ツァスタバにぶんのいち? 外伝 ~少年は大志を抱く~
誕生日なので、外伝をうpしてみました。
没SS再利用のリサイクル品ですが、どうぞ。
イビは、享楽の街である。
そこそこ上品で、そこそこエロティックな、あくまでも健全で、家族連れでも楽しめるレビューやショウを見せる表通りの店から、裏通りに立ち客を呼び込む街娼や、人に言えない趣味嗜好を満たしてくれる特殊な店まで、楽しみ方はピンからキリまで。
女の他にも、遊びと割り切り、さほど懐の痛まない額で一時のスリルを楽しむカジノもあれば、出て行く時は、向こう数年は遊んで暮らせる御大尽か、肌着一枚ない身元不明の行き倒れの二択の賭場まで、何でもござれ。
華やかな表通りの賑わいとは無縁の、落ちた場所からはい上がる気力もない連中が、安酒の臭いにまみれて転がっている裏通りで、少年は、一振りの短剣を握りしめながら、建物の間の細い路地に身を潜めていた。
博打で身を持ち崩し、モグリの金貸しに借金を作ったあげくに逃げ出した父のおかげで、一家は、父の作った借金を背負わされた。
ろくに働かない父の代わりに、六つの頃から市場で荷運びの真似事をして少年が稼いだわずかな日銭で、どうにか食いつないでいる状態で、借金の返済など夢のまた夢だ。
一向に減らない借金に、四つ年上の姉――つい半月前、十四歳になったばかりだ――に、金貸しが妾奉公を持ちかけてきたのは、つい数時間前のことである。
ふざけるな、と激昂する少年に、金貸しは下卑た笑いを浮かべて、親孝行させてやろうと言ってるんだがのう、と抜かしたのである。
刃こぼればかりで、刀身には錆の浮いた鈍らであったが、咄嗟に掴んでぶよぶよとだらしなく膨らんだ腹に向けた短剣の切っ先は、金貸しを追い返すには十分だった。
初めて手にした武器は、少年に、武器を借金返済の手段に選ばせるだけの魅力が――魔力があった。
武器があれば、自分の意思を貫ける。武器で脅し、他人のものを奪い取ることは、立派な犯罪だ。だが、そのような認識は少年の頭の中から弾き飛ばされてしまっている。
誰でもいい。今夜、この場所を通りかかる者であれば、教会の教父様だろうが、精霊様だろうが、世界を御造りになられた祖神様だろうが構いやしない。
誰でもいい。誰か。誰か、来てくれ。
そう願いながら、どれだけの時間が過ぎただろうか。
必死の願いを聞き届けたように響いた、かつん、と硬い靴底が石畳を叩く小さな音に、短剣を握りしめ、通りにまろび出た少年の目に、最初に飛び込んできたもの。
――つ、き?
ろくに明かりもない裏通りの露地には似つかわしくない、きらきらと光り流れる、銀の滝。
少年が月と見たのは、漆黒の外套の背中を覆い流れる、銀の絹糸の如き髪であった。
かつん、と靴音が止まり、銀糸の滝が揺らぎ、黒い背が振り返る。
刺されたくなかったら、有り金全部置いていけ。
その言葉は、少年の喉の奥で声もろともに石となり、少年を凍りつかせた。
教会の精霊像のように白いが、精霊像など足元にも及ばない、憂いを帯びてなお輝かしい美貌は、確かに男のそれであるが、人が想像し得る美の範疇に収まらぬものを、何と形容すればいいのか。
世にも繊細な銀細工の睫に縁取られた、透き通った一対の蒼の深さに、気が遠くなる。
ごく淡く透けて見える血の緋が、それが血肉を備える生きた人であると示す唇が、静かに開いた。
「どうした、使わんのか?」
若く、しかし重みのある涼やかな声に打たれ、少年は、ようやく自分の手の中にあるものが何であるかを思い出したが、あれほど心強く、頼れるものであったはずのそれが、ひどく重たく感じられた。
冷たい水にずっと浸けていたように指が強張り、口の中が乾涸びたように乾く。
喉が引き攣れ、少年の中で膨れ上がり、形もないまま暴れていた衝動が、冷え固まり凋んでいく。
がたがたと瘧にかかったように震える少年に、男の表情が動いた。
自分のしたことの、予想外の結果に怯えている子供を見るように、仕方ないとでも言いたげな眼をして、溜息にならない程度に小さく息を吐く。
「使えないのなら、無理をするな」
黒い革手袋に包まれた手が、少年へと伸ばされる。
殴られる、と反射的に目を閉じ、身を固くした少年だが、衝撃はいつまでたっても訪れなかった。
ぽすん、と犬猫を撫でるように頭に乗った重みに、恐る恐る目を開ければ、ただ静かに少年を見ている蒼と、視線がぶつかる。
「……あ、お、おれ、おれ……」
しどろもどろに、それでも何かを言わなければと必死で言葉を探す少年は、同情でも憐憫でもなく、ただ、少年が「子供」であることを理由にその身を案じる眼差しに、心臓の裏側から、縺れ絡まり、最早元が何であったかもわからない感情の塊が溢れるのを感じた。
積もりに積もったものを一気に吐き出すように、拳を振り回し、音の連なりでしかない声を上げて泣いて喚いて、激情の波が去り――昇っていた血が頭からすうっと引いていく。
――おれは、何をしようとしてたんだ。
手の中にあるものが、急に、得体の知れない虫の死骸か何かのような薄気味悪いものに思えてきて、手を離そうとするが、強張った指は思うように動かない。
見かねたように、強張る指を、黒い革手袋の指先が外していくが、滑らかな革の下にある、人体の持つ温度が、どうにも不思議だった。
石か、氷か、そういったもので出来ていたとしても、寧ろ納得がいく。自分と同じ、血の通う肉を備え、体温を持つこと自体、何かの冗談なのではないだろうか。
ぼんやりと、長い指に短剣を握る自分の指が解かれていくのを眺めていると、ふっと掌の上から重みが消えた。
少年の掌の上から、黒い皮手袋の大きな手の中に収まった短剣は、毒を持つ牙をもがれ、死んだように干乾びた蛇を思い起こさせた。
「……怖ろしいか、武器が」
少年は顔を俯かせたまま、ぎゅっと両の手を握りしめる。
「武器があれば、大概のことはできる。無理にでも自分の意思を押し通すことができる」
あの時は、確かにそう思った。だが。
「それを怖ろしいと、思えたのだろう?」
男の言葉に、ふっと足から力が抜けた。
だが、少年の問題は、何一つ解決した訳ではない。
憑き物が落ちたように、逆上せあがっていた頭は冷えたが、抱えた借金が消えてなくなる訳ではない。
「……おれ、どうすれば、いいんだろ」
道に迷った子供とも、疲れ切った老人ともつかない呟きを、少年はぽつりとこぼす。
母と姉は、どこまでも、どんなことになっても、誰かに頼る側の人間であることをやめることはない。
まだ幼い弟と妹も、本来なら母や姉や、少年に頼る側であるはずなのに、少年の背を見てきたせいか、少年が日銭稼ぎに荷運びをしている市場に潜り込んでは、傷み始めて捨てられた野菜や果実、粗忽者が落とした小銭をせっせと拾い集めるようになった。
弟たちを子供でいさせてやれない、少年を子供でいさせてくれない現実は、いつだって少年を押し潰そうとしている。
「無理に背負い込めば、潰れるぞ」
「でも、無理しなきゃいけないんだ、おれは」
「無理は、お前だけがしなければいけないのか?」
「……っそ、れは……」
責めるでも、叱るでもない、ただ淡々とした男の言葉に、少年が言いよどむ。
苦労ばかりかけてごめんなさいね。私も働ければいいのだけれど。
市場から帰った少年に、母と姉はいつもそう言っていた。いつもいつも、そう言うだけで、市場の気のいい連中が教えてくれた、針子や飯屋の下働きの口の話をしても、もっともらしい理由を付けてはなし崩しに有耶無耶にして、自分で動こうとはしなかった。
結局のところ、母も姉も、少年の無理の上で、貞淑で不幸な妻、健気で気の毒な娘という「悲劇の女主人公」の立場に気持ちよく浸っているだけなのだと、本当はどこかで分かっていた。
分かっていたけど、そうだと思いたくないから、気付かないふりをしていた。気付いてしまったら、二度と立ち上がれない気がしたから。
だけど、気付かないふりをやめてしまった少年は、途方に暮れていた。
今までの自分の努力が、無理が一気に色褪せ、どうしようもなく下らない、安っぽい自己陶酔の自己憐憫にしか見えなくなってしまった。
「お前が背負っても潰れず、お前に背負われるだけではなく、お前を支えるものは、ないのか?」
言われて、少年の頭に一番最初に浮かんだのは、弟と妹の顔だった。
市場で荷運びをする少年の姿に、誰に言われるでもなく、自分たちでもできることを探し、それを始めた。
今はまだ、少年だけで済んでいるが、母と姉が、もたれかかる対象をあの二人にまで広げたら?
考えて、背筋がぞっと冷たくなった。
妾奉公という言葉に少年が激昂したのは、何も成人前の娘に貞操を売れと言われたからではない。言われた姉が、まだ八つの妹を自分の前に押しやろうとしたのを見てしまったからだ。
「けど、おれみたいなガキ、ちゃんとしたとこじゃ、雇ってくれねえ」
市場の連中は、少年の事情を知っているから、仕事をさせてくれているのだ。
弟と妹のことも、だから目こぼししてもらっている。
「歳は?」
「……こないだ、十になった」
「ならば、できることがあるだろう」
男の言葉に、はっと目を見開く。
そうだ、十になったのだ。
あと二年我慢すりゃ、独り立ちできるだろうから頑張れよ、と、冒険者ギルドのことを教えてくれた市場の親爺の言葉を、何故、忘れていたのだろう。
そんな危ないことはしないで。いつかきっと幸せになれるから。母と姉が繰り返し繰り返し耳に流し込んできた言葉に、いつの間にかその選択肢を捨てていた。
ひとり立つための足があり、何かをなす手があり、できることを探す目があり、にも関わらずその全てを放棄して、誰かにべったり凭れかかり、可哀想な自分に気持ちよく酔うために欠かせないものを手放すまいとしていただけで、少年を案じていた訳ではないことは、もう、分かっている。
だが、血を分けた肉親を見捨てるのかと、そう問う声もある。
わたしたちを見捨てるの。ひどい、わたしたちはこんなにも可哀想なのに。
耳の底にへばり付き、まとわりつく声が、少年の足を竦ませる。
だが。
「誰のためでもなく、お前のために選び、お前のために決めろ」
静かな声に、少年が伏せていた顔を上げる。
まだ、迷いはある。母と姉を切り捨て、弟と妹を選んだことを、もしかしたら後悔する日が来るかもしれない。
それでも、今、確かに自分は自分の人生を生きることを選んだのだ。
どこかに迷いを引きずりながら、しかし、強い光を宿した少年の目に、男の口元を、ほんの一瞬よぎったのは、微かだが確かな笑みであった。
その、一瞬の笑みに釘付けになっていたせいで、少年は気付かなかった。自分の手の上に、握りを鹿革で巻き、精緻な彫刻のなされた柄頭と鍔を持つ、頑丈な鞘に収まった一振りの短剣と、子供の手に余らぬ二振りのダガーが落ちてきたことに。
それを、反射的に受け取っていたことに。
「なあ、あんた、これ!」
我に返った少年が、手の中のそれに気付き、声を上げた時には、男の姿は少年から大分離れた路地の奥であった。
かけられた声に、男は一瞬立ち止まり、
「こいつの代金だ」
少年の、あの見窄らしい短剣を掲げて見せ――路地の奥へと消えていった。
ドーナの街を拠点に活動する、小規模なクランがある。
イビの街から来たという三人兄妹――兄二人と妹一人のみと言うクランだが、ドーナに来たばかりの、尻に卵の殻のくっついたヒヨッコの時分から、堅実で丁寧な仕事ぶりで評価を得ていた。
長じて位階が上昇しても驕らず、自分たちの能力の限界をきちんと見極めた上での確実な仕事ぶりから、ドーナはもとより、その近隣にも名が知れ始めている。
クランの長でもある長兄は、常に一振りの短剣を身につけていた。
柄に巻かれた鹿革の紐がぼろぼろになれば、新しい革紐を買って巻きなおし、何年も、丁寧に手入れをして使い続けている。
買い換えないのかと聞かれても、長兄は少しだけ笑い、黙って首を横に振るだけで、決して手放そうとはしなかった。
ただ一度だけ、酒の席で、決して手の届かぬ存在に、そうと分かっていても思い焦がれて止まない、そんな羨望とも渇望とも希求とも取れる眼差しを短剣に向けながら、天から降りてきたお月さんからの贈り物だ、と弟妹たちに言ったことがあるが、それ以上のことは何も言おうとはしなかった。
その影に、グー○ル先生助けて! 黒歴史の忘れ方が見付からないの! と奇声を発して転げ回る残念奇行子の存在があったかどうかは定かではない。
……М仕様、紳士キャラにすべきだったかと思う今日この頃。
ゴージャスな獣という紳士にときめきがとまらない。ときめき過ぎて心停止したらどうしよう。