■9 だから、ぼくが呼ぶ(弟視点 2/2)
数日後、ようやく目を覚ました彼女は高熱のせいか記憶がひどくあやふやになっていた。
ぼくをみて驚いてから、何で驚いたのかもわからない、とまた驚いて。語れるほど彼女のことを知らなかったから、ぼくは、ただ彼女にずっと伝えたかった言葉を正直にぶつけた。
「ぼくは、あなたに、姉さんに、たすけてもらったんだ。ほんとうに、ありがとう」
出会ったばかりの自分を守って怪我をしたこと、そのせいで熱を出したこと。それを伝えても、彼女は今度は驚かなかった。なるほど、なんて納得までして笑ったのだ。
「まもりたかったのね、わたしの、いもうと」
まだ残る熱に浮かされたまま、くふ、と嬉しそうにこもる声がくすぐったくて、ぼく、弟だよ、と訂正するだけで精一杯だった。
そうしてぼくは弟で、彼女は姉になった。彼女の記憶が曖昧であっても、ぼくには出来ることがなかった。
――忘れる、というのは、ぼくにとっての苦手分野だった。記憶は重なるばかり、知恵は積もるばかり。それがぼくにとっての当たり前で、過去は現在と大差なく隣に在るものだ。その順番や構造に惑わないよう、数えて束ねること、それがぼくにとっての記憶だった。
姉さんには教養と呼ぶべき知識は無いけれど、頭は良い様だった。だから、それなりに上手に生きていけた。時折不安げに揺れても、ぼくという弟を守るためにと立ち上がれる人だった。身体を張って、幾度となくぼくを守ってくれた。ぼくを守ることに精一杯で、失った過去にも不確かな未来にも興味を向けずに済んでいたのかもしれない。普通の人が躊躇う様な局面でも、危ういほどに身を投げてぼくを庇護するのだ。そこにある根底がなんだったにしろ、ぼくも、この人を守りたいと思うのは自然なことだったと思う。
一緒に過ごして、いくつか解ることもあった。姉さんにも多分、少し前まで家族が居たのだと思う。丈夫で妙に肝の据わった少女だけれど、長く孤児として裏路地に住み着いていたにしては綺麗すぎた。身も心も殆ど荒んでおらず、ぼくみたいな他人を全力で助けて身を投げ出した事からも明らかだった。その善性は、食い散らかされる前の物だった。
だけど、曖昧になってしまった記憶に姉さんは縋らない。居るかもしれない家族を恋しがらず、隣にいるぼくだけを見て、生きることに必死になった。
ぼくも、父さんの死を確認するのがいやだった。正しさや復讐を思うより、ただ、怖かった。逃げろ、と言う耳の奥に残る声に甘えるように、姉さんの弟として居心地の良い穴蔵に住み着いた。
本当は、姉さんの家族や記憶の手がかりを探すことも出来た。でも、あのとき咄嗟に「病気の家族」「感染するから近寄るなと言われた」なんて話が出るぐらいで、事実として粗末で裕福とはとても言えない格好で一人路地裏で暮らしていた姉さんがろくな環境で育ってないのは想像に難くない。
ぼくを生かすために無茶をしては死にかける姉さんを治療することで、治癒魔法の腕は必然に上がった。ぼくは医者では無かったけれど、以前に薬師の父が知識を交換する中で貴重な本や資料を見せて貰えたおかげで人体の知識だけはあった。だからといって実際に触れるのは初めてで、全部が全部は上手く行かなかった。きっと痛い思いも沢山させたし、姉さんの身体は不自由なことだって多かったと思う。
だけど姉さんは笑って、ぼくが生きていることを喜んで、ともに生きてくれた。ぼくは、姉さんのことが、当たり前に愛しくなっていた。
それなりに貴重品である綺麗な本を拾ったのは、偶然だった。多分、落とされてからそう時間が経っていなかったのだろう。
わたしたちも文字が読めたら仕事が貰えてもっとごはんが食べられるかも、と姉さんは浮かれていた。ぼくは文字が読めるので教えることは出来たのだけど、姉さんは「弟」であるぼくは当然読めないものだと思っていたみたいだった。だから、ぼくも余計なことは言わないことにしたのだ。
意気揚々と開いた本は、この国でなく隣国の本だった。――母さんの、故郷の文字だった。
魔法と冒険の物語が、そこには綴られていた。手書きで、誰かが描き掛けた未完の本。当然姉さんはちっとも読めなくて、首を傾げながらも必死に文字の形を指で空になぞり続けた。
「これ、なんかいもでてくるね」
と、文字の並びを図柄のように捉えているのが酷く新鮮だった。全く効率的ではない、勉強方法だった。
「んふふ、きっと、好きなことばなんだよ」
――それが、否定を意味する単語であることはもちろん指摘せず、きっとそうだね、とぼくも姉さんに笑ったのだった。
こっそりひとつずつ、こう読むらしいよ、と音を共有していく。その中で、姉さんは気に入った音を名前にしようと提案してくれた。
たくさん出てくる単語、柔らかい音、親しみのあることば。ぼくはノノで、姉さんはディ。立派とは言えないけれど、大事な名前だった。
……本当は大事な人へ向ける、ディア、という音をつけたかったのに。自分の名前に興奮してせっかちに先走った姉さんが、ディ、かわいいおとだね、ディ、と大喜びで受け取ってしまったのだ。ぼくは、結局それを訂正することが出来なかった。
それから暫くして、本の持ち主が見つかってしまった。ぼくたちの生活圏に在る娼館の、とある娼婦の落とし物だった。
殆ど読めず意味も解らないのに大事にしている姉さんを見て、その娼婦は困ったように笑った。最後まで描けていないから返してほしいけれど、描いた物を大事にして貰えるのは嬉しかったらしい。
読んでほしい、そのために文字を学んでほしい。そんなことが切っ掛けで、ぼくらは娼館の下働きを紹介された。
ぼくの見目が母さんに似て整っていたこと、それから――たぶん、姉さんが妙に娼婦の幾人かに気に入られたこと。そこにあるかもしれない由縁は定かでは無いけれど、運良くぼくらは屋根と仕事を手に入れた。
便利がすぎる治癒魔法を酷使されないようにと、娼婦たちが忠告さえしてくれた。身なりを整えれば愛らしい顔をしていた姉さんが売りに出されないよう、雑用に止めて守ってくれた。明け透けで品が無くて金と男に文句を言いながら、どうしてだか、彼女らはぼくと姉さんを守ってくれた。だから、ぼくは、世界が案外優しくて暖かいのだと、勘違いしてしまったのだ。庇護してくれる大人の存在を、信じてしまった。
夢のよう、というほどには世知辛いけれど。それなりに、楽しくて、幸せな日々だったのだ。
だけど、そこにも居られなくなった。ぼくらは二人で居るために、隣国を目指した。
――隣国へ行ければ、最悪、ぼくの母さんの実家に助けを求められるかもしれない。父さんの話だって、ようやくできるかもしれない。それになにより、少なくとも全く伝手のない場所にいるよりは、姉さんを助けられる可能性がある。ぼくの行き当たりばったりな治癒魔法であちらこちらがめちゃくちゃな、取り柄だった丈夫さがどんどん無くなっていった姉さんが、一緒に長生き出来る方法が見つかるかもしれない。落ち着いた場所で、危険に追われない生活で、もっと魔法の勉強をして。そんな夢を見て、怪しいかもしれないと疑いつつも船に乗ってしまった。甘えて、勘違いをして、過信した。そうして、最悪なことになった。姉さんが、殺された。
姉さんを殺したあの男が吐いた言葉、向けた視線、そもそもぼくらを乗せた理由。考えれば結びつけられそうな断片は揃っていた気がするけれど、どうだって良かった。姉さんが死んだのだ。弱っていた姉さんは、いつのまにか、もう、丈夫で無茶が出来る身体じゃ無かったのだ。
必死で巡らせた治癒魔法も、積み重ねた記憶も何の意味もない。姉さんが死んでしまえば、ぼくにはもう何も残っていなかった。
治癒魔法を続ければ生き返る、なんて信じられるほどぼくはもう子供じゃなかった。だけど、怖かった。いやだった。ぼくの色褪せなくて忘却できない記憶は鮮明なまま、一緒に生きてきた姉さんはいまも現在と遜色なくそこに在る。意識が途切れる度に、解らなくなる。過去にならない。痛みが消えない。受け入れられない。
――姉さんの死体が、記憶から変質していくのが、それを記憶してしまうのが、嫌だった。耐えられない、と思った。ぼくは、姉さんが腐って壊れて死んでいくことに、耐えられない。なのに、手放せない。目をそらせない。
おかしくなっている、という自覚もあった。でも、止めてしまったら、もっとおかしくなるのも解りきっていた。だから、ぼくは、姉さんの形を変えたくなくて、これでぼくも死んでもいいや、と思いながら魔法を使い続けた。
普通に治癒の魔法を使うだけでは、殆ど意味がなかった。だからぼくは、早々に手段を変えた。
昔、聞いたことがあった。母さんの遺体は、隣国の実家まで運ばれて丁重に弔われたのだ、と。家族に愛されていて、なるべく美しいままに運ぶためにと何人も魔法使いが来たらしい。そんな魔法もあるんだ、と驚いて、調べて、見つけたことがある。ぼくは、記憶している。
――姉さんの身体のことは、誰より知っている。内臓の形や性能も、血流の速度も温度も、鼓動のリズムも。だから、まずは全てを魔力で代替して動かした。死体に血を通わせて、新陳代謝を促して、脳の信号さえも働かせた。気が狂いそうな行程の多さで、ぼくはあっという間に意識を失った。
だから、次からは少しずつ魔法を変化させた。可能な部位を、自分の肉体と連動するように紐付ける。ぼくの鼓動と同じリズムで、姉さんの鼓動が鳴るように魔力を繋げた。繊細で重要な臓器をひとつずつ、少しずつ、連動させていく。もちろん違う肉体だから、そっくりそのまま一緒になんて出来ないから一部はぼくの身体の方をいじくった。ぼくを、姉さんと同じかたちにする。そうしないと、全てを手動で制御し続けるのは不可能だった。
生きているときの姉さんを、再現する。――やろうと思えば、脳の制御をそうと定めれば、姉さんの肉体を動かすことだって出来るだろう。立ち上がって、歩いて、瞬いて、笑顔みたいな顔を再現させられる。きっと、ぼくは出来る。出来てしまう。だけど、それは、姉さんじゃない。姉さんの体なのに、別物になる。だけど、動かないのと比べたら、もしかしてそっちの方が。
――それ以上考えるのが嫌になって、実行してしまうのが恐ろしくて、ぼくはただただ、姉さんの遺体を必要以上に都合良く動かさないよう、ただ抱きしめて縋り続けた。働き続けるぼくの脳こそが、もう、可笑しくなっているのかもしれなかった。
それから、ぼくは、ぼくだけが救われた。
明るい清潔な部屋で、知らない男に姉さんの手を離せと言われて、安堵と後悔と拒絶で気が狂いそうだった。八つ当たって気を失って、そのまま気が狂ったのだと思った。――意識を失ってなお、使い続けた魔法に何かが干渉したのだ。
ぼくの頬に、ちがう、ぼくが繋がった姉さんの頬に、なにかが触れた。温度はなくて、それどころか感触もない。――でも魔力に触れたのだ。ただの空気のように、だけど覚えのある、大きさと、力だった。それが、ぐ、と力を増して食い込んだ。魔力に触れて沈むその大きさと間隔と形は、全て、ぜんぶ、――姉さんの指と、同じだった。間違えようがない。間違いない。絶対、そうだ。
反射的に、それに、触れたものに魔力を辿らせて引き寄せようとしていた。手応えはなくて、ただの空気の流れのような虚無でしかない。でも、触れた箇所から、そっくりそのまま、ぼくの記憶の中にいる姉さんと同じ形で魔力を巡らせた。角度、長さ、かたち、細さ、ぜんぶ、記憶している。
「ディ」
そこにいる、気がした。ううん、そこに居た。だから、ぼくは、ぼくが、姉さんを呼んだ。いつ気絶していつ目覚めたのかも解らない。夢と現もどうでもいい。曖昧な境で、ただそこに気の迷いにも似た微かな姉さんの気配に、確信を持って呼びかけていた。
そうしたら、そうしたら、姉さんが、ぼくを、見た。――つかまえた。つかまった。
「ノノ」
海の底のような、青い目がぼくを見た。目が、視線が、交わった。
理解をする前に、把握が追いつく前に、ぼくは身を乗り出して手を伸ばした。初めて死体から手を伸ばして触れようとしたその姿は、ぼくに触れることなく揺らめいてしまって、ぼくはそのままがたんごろんと床に落ちて転がった。
転がったまま見上げたら、ぷかぷか浮いて透き通った姉さんが、呆然とぼくを見下ろしていた。――ああ、ああ、やっと。やっとぼくは、狂えたのかも、しれなかった。