イーデンの悪夢
──ぅおおぉぉ
哲朗の頭の中をずっと占領しているおめき声は、倦む事無く休む事無く無限に再生される。彼も最初は無視できていた。だが何度も何度も繰り返されるそのおめきは次第に彼の心を侵蝕してゆく。聞くまいと耳を手で塞ごうとも、その声は彼の心に直接響いてくるのだ。
ただ一瞬、おめき声が遠のく時があった。だがその瞬間も救いではなかった。あの嫋やかな女声が彼の耳元で、こう囁くのだ。
──我はアヴァ。主はイーデンの住人にして我の僕なり。我の門を通りし者、全ての希望を捨てよ。さすれば主は救われよう。
おめきに蝕まれ罅割れた彼の心にその声は、苦く、甘く染み入る。
幾度も繰り返される苦痛と救いの声に彼の心は折れる寸前だった。それが現れるまでは。
ふと気が付くと周囲を一羽の青白い蝶が舞っている事に哲朗は気付いた。蝶はどこかへ哲朗を誘うかのように彼の目の前に寄っては離れ、また気紛れに周囲をひらひらと舞う。そしてまた誘うかのように目の前に舞い戻る。
蝶の舞を目で追う内に、哲朗の心の罅は薄れ、染み入る毒はその効果を無くして行く。そして彼の心が自由を得ようとした時……
──う゛おおぉぉ
発狂しそうな雄叫びが、一層激しく、鋭く哲朗の心を食い破ろうとしてきた。
──そのような心糸などまやかしにすぎん! 我だけが真の救い! 主のその苦痛を癒せるのは我のみぞ!
アヴァの宣告と共に、青白い蝶はその存在をかき消された。
再び訪れるその責め苦と勧誘の繰り返しの中、だが哲朗は心の核で確信していた。
──あれが鍵だ。今は見えないが、消えてはいない。
哲朗は、その確信だけを頼りに、イーデンの責め苦に耐え続けるのだった。
「夢を見た。悪夢だ。だが本当にただの夢なのか、わからない」
何時迄も魘されている哲朗を心配した茜とディアナは、付きっ切りで見守っていたのだ。そして、やっと目覚めた彼は開口一番、見守る二人にそう語ったのだった。
「そこでの俺は、なにか、こう耐え難い苦痛に延々と晒され続けてて。その合間に、優しく……いや甘く……うーん、ちょっと言葉にできないな。そんな感じの救いの手が目の前にぶら下げられるんだ」
明晰夢という訳ではなかったのか、哲朗の説明は曖昧なものだった。だが、それを聞く茜とディアナは真剣そのものだった。
茜はディアナを強い意志を込め、ディアナは茜を静かな眼差しで見詰める。そんな二人を哲朗は何事かと訝しんだ。ディアナの頷きに、茜は哲朗に向き直った。
「哲朗さん。その夢の中で、何か名前とか場所とか覚えているものはある?」
茜に問われた哲朗は目を瞑り、記憶を隅から隅まで確認しているようだった。
「……アヴァ……」
ぽつりと漏れ出た哲朗の言葉に茜は食い尽く。
「哲朗さんが侵蝕体に接触した際、耳にした名前ね。やっぱり……」
「やっぱり? 何か分かったのか?」
茜の様子に何かを感じたのだろう哲朗が、彼女に訊ねた。
「これはまだ推測の出ないのだけれど、ディアナもアトラスもラムーも可能性としては低くないと思ってる」
そう言って茜は言葉を続けた。
「哲朗さんが最初に昏睡した時、わたしは放電パルスで強制的に目覚めさせた。あの時、哲朗さんの意識は侵蝕体に飲み込まれていて、わたしの処置で目覚めたのは半分でしかない、というのが推測の一つめね。傍証として、今の哲朗さの意識圧が低くてヴァルキリアの身体を擬態できてない事が挙げられるわ」
改めて自身の身体を見直した哲朗は、その言葉に頷く。
「では、残りは……」
「そう、残りはまだ侵蝕体に囚われたまま。ただ、話してくれた夢の内容から、今でもか細いながらも紐帯は途切れてはいない、というのが推測の二つ目で、傍証でもあるわ」
あり得なくはないな、と哲朗は呟く。
「だが、そうすると侵蝕体というのは?」
「それが、三つ目の推測に繋がるのだけど、その前にディアナが訪れた、ある平行世界の話をするわね」
そう言って茜はディアナへと合図を送った。
「私がヴァルキリアを開発する元となった技術のある世界へ渡った時のことよ。その世界にもやはり侵蝕体は居たんだけど、何故か侵蝕されていない緑豊かな地と、そこに聳える石碑があったの。石碑にはアヴァの名とイーデンという地名が刻まれてたわ。私に読める文字で書かれていて幸いだった」
「アヴァとイーデン。それは俺が侵蝕体に接触した時……」
「貴方が持ち帰った記憶にあるものと同じかどうかは分からないけど、偶然の一致で済ませる訳にはいかないわね」
淡々と語るディアナの顔は努めて無表情になろうとしているようだ。まだ証明はできないが、その二つのアヴァとイーデンは同じものを差していると、ディアナ確信しているようだった。哲朗が茜に目を向けると、彼女もやはりディアナと同じ考えのようだった。
「推測として、侵蝕体のアヴァと、石碑のアヴァが同じだとして。その石碑には、他に何か書かれてなかったんだろうか」
「掠れて読めない処も多くて。ただ、機械体と、まとめる、制御だけは読めたわね」
「機械体、まとめる、制御……ギャザー? ドミナンス? それって」
ヴァルキリアの顔ゆえ表情の変わらない哲朗は、しかし呆れた声を出す事によってその内心を掃き出した。
「ええ、侵蝕体みたいでしょう? 哲朗さんが経験した」
茜が疲れたような声で応え、ディアナは手でこめかみを揉む。
「じゃぁ、侵蝕体はアヴァそのものだとして、まだ推測にすぎないけど、何で色んな世界に拡散してるんだ?」
「アヴァもやはりマシナリィで、それもヴァルキリアに近いものだ、と思うわ。つまりクロノストーンか、それに近いものを取り込んでいるってことね」
だから平行世界を渡る事が可能よ、とディアナは言いたいらしい。だが、と哲朗は疑問を挟む。
「俺達は複数の世界に同時に存在できる訳じ
ゃないだろう?」
その問いには茜が答えた。
「哲朗さん。重力だって平行世界を越えるでしょう?」
「だから各世界の侵蝕体はアヴァから漏れ出た影、とでも言うべきものという事なのか?」
頷く二人に哲朗は頭を抱えたくなった。本調子ではない彼の身体でそんな事はできなかったのだが。
信じ難い話にざわめいた心を落ち着けた三人は話を再開した。
「アヴァの問題は今直ぐどうこう出来る話じゃないな。何れなんとかするにしても、もっと調べないと」
と哲朗が口火を切ると茜が続く。
「ええ。でもそれまで哲朗さんがそのままというのは活動に支障を来すと思う」
「それについて提案があるわ。哲朗、そして茜もだけど、貴方達のパートナーとしてラムー、アトラスと同化、というか同居してみない?」
ディアナの意外な発言に二人は、何だそれ、とう反応を示す。
「哲朗にとってはヴァルキリアを動かすための支援意識として、茜にとっては保険・護衛の意味が強いわね。不意に侵蝕体と接触しないとも限らないし」
二人はじっと考え込んだ。暫く続いた沈黙を破ったのは茜だった。
「わたしはそれで構わない。けど、哲朗さんは?」
「……ああ、俺もそれでいい。が、ラムーやアトラスの意見はどうなんだ?」
どこへともなく問い掛けられた哲朗にラムーとアトラスは同意を示した。
『私は問題ないですよ、テツ』
『私も同意します、アカネ』
「ならそれでいきましょう。あと哲朗の囚われた意識についてだけど、紐帯を通して取り戻す事も考えてみましょう」
哲朗と同居する事になったラムーは、彼が起きている時は彼の意志をヴァルキリアに伝達する神経の役割を担った。それによって哲朗は何時もと変わらない、活動が可能になった。活動可能になった哲朗は茜と共に、ディアナが種を蒔いた世界で、宇宙へ飛び立つ人びとと母星に残る人びとを見守り、時には穏かな介入を繰り返していった。
だがラムーの役目はそれだけではなかった。
哲朗の睡眠時、紐帯を通って流れ込む悪夢の源泉から彼を護ることもまたラムーの役目だった。同時に、哲朗接触する茜やディアナの意識の一部を自身の一部に案内させ、紐帯を通り抜け侵蝕体に囚われた彼の心を慰める役割をも担ったのだ。囚われた彼の心にとってそれは青白い蝶の形で現れた。
蝶に励まされ正気を維持する事が可能になった囚われた哲朗は、悪夢の世界、イーデンとその主、アヴァを調査する事を決めたのだ。
イーデンは果てし無く広く、その全てを見て回るのは途轍もない時間が掛った。そんな中で何故か馴染のある意識の叫びが聞こえる事もあった。例えばそれは、クルーガーのものだったり、アーノルドのものだったりした。
更に友人である山賀太一や研究所の上長だった橋本のものまで聞こえたような気がしたのだ。
──何故山賀さんがここに?
囚われた哲朗が自身の想念として捉えているそれは、実は茜のものだったが、彼はそれに気付いてはいなかった。
──これは、何時の、何処の橋本さんだ?
時にはディアナの想念が交じる事もあったが、それも囚われた哲朗は自身のものとして認識していた。
だがこうして得られた疑問はラムーによって持ち帰られる事になる。それがまた、囚われた哲朗の意識を取り戻すための手掛かりとなっていったのだった。
そのような二つの営みは、哲朗と茜とディアナの時間で数千万年は続けられたのだった。




