、緑、緑、緑。一体どうやって生き延びれば良いんだ、と、流は酷く落胆した。
そして、流はふと後ろを向いてみると、先程までの一連は全て杞憂だったと気付き、更に落胆した。確かに、後ろにも草原は拡がっていた。しかし、草原の向こう。そこには門があったのだ。門の周りには、何人たりとも通さないとばかりに、重厚そうな壁がそびえ立っていた。
流は、それこそ瞬きをする様に、呼吸をする様に、好奇心に駆られるままふらふらと歩き出していた。
(困った事になったな)
流は、まるで通せんぼをする様に目の前に立つ長身の門番を尻目に、そう独り言ちた。
――身分証を提示しろ。門番は確かにこう言った。然し、生憎、流には其の様な物を胸に抱いて寝る趣味は無い。故に持ち合わせてない。いや、仮に持ち合わせていたとしても、それがこの世界で通用する保証は何処にも無い。
ついでに言うと、流は今、上下共に着古したジャージという、極めてラフな格好であった。更に言うと、今、流は靴を履いていない。其れというのも、睡眠中に召喚されたのが原因である。だが、不幸中の幸いとでも言うべきか、流は靴下を履いて寝ていたのである。
流には知りえぬ事であるが、この世界に似つかわしくない異質な服装、というせいもあって門番からは、身分証無しには絶対に通さないという気概が見て取れる。
(さて、どうしたものか)
門番は何があろうと通してはくれないだろう。流はそう判断した。
その時、甲高い悲鳴の様な音が微かに遠くから聞こえた。刹那、流は理解した。
(ああ、これがテンプレか)
今の悲鳴は門番の耳には届かなかった様である。無理も無い。門番は兜をかぶっている。
流は、門番に事情を話すか思考を巡らせた。だが、例え話したとしても、嘘だと決め付けられ、挙句余計に不安を煽るばかりであろう。流は即座に思考を止めた。
そして、先程の悲鳴の元へと走り出した。
先程の悲鳴の起こった場所と思える位置に到達した流は、目の前の惨状に思わず吐瀉物を吐き出してしまった。
流が吐いてしまったのも無理はない。流の目の前、其処には見るも無惨な死体が横たわっていた。
ある者は槍に貫かれ、ある者は剣に刺され、またあるものは額にナイフを受けている。
流には、その死体ひとつひとつが、まるで流を怨む様に睨んでいる。そう感じられた。
勿論、死体は流を睨んで等いないし、ましてや怨んで等いなかった。助けられなかった、それどころか間に合いもしなかった。そういった罪悪感が、流に幻を見せたのである。
流が憔悴している間にも刻一刻と時は進んでいく。世界とは得てして理不尽な物である。
それ故に流は気付けなかった。自らの眼前まで刃が迫っている事に。
最後に流が聞いたのは下卑た男の笑い声だった。
────
(何故だ……? 俺はさっき……)
微睡みから目覚めた流の顔は驚愕に染まっていた。
無理もない話である。先程、流は確かに死んだはずである。下卑た笑いの男に斬られて。然し、目を覚ますと其処は丁度先程目を覚ました場所と同じ様な草原であった。そして、視線を前に向けると、其処には先程と同じ様な場所で同じ様に蠢いているスライムがいた。
(さっきのは……夢、なのか?)
勿論、夢では無い事を流は理解している。無残な死体、助けられなかった絶望感、首を斬られた時の感触、全て覚えていた。思い出す度に吐き気を催し、流の顔から脂汗が出てくる。
然し、現に流は生きている。首を斬られて生きている人間など居るはずも無い。これは誰もが知る常識だ。
此処で流は思い出す。これに似た状況に陥った男の話を。
これは俗に言う死に戻りと言う物なのでは、流はそう感じた。
そして、流には知り得ない事ではあるが、奇しくもそれは的を射ていた。
(これが死に戻りなら……助けられるかもしれないっ!)
そう思った刹那、流は走り出していた。助けられなかった者達の元へと。
流は特に迷う事も無く辿り着く事が出来た。何か不思議な力でも働いたのか、流はそう感じた。
其処には一台の馬車があった。そして、下卑た笑いの男と他数人、それに対峙する様に剣を掲げた屈強な男が二人、男に護られるように後ろに女が二人いた。
下卑た笑いの男達の足元には死体が転がっていたが、流の目に入る事はなかった。
そして、流は気付いていた。女の後ろの茂みにも、あの下卑た笑いの男の仲間が居る事を。
流は駆け出した。今度こそは助けると。強い意思で。
――後ろだっ!
突然現れ、そう叫ぶ流の姿に、その場の誰もが驚き、硬直した。
辺りは時が止まってしまっかの様に静まり返り、木々の揺らめく音が聞こえてきそうな程だった。
そして、場の沈黙を振り切り、一番早くに立ち直ったのは、 煌びやかな衣服を身に纏い、この中でも一番若く、まだ二十にも満たないであろう少女だった。
「レナッ! 後ろよッ!」
少女がそう言うと、その隣に居たメイド服の様な物を纏った女は、懐からナイフを取り出す。――刹那、ナイフは女の後ろに居た男の額に的確に刺さっていた。
そして、ふと向こうを見ると、鎧を着込む屈強な男が、下卑た笑いの男達の首を刎ねた所だった。
流は当然のように嘔吐した。
「危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
少女は気品を感じさせる態度で礼の言葉を口にする。だが、背後に死体の影が見え隠れし、流は再び込み上げてくる吐き気を何とか堪えた。
ともあれ流は、今更ながらに込み上げて来た嬉しさを噛み締めていた。今、流は浮かれていた。更に言うと、他の皆も浮かれていた。それ故に気付けなかった。
「――危ないっ!」
まだ残党が居た事に、そして、すぐ後ろ迄迫っていた事に。咄嗟のことで、声こそ出せたものの、その攻撃に反応するにまで至った者は居なかった。
二度目の死は、酷くゆっくりと過ぎて言った。少女達が必死に呼び掛けていたが、終に流の耳に届く事は無かった。
────
目を覚ますと、其処は草原で、流の目の前には何時もの様に、まるで流を嘲笑うかの様にスライムが蠢いている。
――刹那、流は、走り出していた。また、助ける為だ。其処には微塵の躊躇いも無かった。
流は一種の興奮状態に陥っていた。
二度あることは三度あるとでも言うべきか、流は先程と同じように、何ら迷うことなくあの下卑た笑いの男達の居る場所へ辿り着く事が出来た。
そして、流は其処で先程と全く同じ行動を取った。未来が変わってしまうのを恐れたからだ。少しの差異はあったものの、凡そ先程と同じ状況を作り出す事に成功した流は、残党が残っている事を知りながら、その茂みに背を向けた。
「危ないっ! 」
少女が流の後ろに残党が残っている事を報せる。そして流は、その声を聞くか聞かないかの時に、思いっきりしゃがみこむ。
頭上で風を切る音が聞こえた。そして、たたらを踏んだ残党は為す術もなく、メイド服の様なものを纏った女のナイフを顔面に受けた。
「なるほど、気付いたらこの地へ、と」
煌びやかな衣服を纏った少女の好意に甘え、馬車に乗せてもらった流は、馬車の中へと入って行った少女とメイド服の様なものを纏った女を尻目に、馬の手綱を引く鎧を着込む屈強な男と話し込んでいた。
「うーん、転移魔法陣に乗った訳でもない、か……なんとも言えませんね」
屈強な男の申し訳なさそうな声に、流も、そうですか、と言い、一人溜息をつく。
「まあ、もうすぐ街にも着きますし、とりあえず今日の宿くらいは用意してくれると思いますよ、なんせ貴方は私達の命の恩人ですからね」
男は爽やかに笑うと、馬の手綱引きに集中し始めた。
やがて、流が二度死ぬ前に来た、あの門の前に辿り着く。其処には、流の見覚えのある門番が、やはり何者も通さないという気概で立ち塞がっている。
しかし、先程とは状況がまるで違う。門番は、屈強な男を見ると朗らかな声で話しかける。
「やあ、メモルさん、お疲れ様です」
自分の時とはまるで違う態度で接してくる門番に、少しの理不尽を感じながらも、仕方の無いことであると割り切る流であった。
その後、訝しげに流を見る門番に、屈強な男が説明を試みる。
「なる程、その方は命の恩人なのですか」
ただ単に声を掛けただけなんだけどな、と思いつつも、流の正義感は満たされ、悦に入っていた。
「貴方も、貴族の娘であるイプ様の恩人とは、いやはや羨ましい限りです」
あの煌びやかな衣服を纏った少女が、よもや貴族と言われる程の地位に居たのかと戦慄をしながらも、流は何とか返事を返す。だが、それは明らかに生返事だった。
「では、私達はこれで」
「あ、はい。呼び止めたりしましてすいません」
身分証の提示などを促される事も無く、流を乗せた馬車は門の中へと入って行った。
三回目にして漸く前に進むことが出来た。流はその事に歓喜した。
「身分証を持っていないんですか?」
屈強な男の驚きを含んだ声に、流は申し訳なさそうにしながらも頷く。
流は正直に、寝ている時に転移した事、故に身分証を持っていない事、そしてこの国での身分証の取得方法を知らない事を話す。すると屈強な男は納得した様子で、では明日発行に行きましょう。と提案してくれた。
そして、一行は宿に向かった。聞くと、流の分の宿も用意してくれるそうだ。
いくら恩があると言っても、流はただ声をかけ、注意を促したのみである。屈強な男達のその優しさには、感謝してもしきれない。
宿で夕食を済ませた流は部屋の布団に潜り、明日からのことについて考えていた。
恩を盾にして、いつまでも少女の世話になる訳にも行かない。少女は王都に向かっていると言った。王都はこの街からかなり遠い場所にあると言う。
街に残ろう。流はそう決心した。身分証の発行の手伝いはしてもらうが、その後は、自分で出来ることを探そう。流はそう考えた。
幸いにして、流には、死を恐れる必要が無い。故に冒険者等をして見るのも良いだろう。
そんな所で思考を打ち切った流は、目を瞑る。すると、疲労も手助けをし、僅かな時間で深い眠りについた。
────
目を閉じていても眩しいと分かるほどに白く、赤くなる瞼の裏に、流の心臓は早鐘を打った。
一向に開こうとしない瞼を無理矢理こじ開けると、そこに天井は無かった。全身に悪寒が走り、背中にはじとりと嫌な汗が滲む。
背中には柔らかい草の感触が広がり、草原の上で寝ている事を嫌でも自覚させられた。
肘で反動を付け、思い切り腰を起こすと、其処にはやはりと言うべきか、いつもの様に、スライムが蠢いていた。
これが物盗りや誘拐ならどれ程良かったか。流は、これまでの人生でも史上類を見ない程酷く銷魂した。
流は蠢くスライムを見続けていた。
今、こうしている間にもあの少女達が下卑た笑いの男達に残虐の限りを尽くされているというのに、流の心には何の感慨も抱かない。
今、流の心には、様々な悪感情が渦巻いていた。
――どうして、俺は死んでない。つまり死に戻りじゃない? そんなはずは無い。俺が何をしたって言うんだよ!
そんな言葉が流の頭の中を反芻する。
(頭が、痛い)
流の心はボロボロだった。流は、それこそ瞬きをする様に、呼吸をする様に、感情の無い瞳でふらふらと歩き出していた 。
スライムは、聖母を思わせる包容力でまるで赤子を胸に抱くかのように流を受け入れた。
────
(……どうせ戻るなら)
流は、自暴自棄になっていた。
(何をしても……)
流は走り出していた。
程なくして流はある茂みの近くに着いた。その茂みは人が入るには充分な程の高さがある。更に周りには岩があり、やはり人間が隠れるには充分な大きさだった。
その茂みには人影があった。人影は三十代ばかりの男達、その誰もが品の無い笑みを浮かべ、剣や槍を携帯していた。
流は、男達から離れた茂みに隠れ、その様子を伺っていた。
そして、今まさに一台の馬車がやって来た。馬車はこじんまりとしたもので、鎧を着込んだ好青年を思わせる男が御者を務めている。
馬車が茂みを通過する、正にその時、男達は茂みから飛び出す。
その勢いに流はモンスターを使役するあの国民的ゲームを思い出した。
好青年はその出来事に一瞬動揺するが、すぐに立て直し、帯刀していた剣を抜き、応戦する。
好青年は凄まじい剣さばきで男達を圧倒するが、やはり多勢に無勢な事もあり、徐々に押されていく。
その時、男達の一人、その額にナイフが生えた。良く見ると、それは馬車の中から投げられたもので、馬車中からは二人の女が出てきた。
一人はメイド服を思わせる服を着込んでおり、もう一人は華麗なドレスを着込んでいる。
「イプ様、出てきてはだめです!」
「心配いりません。賊如きに遅れを取る事はありません」
好青年は男達の攻撃を剣で弾きながら、華麗なドレスの少女に叫ぶが、少女は毅然とした態度でそれを跳ね除けた。
「ファイアーボール!」
少女が魔法の詠唱の様な物を行い、手を男達の方へとむけると、少女の手から炎の玉が飛び出した。
男達は、突然の事に驚き、取り乱したまま炎をその身に浴びた。
その隙を見逃さず、好青年は残り男達を処理していく。
だが、その隙に動き出したのは好青年だけでは無かった。少女達の後ろに位置する茂みにずっと隠れていた二人の男は飛び出した。
その時、この場の誰でも無い声が辺りに木霊した。
――後ろだ!
流の声だ。辺りが静寂に包まれる。その場にいる者全てが硬直するが、流はそれに構うことなく走り出した。
「レナッ! 後ろよ!」
真っ先に硬直から脱したのは他でもない、少女であった。
少女はメイド服の女にそう言うと、女はハッとした表情になり、懐からナイフを取り出すと、後ろにナイフを投げる。
流には知覚が出来ない程の速さで投げられたそれは二人の男の額に的確に刺さっていた。
そして、それと同時に好青年が最後の男の首を撥ねた。
流は嘔吐しなかった。
「危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
少女はそんな事を言い、頭を下げた。流は、当然の事をした迄です。などと言い、唐突にしゃがみ込んだ。
「――危ない!」
少女の声と共に流の頭上を剣が通過する。横に薙いだ男の剣が流に当たることはなく、重心を崩した男は前のめりになる。
――それと同時だった。流は思い切り後ろを振り返り、男の持つ剣を無理矢理奪うと足でブレーキをし、地面を蹴って方向転換をする。
そしてそのまま返す刃で油断をしている女を深く切りつけた。
「なっ!?」
何をするんですか、そう言おうとしていたのであろう少女もついでとばかりに切りつけた。
本来ならば持ち上げる事さえ困難であろう剣を流が何故持ち上げることが出来たのか、それは流の脳内のリミッターが外れてしまったからである。
流がどうして先の週で親切にしてもらった少女達を切ったのか、それは定かではない。狂人の考える事を理解するのは普通の人間には土台無理な話である。
(これでいい、どうせ戻れるんだから)
屈強な男は咄嗟の反応が出来なかったことを後悔しながら流の首を飛ばした。
流は首が離れるまで、そして首が離れても尚笑い続けていた。その笑いは奇しくもあの下卑た笑いの男達と瓜二つであった。
────
(戻ったか)
流は安堵した。だが、その結論に至るのは些か早計だった。
流は立っていた。その時点で何時もとは違う事が伺える。
流の全身から汗が滝のように流れ落ちる。その時、流は汗で手に持っていた剣を落としてしまった。
――剣を落としてしまった。
流の思考が急速に加速する。七週目にして初めて流の頭には走馬灯が流れていた。
だが、その走馬灯は途中で打ち切られた。
世界が九十度傾く。
ふと空を見上げると、屈強な男が、流をまるで怨む様に睨んでいる。そう感じられた。
勿論、幻等ではなかった。
────
自分が生きていると認識した瞬間に、流は奇声を上げ、剣を出鱈目に振り回していた。
男は、突然の奇声に驚くものの、流の剣を軽々と受けると、そのまま弾き飛ばした。
流は、今一度の死を覚悟し、目を固く瞑った。
だが、何時になってもその時は訪れない。
唐突に、辺りに鈍い音が響いた。
流は、薄らと目を開ける。そこにぼんやりと映し出された光景は、まさに驚愕その物だった。
屈強な男の後ろには、下卑た笑いの男が居た。槍を振り下ろした格好で。そして、屈強な男は、脳震盪を起こしその場に倒れ込んでいる。
下卑た男は、よもやこの攻撃で殺せるとは思っていなかったのか、その顔は驚愕に染められている。
その隙を好奇と見た流は、倒れている屈強な男から剣を奪い、屈んだ体勢から立ち上がりつつ振り上げた。
咄嗟の事に反応仕切れなかった下卑た笑いの男は、流の剣をまともに受けてしまった。手首が切断されてしまった下卑た笑いの男が、槍を手放してしまうのも仕方の無いことだった。
「うわぁぁぁ! う、腕が!?」
痛みに悶えている下卑た笑いの男の顔面に流は剣を突き立てた。
その後、念には念をと剣を使い、屈強な男の首を、鋸がそうする様に鈍く切り落とした。
辺りには、見るも無惨な光景が広がっていた。草むらには時間が経ちどす黒くなった血で覆われており、数々の死体が散乱している。その死体のひとつひとつが流を怨んでいた。
流は今更ながらに自分の行いを後悔していた。先程までの流はどうかしていた。普段の流からは想像も出来ない常軌を逸した行動の数々。
狂っていた、と言う言葉だけでは流の思考の中を表しているとは言いがたかった。
ここで流はある種の悟りを開いた。
ここは異世界等では無かったのだ。
「ここは……地獄だ……」
そういった流の声は、ひどく無機質で、酷く冷たかった。
流は、歩き出していた。その足取りは酷く重いもので、それはこれからの流の行く末を示している様だった。
流が遺した足跡は――明日もまだ残っているのだろうか。
SSS級にレアなスキル手に入れるやつ