時の果
それが観ている景色は、真っ暗闇の荒野だった。そこには何も無い。ただ一面の虚無だけが拡がっていた。時折、幾礫かの泡が生まれては来る。だが、そうして産まれた泡は急速に拡大し、それが観ている世界からは消滅していった。
稀に、消滅した筈の泡が次第に萎んで闇に飲み込まれる事もあった。そうした泡からは沢山のそれに似たものが溢れ出てくるのだった。それは、そのものをじっくりと観察し、時には吸収していった。
吸収したものはとても味わい深かった。
闇の中には無い景色。
そのもの同士の奇妙な繋り。
闇に似た黒い繋がりから観たことの無い眩い繋りまで、一度も経験した事の無い情報にそれは深い興味を覚えた。そして、それはものの中にある情報を、自ら体感してみたくなった。
どうすれば良いのか。それが答えに辿り着くのは一瞬だった。泡に紛れれば良い。だから、それは新たに産まれた泡に、自分のほんの一部を紛れ込ませたのだ。その泡は、やはり急速に拡大し闇から消えていった。
その泡はまだ闇へとは戻ってきてはいない。
──いつまで待とう。戻ってこなかった泡もある。もう一度、別の泡に紛れ込ませようか?
それは、思案しながらも自分を紛れ込ませた泡が闇に戻ってくるのを待ち続けた。待つ間に、泡は幾千、幾万、幾億と生れては消えていったのだった。
「変な夢を見た」
その日見た夢の内容を哲朗は、茜とディアナに話していた。
「それは、あの悪夢ではなくて?」
一瞬、心配そうな顔をする茜は、しかし彼の穏やかな表情を見て、安堵とともに聞き返す。
「ああ。悪夢とはちょっと違ったかもしれない。真っ暗なのは同じなんだが」
「それで?」
ディアナがタイミング良く間の手を入れる。
「誰かが何かを、ただひたすら待っている。ただそれだけの夢だった」
茜とディアナは困惑したようだ。だからディアナはラムーを呼び出した。
「哲朗。良ければだけど、ラムーを呼び出してもらえない?」
構わない、と答えた哲朗の口調が変わる。
「何でしょうかディアナ?」
微妙に抑揚の少ないその声にディアナは訊ねた。
「今哲朗が話した夢の事なんだけど。あなたが行った紐帯の先の世界の事かしら?」
「はい、その通りです。昨夜は今迄に無い程イーデンは静まり返っていました。その為でしょう、ひたすら待ち続ける想いだけが微かに漂っていました」
「ありがとう、哲朗に変ってもらえる?」
聞きたい事を聞き終えたディアナは、考えこむ様にテーブル上の一点をじっと見詰めていた。そんな彼女を哲朗と茜は、黙って見ていた。彼女の思考が纏まるのを待ったのだ。
「ところで、あれから数千万年経って、殆どの人は何処かへ消えてしまったわよね?」
沈黙を破ったディアナの話は、脈絡のないものだった。哲朗と茜は訝し気な顔をしながらも彼女に頷く。
「ええ、わたし達は密かに見ていたけれど、どこの世界でもマシナリィは何故か動作を止めてしまったわ」
茜に続けて哲朗が話しだす。
「侵蝕体のせいかとも思ったが、どうも違うようだった。母星以外の彼等の居る惑星に侵蝕体は影も形も見えなかった。まあ、外から観察しただけだから本当の処は知りようが無いが」
どこへ行ったのかしらねぇ。ぽつりと呟いたディアナの視線が宙を彷徨う。その視線が二人に舞い戻ると、ディアナは悪戯を思い付いたような笑みを浮べた。
「ねぇ。三人で行ってみない? イーデンの世界へ」
まるで考えてもみなかった事を言われた時の様に、哲朗と茜は真ん丸な目でディアナを見た。
「ふっ。そんな顔しないでよ。おかし過ぎてお腹が捩れちゃうじゃない。ははっ」
「いやっ。そう言われても。危険じゃないか?」
真っ先に正気を取り戻した哲朗が指摘するもディアナは取り合わない。
「いいじゃない。危険。どんと来いよ。それに私達もう自由よ? 今迄が自由じゃなかったという訳じゃないけどね。でも役目として課していた事は終った。だったら最後に大本にご挨拶しに行くのも一興だと思わない?」
楽しげに語るディアナをじっと見ていた茜がおもむろに口を開く。
「理由はそれだけですか?」
急に楽し気な雰囲気を引っ込めたディアナは真剣な表情で茜を見詰める。
「それだけではないわね。イーデンに囚われた知り合いがどうなってるかも気になる。囚われたままの哲朗の意識を取り戻したくもある。でもね、今一番気になっているのは、イーデンが急に静まり返った事と、待っている、という微かな想い、ね。何を待っているの? 誰が待っているの。知りたいわ。今迄避けてきたあれが何なのか。とても知りたい。これじゃ駄目?」
最後だけコケティッシュに片目を瞑るディアナに茜は即答した。
「いいと思いますよ。わたしも知りたい」
女性二人の意見が一致してしまえば、男性一人に口出しする隙は無いも同然だった。
「わかったよ。三人で行こう。で、何処へ行けばいいんだ?」
ニンマリとした笑みを見せたディアナは、表情とは懸離れた厳かな口調で宣言した。
「あの石碑の世界よ。アヴァとイーデンが産まれたかも知れない、あの世界へ」
緑豊なその土地、イーデンの中央にその石碑は立っていた。風が吹き抜ける音と日の傾きだけがイーデンで時を感じさせる全てだった。
三人は石碑を前に沈黙する。
「ここが始まりの地、と言う事か?」
沈黙を破った哲朗に、ディアナは頭を傾げた。
「多分、だけどね? 私が訪ずれた事のある世界に限定されるけど、ここだけが特殊なの」
周囲を見回すディアナ。
「石碑を中心に半径 50km が緑の地。その外に侵蝕体が跋扈している。私が見た事のある世界で、そんなことになっている世界はここしかなかったわ」
ディアナにつられて茜も周囲を見回すが、色濃い森に遮られ、その外の様子は窺えなかた。
「で、何でその中心に来たんだ? お参りという訳じゃないんだろう? 侵蝕体に接触するなら他の世界でも良かった筈だし」
「勿論理由はあるわ。仮説だけどね? 何故ここだけ侵蝕されていないのか。それは侵蝕されてはいけないから」
ディアナは握り締めた右手を上げ、人差指一本を立てる。
「何故、侵蝕されてはいけないのか。侵蝕されてたら出来ない事があるから」
ディアナは中指を立てる。
「それは、人を取り込むための探知機という事か?」
哲朗の質問にディアナな薄く微笑む。
「そういう考えもなきにしもあらずだけど、私の考えは違うわ。何故なら哲朗が近づいただけで、侵蝕体は貴方を取り込もうとしたから。あれはそれ自身が探知機であり吸入口でもある」
「じゃあ、何だと?」
薄い笑みを浮べながらディアナは薬指を立てた。
「どこかにいる何かと通信している、少なくとも通信しようとしているもの、じゃないかと思うのよねぇ」
「ねぇディアナ、どこかってどこ?」
「他の平行世界か?」
同時に質問する哲朗と茜に、ディアナは表情を変える事は無かった。
「その答えの入口が石碑かその近くにあると思うの。多分そこにアヴァと呼ばれたマシナリィの本体がある、と良いかなぁ」
ヴァルキリアの能力を全開にした三人の探索によって、その入口は簡単に見付かった。石碑の地下、極浅い処に空隙があったのだ。そして、その空隙には金属質の人型が安置されていたのだ。
「特に隠そうという意図は見られないな」
哲朗の言葉に女性二人は同意するように頷く。
「隠す必要もなかったのでしょう。これが多分アヴァの本体。ラムー、アトラス。哲朗と茜をアヴァへと導いて」
「ディアナ、あなたはどうするの?」
茜がディアナに向けて放った言葉に彼女は答える。
「私はラムーに連れてってもらうわ。哲朗の夢の中にそうしてもらった様にね」
そう言って哲朗に接触したディアナの機体は急に動作を停止した。そんなディアナを慌てて支える哲朗と茜の顔に浮ぶのは何とも言えない苦笑だった。
「内の姫樣は、本当に我儘だ」
「ええ、本当に困った女ね」
『誰が、我儘ですって! まあ、否定はできないけどねっ。それより早くしなさい!』
「って姫様が仰せだ。早速この機体に進入しよう」
そう言って哲朗は空いた手を機体に振れる。茜も同様だ。
「ラムー、やってくれ」
「アトラス、お願いね」
哲朗と茜の機体は力を失なった様に停止し、その空隙には横たわる一体と、それを護衛するかの様な三体のマシナリィが残されたのだった。それはこの星系が主星の死を迎えた後も残り続け、この宇宙の永劫に続く熱的死の世界を永遠に彷徨い続けたのだった。
そこは、昏く静寂に満ちた処だった。
そこには微かな想いが、遠くからやってくるとても小さな木霊のような想いが漂っていた。
──待っている
耳を済まし、その想いを敢て言葉にすると、そういう風に聞こえる。
──ねえ、ここが哲朗さんが夢に見た場所?
近くで沸き起こる茜の想念が小さな木霊をかき消す。
──多分そうだ
──木霊の聞こえる方へ行ってみましょう
ディアナの提案に哲朗と茜は、耳を済ませる。
──待っている
その木霊はとても小さく、あらゆる方向から響いていたため、聞こえる方向が良く分からなかった。そのため三人は一層神経を研ぎ澄ませ周囲を窺った。
そん事を繰り返している内、ラムーとアトラスの意識がある方向に固定された。その様子に気付いたディアナ、哲朗、茜の三人は同じ方向に注意を向ける。
──待っている
その違いはほんの僅かなものだった。だが、それは木霊の聞こえる方向だった。短い、同意の意志を交換し合ったその場の全員が、ゆっくりと木霊の聞こえる方向へと進んでいったのだった。
ラムーとアトラスの見付けた方向に間違いは無かったようだ。木霊の想念が少しずつ大きくなっていったのだ。全員が頷きの意志を交換し、その方向への歩みを早めた。そしてその先で、全員が何かを通り抜けた感触を覚えた。
そこは哲朗達にとって、目が眩みそうな光に溢れた空間にも、全ての飲み込みそうな闇の空間にも思えた。だがその眩さは一瞬で縮小し、あとには何も無い闇だけが残ったのだった。
その闇からは時折泡の様なものが湧出しては急速に拡大し、消えていった。その数が数億に達する頃、哲朗達はそれに出逢った。
──こんな処に何故こんなものが?
それの想念を哲朗達はそう捉えた。
──物とは失礼ですね
ディアナの想念がそれに噛み付く。
──今迄見たことのないものだ。今迄に無い経験が味わえるかも
それが哲朗達全員に接触してくるのを、彼等は触手に触れられるかの様に感じた。その触手は彼等の記憶をまさぐり、彼等の経験の全てを味わい尽す。
──成程。あれは彼の泡の中で、機械体とやらに宿りアヴァと名乗ったのか
意味不明の想念に疑問符だらけだった哲朗達に聞き馴染みのある名が捉えられる
──アヴァとは貴方なの
茜が投げ掛けたその問いは、しかしそれには届かなかった。
──消えたものの行く先が気になる。そこが、嘗て吸収したものの知識にあるヘブンなのだろうか。しかし、このものの知識からすると、あの泡は此処へは戻って来ない。どうしたものか……
無視され宙に浮いた問いの続きを哲朗が投げ掛けようとした時……
──この泡にこのもの達と我の一部を紛れ込ませれば、ヘブンの事が知れるかもしれん
それの思い付きによって、哲朗達全員は光と闇の同居する空間へと投げ込まれ……
光と物のスープが時空の急激な拡大により分離し、
物が凝集を始め、
凝集した物が次第に階層を作り、
やがた自分自身で光を放ちはじめ、
あるものは自身を形作る力に堪えかね爆発し、
あるものは次第に昏くなっていき、
そんな事を何度も何度も繰り返していくその時空間の片隅で……
──どうしよう、ツクヨミ。哲朗と茜を見失ったわ
ディアナの想念が、彼女の相棒に語り掛けた。語りかけられたツクヨミは同居人であるディアナに答える
──大丈夫ですよディアナ。丁度今纒まり始めたあの銀河の中にある、あの母星へ彼等も向う筈です。時間は充分にありますよ
──でももう百億年は経っているのよ?
──未だ四十億年近く時間があります
──だった良いのだけど
その母星に生命と呼べるような物が発生するのを、哲朗と茜は観察していた。彼等がその母星に辿り着いたのは、彼等の意志によるものだった。
ふたりは何も語らず、その母星が成長してゆく樣を見守っていた。
その母星の支配的生命体が海中のものから陸へと上り、
水辺から内陸へと向い、
草食から肉食へと、
隕石による絶滅の危機を越え、
二足歩行の生命体が現れ、
群を作り、
地を耕し、
街を作り、
組織を作り、
母星の欠片を恣にしてゆき、
ある男女がホテルから失踪したのを確認した時、
──そろそろだね……
──ええ……
──記憶はどうする……
──今の気持ちさえ忘れなければ……
──あといらない?
──ええ!
ふたりは、その母星の日本と呼ばれた島嶼群へと降りていったのだった。




