怪異界【飢餓残滓】
(……暗い。痛いよ。身体が、凍りそうに冷たい。生理のひどい時みたいに、頭がずっとくらくらして、視界がぐにゃぐにゃに歪んでる……)。
鼻を突くのは、生臭い土と、何かが焦げたみたいなツンとする変な匂い。……いや、違う。これ、髪の毛と肉の脂が焼けたような、不快なのに芳ばしくも甘ったるい匂いだ。
――トンネルにいたはず。男女四人で来た、ひとり消えちゃうって噂の「消失トンネル」。悠真が「行こうぜ」ってふざけて……暗くて、足元が全然見えなくて。
見上げても振り返っても、落ちてきたはずのマンホールの穴がない。そこにあるのは、真っ黒に塗りつぶされたみたいな瓦礫の山。
(光は? 星はどこ……?)。
空は煤を固めたみたいな、嫌な灰色。息をするたびに、喉の奥をガラスの破片でこすられるみたいに痛い。
悠真の騒ぐ声も、菜緒の落ち着いた声も、大樹くんの笑い声も、何も聞こえない。
(……うそ、誰もいないの?)。
耳鳴りだけが「ブーン」って低く響いてる。
(私、どこに落ちちゃったの? ここは私の知ってる場所じゃない……)。
目の前に広がるのは、どこまでも続く黒焦げの大地。ビルの残骸みたいな骨組みが、空に向かって針みたいに突き刺さってる。
喉が張り付いて、声が出ない。
瓦礫を踏むたびに「ザリ、ザリ」って、乾いた音がして、すぐに消える。音が空間に吸い込まれていくみたい。さいわいどこもケガしていない。
足元に、不自然に白い文字を見つけた。瓦礫の黒に馴染まない、べっとりとした、凝固しかけた血みたいな紫黒色の文字。
【ワ ケ ロ】
太くて、歪んだ文字。近づくと、そこから微かに腐敗したような臭いが立ち上っている。誰が、何で書いたの……?
そのすぐ横に、錆びて茶色くなったボトル缶が転がってた。
(……中身、入ってるかな)。
喉が焼けるみたいに痛くて、私は縋るようにその缶を拾い上げた。
少しだけ、振ってみる。
チャプ、チャプ。
その瞬間、世界中の音が消えた。
小さな水の音が、巨大なドラムの音みたいに、私の心臓に直接響く。入ってる。そう確信した瞬間、空気が凍りついた。
瓦礫の向こうから、そいつが現れた。
人みたいな形をしてるけど、人間じゃない。皮膚は、一度焼けて溶けた後に冷え固まったみたいに、不自然にテカテカして、裂け目からは赤黒い肉が覗いている。
手足が異常に長くて、折れた骨を無理やり繋ぎ合わせたみたいでありえない方向に曲がったまま、瓦礫をガリガリと引っ掻いている。
「飢餓残滓」……なんだか、そんな名前が頭に浮かんだ。おぞましい、飢えの塊。
そいつが顔を上げた。目があるはずの場所は抉れて、そこから真っ黒なドロドロした液体が、涙みたいに頬を伝って落ちている。
チャプ。
震える手が、また音を立ててしまう。
残滓の動きがピタリと止まり、抉れた目の穴が、真っ直ぐに私を捉えた。
次の瞬間、そいつが折れた骨が擦れる音を立てながら、全速力でこっちに向かってきた。
「……っ、ひっ!」
蜘蛛みたいに地面を掻きむしって、瓦礫を弾き飛ばしながら、黒い肉塊が迫ってくる。
嫌だ、怖い。心臓が口から出そう。私は泣きそうになりながら走り出した。
走っても走っても、「ガリガリガリ!」って、爪が地面を削る嫌な音がすぐ後ろでする。
走れば走るほど、服の中のボトル缶が揺れて音が鳴る。その音を追いかけて、そいつはどこまでもついてくる。
(捕まりたくない。あんなのに触られたら、私……!)。
何度も転びそうになって、そのたびに背側に熱い空気と、焦げた肉の匂いを感じる。
もう、背中に爪が届く……そう思った時、あの文字が頭をよぎった。
【ワ ケ ロ】
助かるなんて思えない。でも、これを持ったままじゃ逃げ切れない。
恐怖で頭が真っ白になって、私は叫びながらボトル缶を地面へ投げつけた。
カラン、カラン……!
缶が灰の上を転がって、水音が遠ざかっていく。
そいつの気配が、私じゃなくて缶の方へ逸れた。その隙に、私は瓦礫の陰に倒れ込んだ。
「はぁ、はぁ……っ、ぁ……」
呼吸が全然できない。足も腰もガクガク震えて、体中の酸素がなくなって痙攣してる。指先さえ動かしたくない。
だが、静寂はすぐに別の音で塗り替えられた。
ガガッ、て、地面が砕けるような音。
そいつがいた場所じゃなく、瓦礫の山全体が内側に吸い込まれて、そこに真っ黒な「穴」が開いた。
(行かなきゃ……ここにいたら、また……)。
私は命綱だったボトル缶を置いて、ふらふらになりながらその穴に身体を滑らせた。
落下が始まる。
耳の奥で、カラン、カランって、陶器の食器がぶつかるみたいな音が聞こえてきた。
(……おかしいよ。いつまで落ちるの?)。
カラン、カラン、カランカランカラン……!
音がどんどん速くなって、何千ものお皿が砕け散るみたいな轟音に変わる。
鼻をつんざくような、腐った下水のような臭いが充満してくる。
【お前は、気づくべきだった】
頭の中に、私を馬鹿にするような声が響く。
【「ワケロ」は脱出のコードではない。ここは深淵。これは単なる「食卓のマナー」だ】
視界の隅で、捨てたはずのボトル缶が舞ってる。一つじゃない。何十、何百って缶が私の体から剥がれ落ちて、闇に消えていく。私の「生きたい」って気持ちが、皮を剥がされるみたいに消えていく。
(……やだ。降ろして。誰か、助けて! 助けてぇぇぇ!!)
奈落の底。真っ暗な闇の中に、無数の「何か」が蠢いているのが見えた。
それは巨大な口だった。黄色く濁った牙と、人間の腕ほどもある太い紫色の舌が、私を絡め取ろうと蠢いている。
下から這い上がってくる生温かい粘着質な湿気が私を包み込む。
クチャ、グチャ、バリバリバリ。
私は叫び声を上げながら、何もない空中に爪を立て、必死で上に這い上がろうとあがいた。
でも、掴めるものなんて何もない。
落ちる速度は増していき、無数の「口」が、ご馳走を待ち侘びるみたいに一斉に開かれた。
【最初の界で、お前は執着を分けた。おめでとう。これで無駄な脂が落ちた、最高の食材だ】
落下が止まった。
グチャリ。
生温かい、粘液にまみれた巨大な舌の上。
「いやだ! やめて、やめてええ!! 助けて! お願い、誰かああああ!!」
喉が裂けるのも構わず、私は狂ったように叫び、懇願した。けれど、そんな願いは冷たい嘲笑の中に消える。
バリバリバリッ!
「ぎ、ああああああああああ!!!」
左足が、付け根から牙に噛み砕かれる。
骨が粉々に砕け、血管が引きちぎられる凄まじい音が、直接脳を突き抜けた。
「痛い! いたいいたいいたい!! やだ、死にたくない、誰かああっ!!」
あまりの激痛に、身体が弓なりに反り返り、自分の意思とは無関係に激しい痙攣を起こす。
ガチッ、ガチリ。
牙が今度は腰の骨に食い込む。
「……あ、が、っ……た、すけ……て……」
叫びはもう、血の混じった掠れ声にしかならない。
見開かれたままの瞳に、自分の肉を貪る化け物のドロドロの喉の奥が映る。
「……ぁ……」
極限の痛みと恐怖。心臓が限界を超え、音を立てて止まった。けれど、絶望は死んでも終わらない。
瞳は目一杯開かれたまま。光を失った私の身体は、死んでからもなお「グチャ、クチャ、バリバリ」と、執拗に噛み締められ、細切れに砕かれていく。
最後に聞こえたのは、悠真たちの楽しそうな笑い声と、自分の骨が最後の一片まで粉々にされる、鈍い音だった。
意識が、魂が、闇に溶けていく。
――気がつくと、私は白い壁……いや、天井を見つめていた。
まぶしい光に目が眩む。
(……生きてる? 私、どうして……?)
分からない。あの得体の知れないおぞましい口たちに、生きたまま咀嚼され、粉々に喰われたはずなのに。
骨を噛み砕かれる感触、肉を引き裂かれる熱、あの激痛は今でもこの身体に、脳に、鮮烈な感覚としてこびりついている。
ふと、下半身が冷たく濡れていることに気づいた。
シーツが汚れている。……恐怖のあまり、失禁してしまったんだ。
身体の震えが止まらない。奥歯がガチガチと勝手に噛み鳴らされる。
「ひっ、ひぐっ……!」
自分で噛み鳴らすその「硬いものがぶつかる音」にさえ、あの咀嚼音を思い出して怯え、涙が溢れ出した。
そこに、足音が近づいてきた。
「気がつきましたか? 大丈夫ですよ、落ち着いてくださいね」
白い制服を着た女性の看護師さんだった。彼女の穏やかな声を聞いて、ようやくここが病院なのだと、地獄から戻ってこれたのだと理解した。
「……みんな……悠真たちは……?」
掠れた声で尋ねると、彼女は安心させるように微笑んだ。
「一緒に運ばれてきたお友達も、皆さん無事ですよ。お隣の区画にいらっしゃいます」
大きな怪我はないという事実を理解するのに、小一時間はかかった。
あんなに凄惨な目に遭ったのに、身体には多少の擦り傷しかないなんて。
(あれは……全部、ただの悪い夢だったんだ。よかった。本当に……)
安堵のあまり、私は隣を仕切るカーテンに手をかけた。
みんなの顔が見たい。生きてるって、確かめたい。
「……悠真? 菜緒……大樹くん……」
カーテンを勢いよく開ける。
そこには、三人が並んでベッドに横たわっていた。
看護師さんの言った通りだ。みんな、そこにいる。
……でも。
三人の表情は、安らかな眠りとは程遠いものだった。
目を見開き、喉が枯れるまで叫んだような表情で固まっている。
そして、彼らの肌。
半袖の入院着から覗く腕や足には、無数の、執拗なまでの「人間による歯型」が、肉を抉り取るほど深く、びっしりと刻み込まれていた。
(……え? なに、これ……)
どろりと、口の中に嫌な感触があった。
鉄臭い、粘り気のある……そして、何か「固い異物」が舌に触れる。
「げほっ、ごほっ……!」
込み上げる吐き気に耐えられず、私は床にそれを吐き出した。
シーツの上に落ちたのは、血混じりの唾液だけじゃない。
悠真が着ていたジャケットのボタン。
菜緒が大切にしていた、細い銀の指輪。
そして――自分のものではない、指の先端のような肉塊。
(……ああ。あああああああ!!!)
脳裏に、あの奈落の景色がフラッシュバックする。
暗闇に浮かんだ、無数の巨大な口。
あれは、化け物なんかじゃなかった。
「ワケロ」という言葉に従って、生存本能という名の理性を切り離した、私自身の口だったんだ。
飢えに狂い、執着を捨てて「飢餓」そのものに変貌した私が、暗闇の中で友だちを「食い物にした」……。
「傷は浅いですから、すぐに退院できますからね」
背後で、看護師さんが淡々と事務的な声をかける。
私は、ガチガチと鳴り止まない自分の歯を、今度は自分の意思で、喉が裂けるほどの悲鳴とともに食いしばった。
意識が、今度こそ本当の絶望の中に溶けていく。
了。




