ある始まりと終り
その日、国立科学研究所に勤務する榊哲朗の下に届けられたそれが彼の人生を狂わせることになるとは、最期迄彼には認識できなかった。
約一万年前の地層から発見されたそれを見た榊の第一印象は、ごく普通の黒曜石製の調理器具、それだけだった。榊は添付資料を流し読みしていく。出土状況のレポート、写真等、資料を捲っていた榊は最後のページに記された文字の上で目を止める。
"比重が黒曜石より軽い"
2.339から2.527。黒曜石の比重を思い出しながら資料に記載された数値をもう一度確認する。
2.301
微妙な数値だった。発掘現場での、簡易な検査結果にしか過ぎないのに、その断定的な結論に榊は違和感を覚える。送り主が、榊の古くからの友人でなければ放っておいただろう。
その友人、山賀太一は地質学者であると同時に考古学にも造詣が深かった。休日や有給を手弁当での発掘ボランティアに勤しむのが彼の趣味だった。榊と彼の飲みになると、ボランティア先の出土品の話や地層の話をずっと聞かされるのが常だった。榊自身はその分野には人並程度の関心しか持たないが、山賀は人を飽きさせないその話術を以って榊の関心を引くのが巧みだった。
だが今回のように、出土品の調査依頼など一度として無かった。そもそも出土品を勝手に持ち出すなど、許可される筈もない。それも不正確な数値を理由にしてなど、山賀らしくない行いに榊は戸惑いを覚える。
腕時計を見ると時間は午後三時。調査項目を洗い出し、検査設備の使用申請を提出すれば夕方にはなっているだろう。精密検査は明日以降だな、と榊は今夜の食事の約束を思い出しながら、申請書に記入する調査項目、利用希望日時を挙げていく。
必須項目全てを埋め、電子申請を済ませた榊の耳に定時を告げるチャイムが聞こえた。山賀から送られてきた資料一式を保管庫に蔵い、ロックする。ロックされた事を確認した榊は、約束相手の事を思い浮かべ、緊張と期待と不安を滲ませながら、いそいそと研究所を後にするのだった。
お洒落な雰囲気のレストランで、榊哲朗はワイングラスを傾けていた。彼は内心の緊張を押し隠し、向かいの席でナイフとフォークを綺麗に使い料理を楽しんでいる女性を見ていた。
「茜、何時みても美味しそうに食べるね」
テーブルにワイングラスを戻した榊の表情は愛しいものを見ているそれだった。そんな榊に、女性は口の中でじっくりと味わっていた料理を、名残惜しそうに飲み込みむ。
「そういう哲朗も、何時も高級ワインのようにお水を味わっているじゃない」
してやったり。とでもいう様な、得意顔で応える女性は、名を神崎茜という。
榊と茜はもう五年の付き合いになる。神崎茜は、榊が勤める研究所へ検査機器を納入しているメーカーの技術者だった。研究所の機器トラブルで駆け付けた茜に、立ち会いとして対応した榊は一目惚れしてしまった。検査機器の点検・修理・調整を終えた茜に、コーヒーでも飲んで一息入れませんか、と榊が誘ったのが付き合う切っ掛けとなった。
それ以降、お互い時間を合せてはデートを重ね、穏やかに親交を深めていき、いつしか五年の年月が経っていた。
談笑を交えながら料理を堪能した二人が最後にコーヒーを嗜んでいる時、榊は不意に居ずまいを正す。その様子に何かを感じた茜も、すっと背筋を伸ばし榊を見詰める。
「茜。いえ、神崎茜さん。僕の妻になってくれませんか」
若干の緊張を含ませながら発した榊の言葉に、茜の表情はゆっくりと、ゆっくりと笑顔になっていき、その右目から一粒の泪が頬をつたって頤へ流れ落ちた。
「哲朗。榊哲朗さん。私を貴方の妻にしてください」
茜の返答に緊張が解けた榊は大きく息をはく。
「ありがとう」
そう言いながら茜にハンカチを差し出す榊は、大きな達成感に満されていた。レストランの僅かに落された照明も、他のテーブルから聞こえる歓談の声も、何なら窓の外の歩行者や乗用車のライトでさえ、全てのものが彼等を祝福しているかのように榊は感じていた。
その夜、人生最大の幸福感に包まれながら彼等は二人きりの時間を過したのだった。
二人が幸福な夜を過した日の翌日の午後早い時間。
国立科学研究所の検査装置のスタッフは、苛々しながらこの時間の利用者を待っていた。その利用者は予約時間を三十分過ぎているにも拘わらず、連絡一つ無かったからだ。利用申請時間は二時間。使用前の調整、使用後の点検等を含めると、検査に使える時間は殆んど無い。
スタッフは、申請者の情報をもう一度確認した。
申請目的:黒曜石状物質の組成検査
申請者名:榊哲朗
連絡先 :内線XX-YYYY
所属長 :橋本圭司
連絡先 :内線XX-ZZZZ
スタッフは所内専用通話カードを取り出した。番号を打ち込み、相手が出るのを待つ。コール音だけが聞こえる通話カードは、スタッフの苛々を更に亢進させた。二十コール目でとうとう我慢の切れたスタッフは、乱暴に通話を切り、榊という研究所員の上長の番号を打った。
「橋本さんですか。そちらの榊哲朗さんが利用申請した検査装置のスタッフですが、申請時間を三十分過ぎても榊さんがいらっしゃいません。調整・点検時間を考えれば今日の検査はもう無理ですのでキャンセル扱いで構いませんよね! 榊さんには今後この様な事が無いようにキツく言い聞かせて下さい!」
スタッフは一気に苛々を解放する。言いたい事を言い終えたスタッフが耳にした言葉は意外なものだった。
『すまん。利用申請はキャンセルで頼む。榊君の行方は現在不明だ。午前の会議も無断で欠席した。彼の住所にも人をやったのだが、誰も居なかったのだ。こちらも取り込んでいるのでこれで通話を切らせてもらう』
プツっという音を最後に無音になった通話カードを見詰めたスタッフは、行方不明ってどういう事よ、と呟いたのだった。
同じ頃、神崎茜の勤めるメーカーでも、彼女の無断欠勤の話題が拡がっていた。彼女の几帳面な性格は、社内では好意を以って迎えられていた。報連相を欠かさず、自分が居ない時の引き継ぎは完璧で、担当作業は誰が見ても分かる手順書を用意・改訂している彼女は、コミュニケーション能力も高く、同僚・部下・上司問わず信頼されていたのだ。そんな彼女が無断欠勤など前代未聞の事だった。
朝から顔を見せない彼女の担当部長は、最初は一寸困った、といった体だった。昨日の退社時、珍しく浮かれた様子の彼女を見ていた部長は、これから恋人にでも会いにいくのかと、微笑ましく思っていたのだ。だとしたら、ちょっとした遅刻くらいは大目に見ようなどと考えていたのだが……
流石に昼近くなっても一向に連絡の無い彼女に対し、厳重注意を考えた部長は、部下に彼女へと連絡させた。それが不首尾に終ると、彼女の住所へと人を遣り、彼女の連絡先全てから不在を告げられるに至った処で、顔面蒼白になるのだった。
部長は警察へと捜索依頼を出した。勿論、事情の全てを会社のトップへ報告し、了承を得た上での事だった。
警察の動きは素早かった。依頼を受けたその日の内に、昨夜の彼女の足どりは掴めた。彼女はホテルの一階にある、密かに人気のレストランで男性と食事を摂り、その後二人でホテルの一室を借りた事までは分かった。男性の勤め先である研究所からの捜索依頼があった事も追い風となった。だが、そこから二人の行方は杳として掴めなかった。
ホテルのフロントの証言によれば、宿泊料は前金で全額支払われており、朝方には部屋の鍵は返却されていたという。ではそれが最後の目撃情報かというと、そうでも無かった。鍵の返却は男性が行なったが、その人着は失踪した男性のものと一致しなかったのだ。交代したばかりのフロントマンは、女性客は既にホテルの外に出ていたのだろうと、何の疑問もなく鍵を受け取ったのだという。
このホテルを最後に二人の足どりは消える。周囲の監視カメラにも何の痕跡も残さず、聞き込みも空振りに終った。広域捜査へと切り替えるが、目撃情報は一件も上がらなかったのだった。
国立科学研究所の榊と同じ班のある研究員は、榊の残した資料を整理していた。警察が何度か調べたその資料の中に、山賀から送られた黒曜石とそのレポートは無かった。榊へ山賀からそれが届けられたという証跡さえ無かったため、それが無いという事に気付いた者は誰も居なかった。
二人が失踪してから、長い年月が過ぎた頃。
N県奥深くのO山山中で、二人の老いた、夫婦と思われる男女が発見される。二人を見付けた登山者は、直ぐさま地元警察と救急に連絡を入れた。近くの病院へ搬送された二人は、手当の甲斐あってか、やがて意識を取り戻す。だが、二人とも記憶を失っており、身許を証明する物も失く、警察の事情聴取でも捜索願のデータベースからも有益な情報は何も得られなかった。
二人は家裁の判断により国籍を取得したが、その暮しは倹しいものだった。発見された山の名を姓とし、太郎と花子と名乗った二人の老夫婦は、しかしO山麓の村の暖い人びとによって、空家となっていた民家を間借りでき、平穏な生活を営んでいた。
太郎は物の性質に詳しく、特に作物の土壌に関する彼の言は村の人びとにとってとても有益なものだった。
花子は機器に関する知識が豊富で、農機具の修理・調整まで行えるその技倆に村の人びとは感謝した。
だからといって驕る事のない二人の生活は、村に上手く溶け込み、農作物のお裾分けもあって倹しくはあっても貧しいものでは無かった。
そんな生活も五年が過ぎる頃……
縁側に二人の老夫婦が、並んで座っていた。日向ぼっこを楽しんでいる二人を穏かな風が流れている。
「暖かくなりましたねぇ」
花子は太郎に語りかけた。うたた寝しているのか太郎は、首を揺らしている。その揺れが止り、花子の肩に太郎の頭が預けられたままになった。花子は肩に触れる太郎の頭から体温が失われていくのを感じていた。
「お疲れ様でした、テツロウさん」
そう言う花子の目も次第に閉じられていく。花子の頭が太郎の頭に重ねられる。
「アカネは幸せ者でした……」
その最後の呟きを聞く者は、二人の間を流れる穏やかな風だけだった。




