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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

妖食レストラン…

作者: K1.M-Waki

 『ソイツ』は、何かに追われているように背後を気にしていた。


 夕刻の空はどんよりとした雲に覆われ、ただでさえ薄暗い路地裏を照らす月光をも遮っていた。たっぷりと水蒸気を含んだ雲は、とうとうその重さに耐え兼ねたのか、地上近くにまで降りてきていた。

 古びた薄暗い街灯は、接触不良でチカチカと点滅している。再開発から取り残されたこのエリアでは、蛍光灯からLED照明への交換も見送られているのだろう。

 そんな頼りない灯さえ遮るように、霧とも靄とも思われる白い塊が辺りを埋めるようになった。

 そのうちに、雨音さえたてない微小な水の粒が、細く静かに地面を濡らし始めた。

「チッ。降ってきたか」

 グレーのコートを羽織った人影は、そう不機嫌そうな声を発した。

 同じくグレーのソフト帽を深く被っているために、顔も表情もよく分からない。

 その嗄れた声から察して、男性、しかも相当の高齢に思えた。


──高齢?


 声だけでは定かではない。『ソイツ』の言葉は、何故か不自然であるような気がした。まるで、ヒトではないモノが、無理をしてヒトの言葉を発しているように聞こえた。

 人工声帯でも移植したのだろうか? 最近の医療技術では、人工臓器による治療は珍しくもない。ただ、『ソイツ』の声で判断するに、移植された声帯の品質は、あまり高くはないと推定された。

 遠くでサイレンの音が響いた。『ソイツ』は、その音にビクリと肩を震わせた。それ以上の不満の声は発せず、『ソイツ』はコートの背中を丸め、霧雨を避けるようにガード下へノロノロと歩いて行った。

 地面を濡らす水滴のせいで、普段でも悪臭が籠もるガード下の匂いは、更に耐え難いものとなっていた。しかし、『ソイツ』は気にする風でもなく、コートの襟を立てて壁に身体を預けていた。

 チカチカ瞬いている薄明かりに照らされる『ソイツ』のシルエットは、どこか不自然に見えた。


──怪我でもしているのだろうか?


 そういえば、コートの袖口が薄黒く濡れていた。『ソイツ』の血だろうか?

 『ソイツ』は、時々左腕をコートの上から擦っていた。静かにしていれば、時折、息を詰まらせたようなうめき声が発せられるのが分かるだろう。だが、ガード下は、定期的に通過する列車の騒音で、そんな微かなうめき声はかき消されていた。


──どれ程の時間が経ったのだろうか……


 細くはあったが、雨は降り続いていた。そのため、ヒビの入ったアスファルトの道は、すっかり黒く濡れていた。ガード下も、天井から滴り落ちる水滴で、ジメッとしていた。

 あまりの居心地の悪さに『ソイツ』も音を上げたのか、壁を擦るようにズリズリと立ち上がると、再び移動を始めた。

 しかし、『ソイツ』に行く当てなど無かった。


──ヒクッ


 その時、『ソイツ』の鼻が何かを捕えた。

「美味そうな匂いだなぁ……」

 それまでほとんど言葉を発しなかった『ソイツ』も、思わずそんな言葉を口に出していた。

 そういえば、もう永いあいだ美味いモノを喰ってない。

 食事は、より良く生きるためには、美味い方がいい。

 『ソイツ』は、最後に喰った美味い『モノ』を思い出そうとした。しかし、あまりに過去の事だったせいか、上手く脳裏に思い描く事が出来なかった。

 思い浮かぶのは、木の根だったり、ネズミの死骸だったり……。山中で山芋を見つけた時には、小躍りして喜んだものだ。スズメは置いといて、山鳩にでも出くわせたら、それこそ幸運(ラッキー)だ。少し手間はかかるが、カメも悪くはない。

 とりとめのない映像ばかりが思い出されたが、どれも上等な食事とは言えなかった。

 『ソイツ』は頭を左右に振った。被っているソフト帽が、動きにつられてズリズリと揺れたが、頭から落ちることはなかった。

 もう一度、『ソイツ』は鼻をひくつかせた。

 微かに、ごく僅かにだが、空気に『美味いモノ』の匂いが混じっている。

 『ソイツ』は慎重に周囲を見渡して、人気のない事を確認した。監視カメラの類も、ここらではまともに機能していないようだ。

 やはり、『ソイツ』は誰かに追われているようだ。

 それでも、背に腹は替えられない。

 『ソイツ』は、『美味いモノ』の匂いの漂ってくる方角を特定すると、ゆっくりと移動を始めた。

 足を引きずるようにズリズリと移動する『ソイツ』の様子は、哀れというか、滑稽にさえ見えた。

 そういえば、コートの上からでも察せられる『ソイツ』の身体のシルエットは、どこか普通の人間の体型とは違っているようだった。

 肥満であるとか、腰が曲がっているとかではなく、……何かがおかしいのだ。肩や腰の位置が、妙だ。どこが変、というよりも、バランスとして奇妙なのだ。肘や膝と思われる凹凸も、やけに出っ張っているように見える。


──奇形


 こんな言葉は使いたくは無いが、そうとしか思えない体つきを、『ソイツ』は持っていた。

 案外、『ソイツ』を追っているのは、病院の職員とか、どこかの研究所のエージェントであるのかも知れない。

 小雨が降り続く中、『ソイツ』はゆっくりとだが、確実に、匂いの発現点に近づいていた。

 道中、道の向こうに、焼鳥やおでんの屋台が見えた。鶏肉とタレの焦げた香しい匂いには興味が持てなかった。練物や根菜の旨みと出汁が醸し出すハーモニーも、『ソイツ』には論外だった。

 何よりも、屋台の周囲には人気があった。それだけで、『ソイツ』は興ざめしてしまった。

 では、『ソイツ』の関心を惹くこの『匂い』は、何なのだろうか?


 平行な地面を歩くには難儀しそうな四肢で、『ソイツ』はズリズリと匂いを追っていた。

 これが罠でも構わない。


──最期には『美味いモノ』を腹に入れて終わりたい


 それだけを思って、足を引きずりながらも、『ソイツ』は路地裏を移動していた。

 一歩々々歩みを進める毎に、少しずつではあるが確実に、匂いは強くなっていった。『ソイツ』は、間違いなく匂いの発現点に近づいている事を確信していた。


(美味そうな匂いだなぁ。何の匂いなんだろう? きっと、凄く美味いモノに違いない。早く喰ってみたいなぁ)


 『ソイツ』は、まるでサメが僅かな血の匂いに惹かれるように、歩みを進めていた。

 時々、ゴロゴロと腹がなる。

 気にしなければいいのだが、喰い物の匂いを追っているだけに、どうしても空腹である事を思い出してしまう。


(あと少し、もう少し)


 何故か『ソイツ』には、目的地までの距離が正確に分かっているようだった。普通の人間の嗅覚では考えられないような感覚を、『ソイツ』は持っているようだった。


(あそこのカドを曲がったら、少し行って左、そして右、その少し向こう)


 もう、『ソイツ』は、目的地を特定しているようだ。しかし、そこに何があると云うのだろう。

 小雨の降り続く中、『ソイツ』は狭い路地裏を目的地へ向かって進んでいた。最後の角を曲がった時、遂に目的地が見えた。


(見つけた、あそこだ)


 『ソイツ』は、十数メートルほど向こうに見える、灯を見つけた。


(アソコに『美味いモノ』がある)


 僅かなその光とこの距離では、そこに何が存在してるのか識別するのは困難であろうと思われた。しかし、『ソイツ』の『眼』には、そこに扉と思しき物と、その下部に連なる石のステップが見えていた。

 どうやら、『美味いモノ』は、その扉の奥にあるのだろう。

 『ソイツ』は歩みを早めると、灯の下へ急いだ。


(ココだ)


 念願の目的地には、確かに古びた木製の扉があった。その扉には朽ちかけた看板らしき物がかかっているようだった。しかし、永の年月を経て茶褐色に変色した板に書かれた墨文字は、『ソイツ』の視力を以ってしても、何が書いてあるかは分からなかった。

 いや、そこに書かれていたのは、『ソイツ』の知っている文字では無かったのかも知れない。

 結局、『ソイツ』は、看板に書かれたメッセージを解読することを諦めた。それよりも、『どうしたらこの向こうへ行けるか』の方が重要だった。

 歳月を経て黒く変色した扉は重厚で、一朝一夕には開けそうには無い。

 だが、『美味いモノ』が、この向こうにある事だけには確信があった。

 分厚い木の扉は、元来濃厚である筈の匂いを閉じ込めようと頑なに遮っているようだったが、『ソイツ』の嗅覚は僅かに滲み出てくる臭気を感じ取っていた。


(どうする……)


 『ソイツ』は、しばしの間、頭の中に思いを巡らせた。

 どうやって中に入る。そして、どうやって『美味いモノ』を手に入れる。その『美味いモノ』は本当に『美味い』のか? もしかして──いや、きっと金を取られるだろう。しかし、現金の持ち合わせは無かった。かと言って、カードを持てるような身分でもなし。

 下手に悶着を起こして、警察を呼ばれたりしたら、元も子もない。

 折角、ここまで逃げおおせたのに、逆戻りとなるのは嫌だった。


 と、突然に、腹が「ぐぅ」と鳴った。

 どのくらい、そうやって考えていたのだろう。『ソイツ』は、自分が空腹である事を思い出した。もう我慢は出来ない。

 『ソイツ』は、意を決すると、扉に突き出ているL字状の取っ手に手をかけた。

 手首に力を加えると、カチリと音が鳴って、取っ手が四十五度ほど下に回転した。ロックの外れた扉が、ギギギと不快な音を立てて、こちら側に開き始めた。

 隙間の出来た入り口から、薄明かりと共に、様々な匂いが溢れ出てきた。

 どれも初めての匂いだと思ったが、よくよく考えると、馴れ親しんだ匂いのようにも思えた。そして、その中には、ここまで追跡してきた『美味いモノ』の匂いも混じっていた。


(間違いない。ココだ)


 『ソイツ』は、思い切って扉を引き開けた。

 薄暗い照明と、様々な匂いに満たされた室内には、きちんと並べられたテーブルと椅子が見て取れた。向かって右にはカウンター席。そのどちらにも、ソースや調味料と思われる小瓶と、紙ナプキンが入っている入れ物が置いてあった。


(ここは、食い物屋か? それで、食い物の匂いが漏れていたのか?)


 室内の様子から、そう判断した『ソイツ』は、店内に一歩、足を踏み入れた。

 身体が店の中に入ると、もう自分を止めることが出来ない。

 背中で、扉の閉まる、バタンと云う音が響いた。「もう出られないかも知れない」などと考える余裕は、全く無かった。

 ただ、本能の赴くまま、『ソイツ』は店の奥に歩みを進めると、カウンター席の中央部程で立ち止まった。そのまま首だけを捻って、室内を見渡す。


 確かにそこは食堂には違いなかった。

 カウンターの向こうには、厨房が据え付けられていた。コンロ、流し、鍋、フライパン、箸、食器、コップ、etc.

 店内の反対側にキチンと並べられたテーブルと椅子は、黒っぽく重厚であった。きっと、入口の扉と同じだけの歳月を過ごして来たのだろう。それらは、自己主張こそしてはいないものの、自分達もこの部屋の一員であると、静かに佇んでいた。

 しかし店内には、客は自分を除いて、ただの一人もいなかった。

 それどころか、店主も従業員らしき者の影どころか、気配さえ無かった。


(なんだ? 無人。……じゃあ、ここは何だ?)


 『ソイツ』の頭に、一時的に思考が蘇った。

 それと同時に、異様な事に気が付いた。


(匂いが……、しない)


 ついホンの数秒前まで、『ソイツ』の鼻腔を占めていた『美味いモノの匂い』が、……いや、それをも覆い尽くすような数々の料理や食材の匂いが消えているのだ。


(しまった。やはり、罠だったのか?)


 それまで『ソイツ』を支えていた、食に対する欲望が急激に薄れていく。それと共に、生への執着すら減衰していくのが自覚された。


──しかし、腹は減る


 グウという音が、再び鳴った。

 その音は、人気のない静寂な室内に、やけに騒がしく響いた。

 『ソイツ』は、一旦よろけそうになったが、カウンターに片手を突く事で何とか体勢を保っていた。


(『美味いモノ』が喰えると思ったんだがなぁ)


 店内の調度が整っているだけに、ここまで追ってきた匂いが美味そうだっただけに、『ソイツ』の落胆は大きかった。


「腹が減ったなぁ……」


 『ソイツ』は、思わずそんな事を呟いていた。


「お客さんですか」


 その時、『ソイツ』の背後から、低い声が聞こえた。

「ひっえ」

 『ソイツ』は声の方に振り向こうとしたが、突然の事であったためか、よろけてしまった。そのまま無様に、床に倒れ込んでしまった。

 尻餅を付いたドスンと言う音と、続いてコートの衣擦れの音が鳴る。だが、それだけだった。椅子も、テーブルも、それ以外の空気でさえ、室内の調和を乱そうとはしなかった。『ソイツ』だけが、この店内で異物であると言わんばかりに。

「てて、ててて」

 『ソイツ』は、尻に感じる痛みに、小さな苦鳴を上げていた。

「お客さん、大丈夫ですか」

 再び、低い声がした。今度は頭の上からだ。

「うぇ」

 『ソイツ』は、そんな情けない声を絞り出すと、声のした方を見上げた。

 そこには、白い服を着た人影が立っていた。頭には煙突のような白い帽子を被っていた。


(この店の主人か? でも、どこから……)


 店主と思しき男は、確かにコックの姿をしていた。だが、『ソイツ』には、何故かそれ以外の事が認識出来なかった。確かに、帽子の下の顔は──顔色こそ蒼白かったが──標準的な『ニンゲン』の顔をしていた。キチンとヒゲを剃った顎はツルツルで剃り跡さえ無く、それが店主に中性的な印象を与えていた……と思う。

 その顔には表情が無く、呟くような声を発しなければ、マネキン人形と間違えても仕方が無いようなシロモノだった。

「大丈夫ですか」

 抑揚の無い無機質な声が、殆んど動かない唇から漏れ出た。

「あ、ああ。こ、ここは?」

 『ソイツ』は、それだけをようやっと絞り出すと、ヨロヨロと立ち上がった。

「食堂……レストランです。『ヨウショクレストラン』」


(洋食レストランか。食い物屋には間違いないな)


 『ソイツ』がボヤッと立っていると、店主は再び言葉を発した。

「お客さん、お一人で」

 勿論一人……と言いそうになったが、それ以前に、ココには『ソイツ』以外に誰も居なかった筈だ。この男は一体どこから現れたのだろう。

「よろしければ、カウンター席にどうぞ」

 無表情な店主は、生気の無い瞳をチラッとカウンターにやると、そう言った。

 その僅かな表情の変化を見逃していれば、まるで機械人形が喋っているようだった。

「で、でも、俺は……、金を持ってないんだ」

 あまりに不気味な店主に、『ソイツ』は、一瞬、空腹を忘れていた。

 だが、それも一時(ひととき)。またしても、腹がグウと鳴った。

「お気遣いなく。お料理と同等の『モノ』が頂ければ、それで構いません。どうぞ、お座り下さい」

 よくよく考えるとキケンな言葉であったが、『ソイツ』は空腹に負けてしまった。


(料理と同等のモノか。魂でも取ろうというのか? まぁいい。どうせ、先の無い生命だ。最期くらい美味い食事をさせてもらおうか)


 空腹で、『ソイツ』の思考は鈍っていたのだろう。片手で頭の帽子を押さえながら、首を縦に振ると、手近のカウンター席に座り込んだ。

 さっきまで霧雨の中を歩いていたため、コートはジットリと湿気を含んでいたが、『ソイツ』は上着も帽子も脱ごうとはしなかった。

 店主が咎めるか、とも思ったが、彼は何も言わなかった。

「ふう」

 『ソイツ』は深い溜息をついた。

 気が付くと、目の前にガラス製のコップが置かれていた。透明な液体が満たされている。お冷だろう。その横には、黄色い竹製の細長い籠に乗せられた、白いおしぼりが置かれている。


(いつの間に! この俺が、気が付かなかったというのか)


 『ソイツ』が驚きを隠せないでいると、

「しばらくお待ち下さい」

 と、正面の厨房から声がかかった。

 店主である。


(え? ついさっきまで、俺の横に立っていた筈だ。いつの間に……)


 この店内は、時間の感覚が麻痺するのだろうか? いや、それ以前に、彼はどこから厨房に入った? 店内とキッチンは、カウンターで仕切られている。二つを繋ぐ動線は……無かった。


 だが、そんな疑問も、食欲の前には無力だった。

 カウンターの向こうには、店主の白い後ろ姿が見て取れた。

 メニューについては、何も訊かれなかった。店主には『ソイツ』が何を望んでいるのか解っているようだったし、『ソイツ』もメニューについては何も訊かなかった。

 強力なバーナーの火力で加熱された油が食材を焦がす、ジュウジュウという音が聞こえる。それとともに、調理される様々な食材の濃密な『匂い』が漂ってきた。『ソイツ』の特殊な嗅覚は、それらの食材が、普通の手段では手に入らないモノである事を知らせた。

 調理が進む中、店主が冷蔵庫から肉の塊のようなモノを取り出した時、『ソイツ』の鼻が、ヒクッと反応した。


(これだ! この匂い。これこそが、『美味いモノ』の匂いだ)


 この世の物とは思えないその甘美な香りに、『ソイツ』は、思わず唾を飲み込んだ。

 身体の芯から登ってくる食欲のせいで、テーブルに置いた両手が、カタカタと振るえる。これまでコートの袖で隠れていた『ソイツ』の手の一部が、僅かに露わになった。

 その肌は、まるで火傷の跡のようにドス黒く変色し、アバタがそこここに出来ていた。『ソイツ』は、これまでどんな生活をしてきたのだろうか、劇薬を浴びたか、強烈な輻射線を浴びたかのような無惨な肌であった。

 だからであろう、『ソイツ』が今までコートとソフト帽で我が身を深く隠していたのは。

 だが、ここでは、もう隠す必要は無い。

 店主の他には、誰も気にする者は居ないし、店主も気にしないだろう。


 調理が進むにつれ、『ソイツ』の口中に、後から後から唾が溢れ出てくる。

 遂に、唾液は口から溢れたのだろう、いつしか粘稠性を持った液体が、少しずつポタポタとカウンターに滴り落ちた。

 のみならず、僅かにだがテーブルから白煙が立ち昇った。


──唾液がテーブルを溶かしている……、いや腐食している


 『ソイツ』の唾液の成分がどんな構成なのか、滴り落ちた液体はテーブルの素材と化学反応を起こして、刺激臭のある蒸気を生成しているのだ。


──あまりの空腹のために、胃酸が逆流したのだろうか?


 だが、それだけとは考えられない、不気味な現象だった。

 しかし、油の弾ける音や、スープから沸き上がる蒸気で分からないのか。それとも、調理に没頭している為なのか、店主は全く気に留めなかった。


(未だか、未だか、未だか。……美味いモノは未だか)


 出される料理を想像して、『ソイツ』はブルブルと身を振るわせていた。両足は、カタカタと床を叩いている。両の拳も、テーブルの上でブルブルと振動していた。

 そして……、そして! 『ソイツ』のコートを羽織った背中が、ザワザワと脈打つように蠢いていた。……まるで、布地の奥で無数の蛆蟲が這い回っているかのように。


──『ソイツ』とは、何者なのだ!


 ヒトに非ざるその全身の脈動は、何を意味するのだろう。幾つかの答えはある。だが、……だがそのどれもが、吐き気を催させるような代物だった。


「ヒ……、ヒ、ヒ。……ヒヒヒヒ、ヒヒ」


 『ソイツ』の口元──と思える部分──から、不気味な声が漏れ聞こえた。これから満たされる胃の腑が、歓喜に打ち震えているのだろう。


「良いぞ、良い匂いだ。美味いモノの匂いだ。未だか、未だか。早く喰いてぇな」


 心の声は、もう隠せなかった。『ソイツ』のヒトとはかけ離れた『声』は、冷水を満たしたコップを共鳴させ、水面に波紋の同心円を作っていた。


「もうすぐだ。もうすぐ、美味いモノが喰える。嬉しいなぁ。……ヒ、ヒヒヒヒ、ヒ」


 食欲の高まりと共に、コートの布を走る異様な蠢きや、唾液で腐食したテーブルから立ち上る白煙も、激しさを増していた。『ソイツ』の『声』に遂に耐えきれなくなったのか、ピシッとガラスコップに無数の細かいヒビ割れが走った。


 『美味いモノの匂い』で、『ソイツ』が我を忘れようとした、正にその瞬間、

「お待たせいたしました」

 と云う、抑揚のない無機質な言葉が聞こえた。


 店内に、再び静寂が戻る。


「あ、ああ」

 目の前に『現れていた』皿に気が付いて、『ソイツ』は我に返った。

 コートの布を蠢かす脈動も、ガラスを砕く悲鳴も、テーブルを焦がす唾液も、……全て無かったかのように、『ソイツ』は冷静に料理の盛り付けられた皿を凝視した。


──そこには、褐色の濃密な汁に、丁寧に煮込まれた塊肉が浮かんでいた


「※※※※※※の舌肉の煮込みシチューでございます」


 冷え切ったように静かな室内に響く店主の言葉からは、主役がナニか、よく聞き取れなかった。いや、もしかしたら、それは人間界で呼び交わす単語には含まれていないモノだったのかも知れない。


「これだ。やっと来た。……美味いのか?」

 行き過ぎた食欲のせいで、『ソイツ』は、目的のモノを眼の前にしても、すぐには手を出せないでいた。

「万物にとって美味しいかは分かりかねますが、お客さまにとっては最上級のお品です。※※※※※※は、お好きでしょう」

 店主は機械のような声で、そう言った。『万物にとって』と。決して、『万人にとって』では無かった。それが、返って食材の正体を探求する好奇心を、恐怖に変質させる。

「ああ。※※※※※※は、『俺達』の大好物だ。だが、舌は喰った事が無いなぁ……。何故、分かった」

 『ソイツ』の疑問に、店主は次のように応えた。


「ここは、『ヨウショクレストラン』ですから」


 数秒の間、『ソイツ』は、何かを考えていたようだった。


「そうか。ココは、『妖食(ヨウショク)レストラン』なんだな」

 と、『ソイツ』は、呟いた。

「はい、左様でございます」

 店主の乾いた返事に納得したのだろう。『ソイツ』は、目の前の『美味いモノ』を摂り入れようと、身を乗り出そうとしていた。

 今、正に食事に取りかかろうとするその時、『ソイツ』は思い出したように、店主にこう訊いた。

「そうだ。代金だが……」

 『ソイツ』は、そう言った途端、左手を頭上に振り上げた。

 コートの袖口から表れた手には、黒光りする禍々しい爪を持った指が十本、イソギンチャクの口のように円形に生えていた。

「前金で払いたい。……これを、食事の代金として受け取ってくれ」

 『ソイツ』はそう言うと、振り上げた左手を自分の『右胸』に振り下ろした。

 コートの布地を引き裂いて、その爪は自らの胸を貫いた。のみならず、その奥に蠢く臓器を掴んで引きずり出したのである。

 ベキベキと、異界の肉と骨を引き裂く、耳を覆いたくなるような音が響いた。

 青緑色の、異臭を放つ粘稠な体液にまみれながら、『ソイツ』は、手にしたモノを店主に差し出した。

 まだビクンビクンと脈動し、体液を吹き上げ続ける肉の塊を見て、

「確かに、『♯♯♯♯♯♯の心臓』でございます」

 と呟くと、その顔に、初めてはっきりとした表情が浮かんだ。

 それは、……それはまるで、……いや、辞めておこう。これ以上は、あまりに悍ましくて『ニンゲンの言葉』では語る事が出来ない。


「確かに頂戴いたしました」


 店主の言葉に気が付くと、『ソイツ』の──いや、『♯♯♯♯♯♯』の心臓は、いつの間にか、その左手から消えていた。


「では、お召し上がり下さい」


 カウンターの向こうでそう言う店主の右手には、銀色に輝くトレイが乗っていた。

 彼は、『ソレ』を仕舞うために、くるりと振り返って冷蔵庫に向かった。

 パサリと重たい布が床に落ちる音がした後、店主の背中にお約束の言葉が投げかけられた。


「イタダキマス」


 それは、ヒトでは無いモノが無理をしてヒトの言葉を発しているように聞こえた。



      (了)




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