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ぱたぱたと団扇で仰ぐ音が響いている。あたりに漂うのは焼き肉のタレが焼ける良い匂いだ。
「−−ッつうか、何してんだコリャ」
「何って……食い物に執着してるから、匂いで手っとり早くおびき寄せてる」
昨晩般若面の男と遭遇した場所からほど近い公園の真ん中で、鈴音は七輪を使って焼き肉を焼いている。背後に立つ祥吾に答えながら、団扇を持つ手は止めない。姿は見えないが、猫又2匹も近くに潜んでいるはずだ。
「だってよー、執着してるの食いモンだけじゃねぇんだろ」
その言葉と共に、鈴音の背に重みがかかる。
「……何してる」
肩越しに振り返ると、祥吾の顔が間近にあった。手を回され、抱きしめられる。
「何って--リア充ッぷりを見せつけてやろうぜ」
「……」
無言を肯定と捉えたのか、祥吾の手がするりと降りてコートの中に差し込まれる。その手を鈴音は掴み--万歳をするように勢い良く両手を上げて戒めを外した。
地面に引き倒し、首と胴に足をかけ腕を引っ張る。
「ちょ、イテ、イテェッて!」
「どーだ、寝技で戯れるリア充アッピル」
ギブだという叫びを無視し、鈴音は腕ひしぎ十字固めを続ける。セクハラをしてくる祥吾に暴力で反撃するのは、高校時代から続く恒例の掛け合いだ。若干本気で反撃をしているが、このじゃれあいは嫌いではない。
「ギブだッてのオイ! --げ」
唐突に騒ぐのをやめ、祥吾は硬直した。自由な方の腕で、しきりに鈴音のズボンの裾を引っ張る。
「なんだ、もう限界か? 早い--」
「ばッか、違ぇよ! 後ろ見ろ、後ろッ!」
馬鹿呼ばわりにむっとしながら、鈴音は振り返った。
最初に視界に入ってきたのは、土で汚れた足だった。筋肉で盛り上がり、血管が浮いている。そのまま視線を上げると、大太鼓のような腹、丸太の如き腕--と視界に入り、最後は体の大きさの割には小さい頭で視線が止まった。その顔には、昨晩見た般若面が着けられている。
恐るべき変化に呆気にとられていると、巨体が体勢を沈めた。風を唸らせながら跳躍する。
「ぅおあっぶねぇッ!」
「やっ、べっ!」
慌てて飛び退いた2人がいたその場所に、巨体が降り立った。踏みつぶされた七輪が砕け、破片と炭が飛び散る。
「おい、すず! 小太りの男じゃねぇだろ、あれはッ」
「き、昨日は普通の--普通の? おっさんだったんだよ!」
怒鳴り合いながら、お互いに構える。祥吾の武器は日本刀、一方鈴音は無手だ。
「面を外せば元に戻る、と思う。ある程度傷つけるのは仕方ないが、面は無傷で奪還する!」
「へいへい。ッたくあの蝙蝠、面倒なことさせやがって……オラ、来いよ!」
獣じみた吼え声を上げ、般若面の巨体が祥吾の方を振り向いた。体躯からは想像できない機敏さで、祥吾に迫る。
振り降ろされた右の拳をかわし、祥吾は刀の峰で右臑を打ち据えた。怒りの声を上げ、巨体が振り向く。薙ぎ払われた腕は空を切り、無防備になった脇腹に鈴音の掌底が打ち込まれる。
よろめき片膝を付いた巨体の背後から、大型犬サイズの黒猫と白猫が飛びかかった。鋭い爪で背中を引き裂く。
苦悶の声を上げ、巨体が倒れ伏した。
「お、楽勝じゃねぇか?」
愛刀を肩に乗せて笑う祥吾の傍らに、音もなく猫らが降り立った。二股に分かれた尻尾が揺れている。
「でも手応え無さすぎでしたにゃ」
「ええ。--マスター、ご警戒を」
黒猫あんこの声に手を上げて応えつつ、鈴音は巨体に近付いた。深々と裂かれた傷が泡立っている。どうやら再生されているようだ。
立ち上がられた時のことを考え、首を跨いで面の紐に手を掛ける。紐はあっさりと解け、面は容易く外れた。拍子抜けしながら手に取る。
「持ってるだけで陰の氣を--」
強く感じる、と言い掛けたところで、手に衝撃が走った。思わず面から手を離す。弾かれたように面が飛び、地面に転がった。
「すず! 大丈夫か?」
「いってー……俺は平気だけど、面が--」
うぞり、と黒いヘドロのようなモノが面から湧きだし、芋虫のような姿を形どった。
「あれが本体のようですにゃ!」
すっかり元の体型に戻った元般若面の男を庇うように立つ鈴音に、白猫しらたまが寄り添う。
「へへへッ、面を切り離しゃいいんだろ? 余裕だぜ」
言うなり祥吾は面の本体に向けて駆けだした。尻尾による薙ぎ払いをジャンプで回避し、刀を振り下ろす。面の本体が飛び退き、刀は僅かに掠っただけだった。
「ちッ、良い反応じゃねぇか」
体を反転し、面の本体が祥吾に向き直る。
その足下が突如さざめき、鰐の如き漆黒の咢が浮上した。ヘドロ状の体に喰らい付き、地面に引きずり込む。粘着質な租借音が響くなか、体を殆ど持っていかれた面の本体は大きく痙攣し、崩れていった。
音も止んで、後には面だけが残る。
白い手が、それを拾い上げた。紅の瞳で、しげしげと面を見ている。
「あー……あかりん?」
鈴音の呼びかけに、紅璃は視線を面から上げた。瞬きをすると紅に染まっていた瞳が黒に戻る。
彼は涼しげな顔で答えた。
「近くを歩いていたら、戦っていたから」
助力した、ということだろう。彼の性格を良く知る鈴音には、横取りをするつもりではないということがわかる。
「そっか。ありがとう」
「いや」
礼を言われ、紅璃は薄く、しかし嬉しそうに微笑んだ。手を差し出した鈴音に、素直に面を渡してくれる。
「しかし……凄い面だね。あれだけ喰っても、まだ力が残っている。--やはり工事現場の影響かな」
「工事現場?」
「ああ。怨念の溜まり場が、工事をきっかけに解放されたから。……瀧上さんからメールが行っている筈だけど」
見せてほしい、という祥吾に面を渡し、鈴音はスマートフォンを取り出した。確かに、未読のメールが1つある。
「今気付いたわ。--なるほど、焼け落ちた診療所か」
素早く目を走らせ、内容を確認する。
顔を上げた瞬間、何かが割れるような乾いた音が鳴った。嫌な予感を抱きながら、恐る恐る後ろを振り返る。
祥吾の手の中で、面が真っ二つに割れていた。
「お、お前それ後で才蔵が店で売るから無傷でって!」
「ち、違ぇって! 見てたら勝手に割れたんだよッ!」
慌てる2人を余所に、紅璃が冷静に呟く。
「陰氣の固まり故に、久遠寺君の陽の氣に反発して割れたのかな」
「やっぱりお前か!」
「やっぱり、じゃねぇ! 不可抗力だッ」
喚きながら取っ組み合う2人を眺めつつ紅璃がフォローを入れる。
「そもそも、最早売って良いような代物では無かったと思うけど」
「……報酬、既に貰ってるんだよ」
鈴音は部屋の隅に置いておいた風呂敷包みの中身を思う。あれを返却する気は更々無い。
「うーん……「こんな危険な物を流通させて、御滝の地を守ることに影響しませんか」でどうかな」
「まぁ、力吸い取りきっても、またチャージされないとも言えないしな」
仕方ないか、と納得する鈴音の後ろで、祥吾がほっとしたように息を吐いた。
「祥吾にはラーメンでも奢って貰って手を打つか」
「くッ、しゃあねぇな・・・・・・800円以内だかんな」
「あのー」
声を掛けられ鈴音は振り向く。少し離れた所で、猫又2匹が座っている。その足下には気を失ったままの小太りの男が倒れている。元の姿に戻ったときに傷も癒えたようだ。
「この人、どうしますにゃ?」
「私たちで櫻木病院に運びましょうか」
櫻木病院は退魔師協会に加盟する病院だ。人ならざるモノ絡みの病気や怪我を扱っているほか、そういったモノが起こした事故や事件に巻き込まれた人へのフォロー、という名の記憶操作も行っている。
「そうだな。じゃ、頼む。……ふたりで平気か?」
「はいですにゃ」
「承知しましたマスター」
人型となった猫又2匹はお辞儀をすると、ちらりと紅璃を見てから2人掛かりで小太りの男を持ち上げた。軽々と住宅の屋根まで跳び上がり、遠ざかっていく。
「……相変わらず、ビビられてんのか柳瀬」
「うん……鈴音が抱いてるときしか撫でさせてくれないよ」
猫又らの背中を見ていた紅璃が溜息を付いた。自らの影から咢を伸ばして人ならざるモノを喰う、というのが怖いらしく、2匹の猫又は紅璃を避けている。紅璃の方は敵意が無いどころか、可愛がりたいようなのだが、その思いはなかなか届かない。
「いつか僕は……手からご飯を食べてくれる位親しくなりたい」
「そ、そうか。まぁ頑張れや」
祥吾に肩を叩かれ、紅璃が頷く。素直で友人思いな良いヤツなんだが、と鈴音はその背中を見て内心呟いた。
「--っと、そうだ。近くを歩いてたって、工事現場を見に行ってたのか?」
「え? ああ、周辺の夜の様子を調べていたんだ」
紅璃は眉を顰め続ける。
「--今のところ範囲は狭いが、影響を受けて強力になった人外が結構いたよ」
「へぇ……俺が倒したヤツも同じか」
昼間の話を祥吾がすると、紅璃は頷いた。
「早めに対応しなくてはならない。今日は様子を見て、明日の夜に--」
言い掛けて、紅璃は何かを言い淀んだように一旦言葉を切った。視線を逸らし、続ける。
「--瀧上さんのメールにもあると思うけど、明日攻め入るつもりだ」
「ふーん……? まあ、そういうことなら俺らも明日行くか」
何を隠しているのか、気にならないこともないが、鈴音は追求しないでおいた。