侵蝕体
眼下に見える黒いものを、哲朗は注意深く観察していた。不用意に近付いてはならない、それが自身の生命線なのだと彼は理解していた。なので、彼の接近は非常に慎重なものになっていた。
少しずつ、少しずつ、哲朗は侵蝕体に近寄る。
やがてそれから発せられる脳波に似た信号を、哲朗は不明瞭な言葉として認識できるようになってきた。それは恨みのような、歓喜のような唸りだった。あるいは、賛美のようにも怨嗟のようにも受け取れた。
もっとはっきりと聞きとろうと哲朗は更に近付いてゆく。
『うぅぅ……』
『……ン……』
『あぁぁ!』
『……は……上……』
唸り声は次第に大きくなってゆくが言葉としてはまだまだ物足りない。もっと良く聞き取ろうとそれに近付く哲朗は、突如闇に囲まれている自分に気が付いた。
『騙された……』
『ああ、なんて美しい……』
『うおぉぉ!』
『っきしょう!』
『イーデンが、イーデンが……』
『アヴァ樣! ああアヴァ樣!』
『あぁぁ……』
『夢なら醒めて……』
『これこそ理想郷だ……』
『嘘だろう! 嘘だと言ってくれ!』
『なんて心地良い……』
同時に脈絡の無い言葉の羅列が哲朗の意識を焦す。じりじりと、少しづつ、だが確実に哲朗の意識を灼き尽そうとしていた。
──しまった!
彼は一線を越えてしまった事に気付き狼狽した。逃げ道を探そうと周囲を見渡すが、どちらを見ても黒一色の景色に検討もつかなかった。
『新入りだ!』
『ここは楽園』
『いやー!』
『残念だったな!』
『あら、アヴァ樣に……』
『けっけっけっ!』
『ふん! あんなペテン師風情に……』
『……落で……天上……』
『アヴァ樣に手を出すな!』
『ふふっ、ふふふ……』
『なぁ、なぁ聞けよ!』
哲朗を蝕む狂気は、より一層激しくなってきた。侵蝕されまいと賢明に心を落ち着かせようとする哲朗だが、それが上手くいっているとはいえなかった。
『……ここ……は奈落であり、天上でもある……』
不意に意味ありげな言葉が、哲朗の意識を捉えた。いや、囚われてしまったと言うべきか。その言葉は彼の意識にへばりついて剥がれようとしなかった。
『ここはイーデン。ここに住む者にとって奈落であり、天上でもある。ここは賢しらな者の墓場であり、易きにつく者の楽園でもある』
嫋やかな女声が、哲朗の意識を搦めとろうとしていた。それを分かっていても尚、哲朗はその女声に聞きいってしまった。脈絡の無い声は、いつのまにか静まっていた。
『主はいずれかのう』
嫋やかな女声の問いに、哲朗は一瞬返答に詰まる。俺は何者だ? 俺は、俺は……
『返答できぬか?』
──俺は自分を賢いと思った事はない……が、賢くないと思った事もない
『では、易きにつく者かのう?』
──分からない。面倒事を避けようと思った事は無いが、立ち向かおうとした記憶も無い
『ならば主にとって、ここは生き辛いものになるであろう……』
──まて。俺はまだ承服してない……
『主の意志は係りない。我に搦め取られた主は既にここの住人じゃ』
──何だって!? そんな事を言うお前は何者だ!
『我はアヴァ。自惚れた者、心弱き者等、我の声を聞ける者の救い主じゃ。主は我の声が聞こえたが故、このイーデンにて我の救いを与えようぞ』
アヴァの最後通牒が告げられた瞬間、青白い閃光が哲朗の意識を駆け抜けた。閃光は哲朗の意識を分断した。意識の半分が目覚めたとき、彼の目に映ったのは茜の顔だった。
侵蝕体に慎重に近付く哲朗を見守っていた茜は、その身体がある時を境に身動きしなくなった事に不審を覚えた。様子を見守る内、哲朗の擬態が解け、ヴァルキリア本来の姿を晒すのを確認した茜は、迷う事なく彼を確保する為に動いた。
哲朗と自分の間に重力場を発生させる。自分は彼に近付くため、そして哲朗を侵蝕体から遠避けるためだ。
哲朗を確保した茜は、しかし、彼の様子を見るなり悲痛な表情を浮べる。ヴァルキリアそのものの彼の瞳は何者をも映してはいなかったのだ。
「哲朗さん! 哲朗さん!」
哲朗の異常を見てとった茜は、彼の耳元で名前を連呼しつつ機体の異常を走査してゆく。彼の機体の透視図が茜の意識内にイメージされてゆく。
「回路……問題無し。機体の損傷……無し」
何度か走査を繰り返すが、機体に異常は見られなかった。哲朗はただ昏睡しているようだと茜は判断し、哲朗の機体にショックを与える事に決めた。だが、彼の意識が覚醒した後どの様な行動をするか読めない。茜は哲朗の機体を抱えたまま海上へと退避した。
洋上へと退避した茜は、哲朗の機体の腰部に手を当て、弱い放電を繰り返した。放電は哲朗の神経回路を伝い、機体の各所へと巡ってゆく。放電する度、哲朗の機体は微弱な反応を示す。胴が、指先が微かに震える。
しかし、彼の意識はまだ戻らかった。それでも茜は彼の名を呼びながら放電し続ける。やがて、何度目かの放電で、何も映していなかった哲朗の目が焦点を結ぶのが茜にも分かった。彼女は哲朗のその視線の先に自分の顔を寄せる。
「茜?」
哲朗の声を聞いた茜は、思わず彼を抱き締めたのだった。
「それで、気付いた時は真っ黒な何かに取り囲まれていた。そこから先の事はあまり覚えていない……」
自分の身体を支えながら各部の走査をしている茜に、哲朗は自身の体験を説明していた。
「ただ、イーデンとアヴァという言葉だけがこびり付いているんだ」
「そう。とりあえずお疲れ様でした。記憶の事やこれからの事は一先ずおいて、休む事だけ考えましょう? ムーへ戻るより、ヴァルホルへ向った方が良いと思うけど……行けそうかしら?」
ちょっと待ってくれ、と呟いた哲朗は自身の機体を丹念にチェックしてゆく。身体的には問題なさそうだったが……
「ああ、どこか接続が上手くいってない処がありそうだ。自分で動かせるところがあまり無い。自力で飛ぶ事も今は無理そうだ……」
そんな事、と言いながら茜は哲朗を見た。
「わたしがいるから大丈夫。それに、そんな状態だったら尚更ヴァルホルで見てもらった方がいいわ」
面倒かける、と零す哲朗に、茜は、どうという事は無いわ、と返した。茜は哲朗を抱えたままヴァルホルを目指し上昇し、ヴァルホルのある平行世界へと渡っていったのだった。
哲朗のムー世界からヴァルホルに戻った二人を迎える者は誰も居なかった。ディアナが、今別の世界で活動中だったからだ。
整備室の立寝台に哲朗の機体をもたせかけた茜は、彼の身体に寝台から様々なプローブを接続していく。寝台に繋れたモニターにはプローブからの情報が幾つも表示されていく。
『身体機構異常無し』
哲朗と共に来て、ヴァルホルへの一プログラムとして吸収されたラムーが彼の身体の状態を報告してゆく。
『エネルギー回路異常無し』
モニターに表示されたエネルギー回路網が青い線画に変わる。
『神経回路異常無し』
神経回路網も同様だった。
「アトラス、どういう事?」
ラムーと同様に吸収されたアトラスに茜は問い掛けた。
『ヴァルキリア自体の機能に不全は見付かりませんでした。ならば、哲朗の意識・精神が機体との取っ掛かりを掴めていないと推量されます』
じゃあどうすれば、と零した茜にラムーが応える。
『現段階では、休息するのが一番です。その間に今後の対応を検討しましょう』
ラムーの意見に同意するアトラス。今すぐの回復を期待していた茜は項垂れる。
「まあ、気長にやろうじゃないか。その間、俺の記憶に残っているだろう、侵蝕体のデータ解析もある事だし」
落ち込む茜を慰めるような哲朗に
「でも。もしかしたら、わたしの処置の所為で……」
と自分を責める茜。
『心の問題なので、茜さんの言う事が間違いとは言えませんが……』
と前置きしながらラムーは続けた。
『哲朗の意識圧が低下している様に見えるのも留意点として上げられると思料します』
「成程。意識圧の低下ね。それとアヴァとイーデン」
数日後、ヴァルホルに帰還したディアナは茜の報告を聞き、そう言葉を漏らした。
「心当たりが?」
縋るような目の茜に、ディアナは昏い目を向けた。
「ええ。ここより数億年早く終焉を迎えた世界に、イーデンという名の地と、そこに建立された、アヴァの名が刻まれた碑があったわ」
茜は、物憂げなディアナを不思議なものを見るような目を向ける。
「その世界もやはり侵蝕体に?」
その問いにディアナは暫し口を閉ざす。
「ええ。その世界にも侵蝕体は居たけれど。それでもイーデン自体は緑豊かな地だったわ」
重い口を開いたディアナから漏れでた言葉は、茜にとって意外なものだった。
「では、何故?」
「分からない……その世界にメガフロートは無かったし、残された宇宙船は精々第一衛星に行ける位。ただ、マシナリィは大量に残されてたけれど……」
茜の目が微妙に眇められた。普段の彼女とは微妙に異なる低い声がその唇から漏れる。
「……マシナリィ、ですか。それはヴァルキリアのような……」
「ほぼ同じものよ。というより、それを参考に改良したものがヴァルキリアだから……」
茜の雰囲気が変わった事に気付くディアナは彼女の様子を窺うように見詰める。
「ちなみに、どういった改良を?」
「……ひどく単純に言うと、ある種の安定化回路を組み込んだのよ。そのお陰で意識の漏れが防げる、ように……」
ディアナの顔が、まさか、という表情に覆われていく。
「哲朗さんの身体には、異常はみられませんでした。なので、その安定化回路にも問題は無いと思います。でも彼の意識圧は低い。これはわたしの所為かもしれません。彼を目覚めさせるためとはいえ、無理にショックを与えてしまったから。でも、そうしなければ、未だに彼の意識は全て、何処かに囚われたままだったのではないでしょうか。その、イーデンの世界のマシナリィと同様に」
茜の推察にディアナは応える言葉を持たなかった。確かにそう考えれば辻褄は合うかもしれない、そう認識したディアナは次の手を模索するよう、深く思索の海に潜り込むのだった。
立寝台に身を預けている哲朗は、目を瞑り深い睡眠に陥いっていた。回復していないその身体は擬態する事もなく、本来のメタリックは輝きを放っている。その顔は微動だにしない彫刻のようなだった。
「うぅっ。あぁっ」
だが、薄く開かれたその唇から漏れる声だけは違う。今はそれだけが、彼を機械人形から分つものだった。
『彼のこの症状は悪夢を見ていると診断すれば良いのでしょうか?』
アトラスが問い掛ける先は一つ。
『多分そうでしょう。ただ、それが普通の悪夢なのか、そうでは無いのか。その出所は、はっきりとしませんが』
ラムーの声がアトラスに応じた。
『では、今は失われている意識・精神の半分とまだ繋がっている可能性もある、と?』
『その可能性は皆無では無いと推察します』
哲朗のうなされる声に、ラムーのその言葉は整備室にかき消されていったのだった。




