二巻発売記念・世界で一番お姫様!
一巻特典SSですが、二巻発売に合わせて解禁しました。
本編更新までのつなぎとしてお楽しみください。
乙女ゲームさんの生存報告です。
……生存報告?
カーテンを透かして差し込む光に、ゆっくりと眠りの中から意識が浮かび上がる。
ベッドサイドのナイトテーブルには、日差しを受けて、まだ仄かにラベンダーの香りを放つポプリボウルが、天井に反射を投げている。
柔らかな絹の寝具と、絹の夜着に包まれて朝を迎えたのは、少女らしい甘やかな可愛らしさ、という意匠で天井から床までを覆われた寝室の女主人――サヴィニャック子爵家の一粒種である、アナ=マリア・マルゲリット・ガブリエル・サヴィニャック嬢その人である。
薄桃色の砂糖菓子を思わせる髪がふうわりと揺れ、日に透ける若葉に似た翠の瞳が、白い瞼の間から現れる。
ふわ、と小さく可愛らしい吐息を、朝露に濡れた薔薇の蕾のような唇からこぼし、アナ=マリアは寝台の上に身を起こすと、ポプリボウルの脇に置かれた純銀のベルに手を伸ばす。
りん、と澄んだ音を立てベルが鳴ると、隣室で朝の身支度の準備をしていたメイドたちがやってきた。
お早う御座いますお嬢様、のお定まりの挨拶を聞き流し、寝台の上掛けをめくって足を降ろし、刺繍の施された柔らかな絹の室内履きに足を入れ、化粧室に通じる扉へと歩き出すと、メイドの一人が素早くその扉を開ける。
化粧室には、洗面台にまだ背の届かないアナ=マリアの為に、優雅なカーブを描く猫足の台が置かれ、その上には、ほどよい冷たさの水が注がれた磁器の洗面器と清潔で柔らかな布、洗面後の肌に付ける薔薇水の瓶が並んでいる。
顔を洗い、薔薇水を付けると、メイドたちが卓を片付け、化粧室の片側にある衣裳部屋の扉を開けた。
「今日のお召し物はいかがなさいますか?」
色とりどりの砂糖菓子を並べたような、甘やかで柔らかな色合いのドレスの中からアナ=マリアが選んだのは、膝丈よりや長い、勿忘草色のドレスである。
所々にあしらわれた泡雪のようなレースと、サテンのリボンのウルトラマリン・ブルーが、いいアクセントになっていて、「ちょっと背伸びをしたい、でも可愛くいたい少女」を演出するにはぴったりの一着である。
ドレスを決めれば、着替えと髪のセットはメイドの仕事となる。
夜着から下着になっても、アナ=マリアは眉一つ動かさない。下着姿を見られて恥ずかしく思うのは、相手が同等の人間だからだ。
家財道具や犬猫に見られたところで何を恥じればいいのかと、仮にこの場に館の下働きの男が入ってきたとしても、アナ=マリアは眉一つ動かすことはないだろう。
着替えが終わったところで、部屋履きを、ドレスと同じ勿忘草色の花飾りで飾られたエナメル靴に履き替え、鏡台の前に座る。
髪を梳かし、編み上げ、飾るのもメイドの仕事だ。
ブラシを手に、ぎこちない手つきで髪を梳くのは、いつものメイドではない。
緊張しているらしく、変な具合に力を込めてしまったらしい。
「痛い!」
愛らしい声が鋭く叫び、メイドの手からブラシが落ちた。
「……もういいわ。下がらせて」
愛らしさとは裏腹の、ひどく冷たい響きの命令に、髪を梳いていたメイドの顔から血の気が引く。
申し訳ございません、お許し下さい、と絨毯に額をこすりつけんばかりに謝罪するメイドには目もくれず、アナ=マリアは別のメイドに髪を梳かせながら、愛らしい野の花の花束が描かれた、磁器の小さな容器と紅筆を手に取った。
本物の、成人した女性のための口紅ではなく、唇が荒れないよう、蜜蝋と数種類の香草の精油にごく少量の紅を混ぜ、練り合わせたものだが、将来紅を引くときのための練習も兼ねているので、手つきは真剣そのものだ。
丁寧に梳かれ、絹の滑らかさと光沢をまといながらも、羽毛の軽やかさで緩く波打つ髪は、また別のメイドの手で整えられる。
ウルトラマリン・ブルーのリボンと勿忘草色の花の髪飾りで、元の髪質を生かすため、最小限の、しかし凝った編み方で編まれた髪を留めれば、身支度は終わる。
ただし、アナ=マリアがその仕上がりを気に入れば、の話だが、どうやら今日は、一回目で仕上がりに満足がいったようだ。
身支度が済めば、一階の主食堂での朝食が待っている。
食事の邪魔にならない、香りの弱い生花で飾られたテーブルには、母と父が既についていた。
一番の上座に母、その次に父――ではなくアナ=マリア。準男爵家からの婿養子であり、実質上の当主である母はもとより、次期当主となるアナ=マリアよりも、サヴィニャック家において地位の低い父は、末席にいる。
食事が始まれば、母と娘の会話は弾むが、父はただ黙々と食事を取ることに専念するのみであり、いかに軽んじられているかが伺われる。
「そうだわ、お母様。今朝、わたしの部屋に来たメイドなのですけれど、使えないのが混じっていましたわ。後でメイド長に言っておいてくださいまし。髪を引っ張られてしまいましたの」
銀のカトラリーを優雅に使いながら、何気ない会話の流れの中に、アナ=マリアが投げ込んだ一言に、給仕のため主食堂にいたメイドたちの動きが、一瞬止まる。
「まあ、何てこと。可哀想なマリー、さぞや痛かったことでしょう」
「びっくりして、つい叫んでしまいましたわ。お母様、わたし、あのメイドには二度と支度をさせたくありません」
「大丈夫よ、わたくしの可愛いマリー。二度はありませんから、安心なさい」
二度はない。
それは、件のメイドを屋敷で見ることは二度とない、ということに他ならない。
以前のアナ=マリアであれば、そうした些細な失敗を咎めることはなかった。
『わたしは大丈夫よ。それよりあなたは?』
失敗をした使用人を案じるような、そんな少女であったが、今ではすっかり、母である子爵夫人の縮小版のような、驕慢な貴族令嬢そのものだ。
「ありがとう、お母様。ところで、ダンスなのですけど、カドリーユはもう合格ですって。明日からはワルツのお稽古だそうですわ」
「ふふ、ダンスもですけれど、チェンバロも刺繍も、とても覚えが早くて、すぐに教えることがなくなってしまいそうですと、先生方が言っていらしたわ。わたくしも鼻が高くてよ」
「ねえ、お母様。わたし、歴史と算術のお勉強もしたいんですの。いいでしょう?」
「まあ、そのようなことは、殿方がなさることよ?」
「でも、殿方はそうしたお話をよくなさいますのでしょう? 全くわからないなんて、教養がないと思われてしまいますわ」
サヴィニャック家の娘として、恥ずかしいですわ。
そう言い添えれば、母がすぐにでも教師を手配し、望む教育を受けられることを、アナ=マリアはよく知っている。
――スタート前のパラメータ上げって、追加コンテンツのボーナスよね。これなら、二周目の解禁ルート、一周目から攻略できちゃいそう。
そんな内心をおくびにも出さず、微笑む。
今現在アナ=マリアとして存在し、アナ=マリアとして振る舞っている少女にとって、母も父も、否、世界そのものが自分のためのものであった。
望めば、ほぼ大概のことが叶う環境と、一粒種の跡取り娘として、蝶よ花よと育てられたことも、彼女の現実認識を後押ししていた。
――本当は、魔法も習いたいけど、まだ早いって言われそうよね。歴史と算術は、宮廷魔術師の息子ルートでも、王太子ルートでも必要だから、先にこっちでいいかな。
そんなことを考えながらの朝食が済めば、ダンスの稽古までチェンバロを弾いたり刺繍をしたり、十四行詩を集めた詩集の頁えおめくってみたり、ダンスの稽古のための衣裳をどうするかを考えて暇を潰す、退屈な時間が待っている。
ダンスの稽古が終われば、また、これといってすることのない退屈を紛らわせるため、書き物机に向かい、茶会や舞踏会へ客を招くための優雅な招待状を書く練習をしてみたり、レース編みをしてみたりと、およそ生産性や労働とは無縁の活動で時間を潰すだけ。
時折、母の友人である近在の子爵夫人や男爵夫人が主催する茶会に、母と共に出席しては、令嬢たちと今年の流行についてや来年の流行の予想、互いの装身具の褒めあいをしながらコネクションを作るくらいしか、やることがない。
――つまらないけど、入学するまでは我慢しなくちゃ。入学したら、生徒会のみんなはわたしのところにやってくるの。みんな、わたしに愛されたくて、必死になってわたしの気を引こうとするのよ。わたしの笑顔一つで何でも言うことを聞いてくれる、大事なお友達になってくれるの。そうしたら、退屈なんて絶対しないわ。
居室に戻り、サヴィニャック家の紋章にも使われている、五枚花弁の薔薇が織り出された布張りの椅子に凭れ、くすくすと忍び笑いを零しながら、レースの縁取りがされたハンカチの刺繍の続きを始める。
まだ十にも満たない少女であるにもかかわらず、浮かぶ笑みは、網にかかる獲物を待つ蜘蛛を思わせ――言いつけでティーセットを運んできたために、その笑みを見てしまったメイドは、言葉には出さず、胸の内で祖神礼拝の聖句を呟く。
楽しげな表情で、アナ=マリアは白絹のハンカチに針を刺し、大輪の薔薇を描いていく。
純白の上に、一針一針ごとに咲き広がってゆく薔薇色に、自らの未来を重ねながら。