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1章

 僕と彼女では流れている時間が違う気がする。



 影井都留(かげいいちる)32歳独身、絶賛無職。

 つい先日、会社を辞めてきた。いや、辞めてやった。

 アットホームな職場、新卒でも高年収なのを見て飛びついた会社だったが、その内情はいわゆるブラック企業。

 休みはほぼ無し。早朝から深夜まで働き続ける毎日。忙しい日には家にも帰れず、会社で寝泊まりする日々。逆にどうしてこんなに仕事があるんだってくらい、仕事がなくなることはなかった。

 辞めたくても、ほかの会社に再就職する自信もないし、自分が辞めたら新入社員や先輩の社員にもっと負担がいくと考えると辞められなかった。

 騙された、失敗したなと思ったよ。ド田舎出身で、大学もバスと電車で自宅から通える距離の地方のところにしか行けなかった僕が東京で就職できた時点で気づくべきだった。

 でも、思い返してみると確かに新卒にしては高収入ではあった。それにアットホームも捉え方によっては職場が家のようで寝泊まりできる・・・いや、全然寛げねえし!やっぱり職場は職場だし。考えるだけ無駄だ。もう辞めたのだから。

 約十年、僕はこの職場に勤めた。そしてついに倒れたのだ。五徹後のあの日。多分新人の頃だったら耐えることができたが、僕ももうすでに30を過ぎた。永久デスクワークの体にはキツすぎたのだ。

 職場で倒れ意識がない中、同じように疲れ切った先輩がさすがに救急車を呼んでくれてすぐに病院に運ばれ、即入院となった。過労に加えて長年の不摂生による栄養失調だったそうだ。

 全然容体は回復せず、一か月ほど入院した。その間僕の心は体に反して生き生きとしていた。仕事からの解放、まったく忙しくない暇な日々、寝ているだけで運ばれてくる健康な食事。今までの生活がばかばかしく思えてきて憑き物が取れたかのような穏やかな気分だった。

 その勢いで今まであんなに理由をつけて辞める勇気のでなかった会社を辞めた。

 辞めた際、感謝の言葉、労いの言葉など一言もなかったが、逆に良心などいらない、散々文句を言ってやると思った。

 こうして僕は無職になった。そして実家に帰る気も起きず、大学があった市内のアパートに引っ越して住んでいる。若干土地勘があったほうが楽だと思ったからだ。

 長年のご褒美として若干一人暮らしには贅沢な部屋を選んで、一部屋を居住空間に、もう一部屋をゴミ置き・・・いや物置にした。片付けが面倒くさいから。

 あのブラック企業のおかげでいや、僕の頑張りのおかげで貯金は32歳とは思えないほどたんまりあるので、数年は楽に過ごせるだろう。

 そろそろ越してきて1か月。毎日自堕落な生活を送っている。

 猛暑日の気怠いある昼間、日課の散歩をしていると、目の前の光景に衝撃が走った。

 真夏の暑い日差しに照らされて神々しく輝く白いワンピース。焼けることを知らない肌。それにも関わらず不健康な印象など一つも見せない溌剌とした表情。

 見間違えるはずが無い。そこには大学で片思いをしていた彼女が立っていたのだ。 

「あっ、あのっ!!!陽向っ!」

 僕は周りの視線など気にせず、自分が出せるめいいっぱいの大声を出した。ただ、ずっと話すことをしていない喉は直ぐに機能することはなく、掠れたとても大声とは言えない情けない声が出るだけであった。

 もちろん彼女が振り返ることはなく、僕との距離は離れていくばかりだ。

 見えるところに彼女がいるのに、届かない声しか出せない自分に虚しくなった。それと同時にどうして僕は彼女を必死になって呼んでいるのだろうかと急に冷静になった。

 僕は彼女からしたらただの友達だ。大学時代、告白はもちろん、好意があるなどひと言も伝えてすらいない。たったの4年間。しかも彼女とは特別親密な友達ではなく、ただサークルが一緒で話が合う時は話す程度の存在だ。

 彼女はもう、僕のことを忘れているのかもしれない。十年も時が流れたのだ。しかも片思いしていた僕自身でさえ、仕事のことで頭がいっぱいで、今の今まで彼女のことを忘れていたのだから。

 もう既にほぼ動いていない足の速度を遅める。

 しかし、本当にそれでいいのか?

 なぜか、これを逃したらもう彼女には会えない。そんな胸騒ぎがしていた。この瞬間、止まっていた歯車が動き出したような音がした。

 止まりかけの足を前に動かす。アクセルを踏んだばかりの車のように足を回していく。散歩しかしてこなかった足に負荷がかかっていく。息を弾ませながら動きを早めていく。直ぐに息が苦しくなるが関係ない。豆粒ほどにしか見えなくなっていた彼女の姿を鮮明に捉える。息が上がりきった声でもう一度叫ぶ。

「陽向ぁぁぁぁ!」

 掠れているのに変わりはないが、先程よりも大きくなった声に、彼女が振り返る。

「…………都留くん!?」

 立ち止まった彼女にやっと追い付く。十年ぶりの全力疾走は全盛期にも及ばない弱々しいもので、あんなに走ったと思う距離も振り返ってみれば短い距離でしかなく、タバコの煙でスカスカになった肺が苦しく、片思いしていた彼女に見せるには何とも惨めな姿であった。

 中々落ち着かない息に苛々しながらも、彼女が僕の名前を覚えてくれていたことにホッとした。ただ、動悸が収まることはなくずっと頭が波打ち、顔を上げられずにいた。

「大丈夫?ちょっとベンチで休も。ごめん走ってきてくれたんだね」

 ただ、焦って走ってきて体力がなかっただけとは言えず、羞恥心で顔が赤くなっていくのが分かった。気を遣ってくれる彼女に顔向けが出来ない。

 それにみっともなくあげた大声に今更とんでもないことをしたと後悔が走る。しかし、もうやってしまったものは仕方がない。

 彼女の言葉に甘えてそこのベンチに座る。彼女も隣に座り、僕の汗だくの背中をさすってくれる。

「汗だくだからいい、さすらなくて……ちょっと息が整わないだけだから」

「そう?じゃあ水買ってくるよ」

 そう言って彼女はすぐさま立ち上がり、近くにあった自販機に向かい、水を1本買って戻ってくる。

「はい!あっ開けてあげるね」

 彼女の手によって蓋が開けられたペットボトルの水が僕の前に差し出される。

 僕は遠慮なくその水をガブガブと飲んだ。枯れきった口内に水が染み渡る。今まで飲んだ水でこんなに美味しいものはあっただろうか。僕は夢中になって飲んであっという間に飲み干してしまった。

「はぁ………ありがとう…落ち着いた」

 何度か深呼吸をしてから彼女のほうに向き合った。

 十年越しに会った彼女はあの頃から全くと言っていいほど変わっていなかった。僕が好きになったあの明るい笑顔がそこにあったのだ。

「良かった〜。もしそのまま息が止まっちゃったらどうしようかと思ったよ」

「いやいや、流石にそれは無い」

「え〜?だってホントに死にそうな顔してたよ?」

「それはちょっと、忘れてくれ…」

 十年ぶりに話す彼女は、話し方すらも当時のままで、少し抜けているところすら健在だった。

「いやー、でも都留くん、見た目も話し方も大分変わったね?一瞬分からなかったよ」

「そうか?確かに見た目は全然あの頃のフレッシュさはないと思うけど」

「フレッシュさって!おじさんじゃないんだから。なんかちょっと話し方が砕けたっていうの?昔は都留くん、誰に対しても敬語だったじゃん」

「あっ…確かに」

 彼女に言われて思い出した。さっきは陽向なんて叫んでしまったけれど、大学時代は陽向さんなんて呼んでいたし、確かに皆に対して敬語で話していた。そうすれば誰に対しても失礼がないし、あまり良くない頭でも賢そうに見えるからそうしていた。

 実際にそれは程よい距離感の友達作りには向いていたし、働き始めてからも活きたものだった。

 しかし、長年の荒れ果てた生活のせいでそんな意識をすることすら余裕がなくなって、いつの間にか素に戻っていた。

 元々出来た人間ではない僕にとって、十年ぶりの再会直後にボロが出てしまったのはとても痛い。

「ごっごめん!あっすみません…わっ忘れてて…」

「いやいや、それはいいのよ!逆に距離が縮まった気がして嬉しかったよ。てか、私達同い年じゃん?その話し方でいいよ。そっちが素なんでしょ?」

「あー…ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますか」

「ふふっ!」

 笑った時に手が口元へいくのも変わらない。笑い方もそのままだ。

 なぜだか僕だけが年をとったような気がして、不思議な気持ちになった。

 僕はこれ程までに変わり果てたというのに。彼女は綺麗なままで美しい。

 僕と彼女では流れている時間が違う気がした。






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