決してロリコンというわけではなく~なろう小説の主人公は成長してはいけない~
いやさ。もうはっきりみんなわかりきってることだと思うんだけど、なろう小説の主人公を書くときに、古典ファンタジーのように成長してはいけないと思うんですよね。
古典ファンタジーの世界では、確かに、主人公は成長し、魔王とかぶったおし、姫様(ないしお宝)をゲットという流れでよかったのかもしれないけれども、なろうファンタジーでは主人公の人格は完成されていないといけないの。
なぜ完成されていないといけないのかというと、読者自身が成長することに対して実感がないからなの。
読者が高齢化しているからとか、そういうことじゃなくて、たとえば大学生くらいの20歳くらいのお兄さんでもいいけど、この人は5年後のオレも結局変わらないままだろうな、とか考えてるの。
斉藤環っていうエッセイストでお医者さんやってる人が書いてたんだけど、今の時代ではともかく『成長』については懐疑的なんだってさ。
あきらめてるわけでもないし、絶望しているわけでもないし、未来に悲観的なわけでもないし、未来に希望を持ってるわけでもない。
このフラットさ。
変化の無さに対する信望が時代をつらぬいているみたい。
わたしは、それを偏頗した思想から距離をとる姿勢だと思う。
現代はポストモダンの時代と言われていて、あらゆるイデオロギーは死に絶えた時代だ。なにかの宗教にハまるのは『ヤバイ』って思われる時代ってこと。右翼も左翼も行き過ぎると『ダサい』って思われる時代ってこと。そういう人たちがたくさん増えて、無党派層というか無思想層みたいなのが増えてきて、思想的に偏ることを嫌っていると思う。
変化の無さというのは、つまり決断しないこと、何かを選ばないってことだよね。
ハーレムも同じ原理なのかもしれないね。
A子ちゃんとB子ちゃんがいて、どちらも選ばない。永遠に選択は引き伸ばされる。どっちも選択しちゃうというのは、まあそれはそれで選択の一種なんだけど、偏りを嫌った結果だ。
つまり、変化しない。変化したくない。成長したくない。
そういうふうにナチュラルに考えている。
もちろん、レベルアップして、できることが増えるとか、そういうのはあるかもしれないよ。
けれど、これはあくまで単に能力が開花したに過ぎない。
もとからあった潜在能力が顕在化しただけなんだよね。
現代の日本人は自らの成長を信じることができない。
このままダラダラ生きて、マクドナルドでも食べて、植物のような穏やかな生活を送っていくのかなぁ――
という確信にも似た心情。
これはあきらめでもなく、絶望でもなく、ただただそうなるというほとんど信仰じみた予感です。
言い換えれば、成功するための要因というのは、天賦の才であって、生まれたときから運命論的に付与されると信じていることを指してる。
だから、神的な存在からチート能力を授けられるというのは、今の日本人の心性にきわめて沿ったカタチをしている。
チートがないパターンでも同じ。
主人公は最初からずっと能力的に他者を凌駕している。
他者を凌駕しているゆえに、主人公は成長する必要が無いわけ。
一言で言えば、現代の日本人は成長を信じていないがゆえに、なろう小説主人公も成長しないほうがリアル感があってよいということなんだけどね。
ただ、漫画とかアニメとか、他の媒体だと、『少女の成長が描かれる』とかいうキャッチコピーがかかれてたりもするわけで、どうしてなろう小説だけことさら成長しない作品が多いのかは謎だよね。
それはやっぱりなろう小説に特殊性があるからだとみるのが自然です。
なろう小説の成長を拒否する構造とはなんでしょうか?
同じく斉藤環の論でいえば、変わらなさに対する確信はあるけれども、自分が幸福であろうと判断されるのは『仲間』がいるからだと書かれてありました。
仲間からの承認があるから、貧乏でも、何も得られなくても、成長できなくても幸福である。これは『絶望の国の幸福な若者たち』という古市 憲寿の論を引用した提言になります。
イデオロギーが死滅した時代では、細切れにされた承認こそが自分を支える杖です。なぜなら、宗教も信じられない。国家も信じられない。政治家なんて全部ゴミみたいに思われる時代ですから、隣の席に座ってる友人に、「おまえってすげぇな」と言われたほうがよっぽど満たされます。
問題となるのは、この承認欲求はなろう小説の場合、メインに据え置かれるということです。
通常であれば、承認欲求はマズローの欲望五段階説で言えば、自己実現に相当するわけで、かなり高次の機能にあたるはずです。
高次の機能ということは、本来ならより原始的な欲望によってかき消されるはずなんです。
たとえば眠りたいというときに、誰かに誉めてもらいたいとか考えないでしょう。
しかし、なろう小説においては、誰かに承認されたいという欲求は多数の女の子をはべらせたいという性欲や、うまい飯を食べたいという食欲と同列のレベルで求められています。
小説は文字によって構成されていますから、そういった性欲や食欲などといった原始的欲求と自己実現などの高次欲求が同列に語られるんです。
なぜなら、文字とは象徴化する機能を有し、いずれに欲望であってもイメージから象徴化されたものだからです。
アニメだと、女の子にはかわいいビジュアルと声がついてきています。その図像と声を聞いたときに感じる刺激と、誰かから承認されたという刺激は距離があります。
しかし、小説は違います。いずれも文字であるがゆえに、読者は文字を読み、自分の中で象徴化して取り込んでいるわけです。
だから、小説では承認欲求が生存しうる。
逆にいえば、原始的欲求が少し弱まるといってもいいのかもしれないね。
だって、単純に性欲を満たしたいなら、たぶんアニメや漫画、まあぶっちゃけAVとか見たほうが早いわけだし、食欲も文字で刺激を与えるレベルとなるとかなりの高レベルな筆致が必要になると思う。普通はアニメや漫画の劣化版にしかなりえないよね。いやそりゃあ天才はいるかもしれんけど。
あ、それと、食欲といっても誰かに食べさせておいしいといわれるのは承認欲求のほうになるのかもしれないのでご注意。
ともかく、そんなわけでなろう小説は小説であるがゆえに、承認欲求が他の欲望に劣後することなく生き残るのだろうと思う。かつ、そこの刺激にフックをかけるのが今のなろう小説のやり方ってこと。
で、そうやって承認欲求を満たされる限りにおいては、主人公は成長する必要がないってことなんだ。
だって、ありのままの自分で承認されてるのに、どうして成長する必要があるのってなるから。
それは今の自分の生き方にも沿うものであるから。