■8 あなたが呼んだ(弟視点 1/2)
二話分、弟視点での描写になります。
二千三百二十七日間。六年と、約半分ぐらい。それが、ぼくが姉さんと共に生きた時間だった。
姉さんと出会ったのは、六歳のころ。それ以前のぼくには違う名前があって、尊敬すべき父親がいた。物心付いた頃には母は既に居なかった。美しく儚い人で、体が弱かったのだという。
ぼくを産んだことに、身体が耐えられなかったらしい。可哀想にねえ、確か駆け落ちして来たんでしょ、男手一人で大変ねえ、なんて囁く村人の声に顔を上げれば、いつも好奇の目から父が守るように抱き上げてくれた。おまえを愛しているよと、憂う前に伝えてくれる人だった。
あるとき、そろそろ旅に出ようか、と大きな手が背中を撫でてくれたのを覚えている。薬師だった父はいつも独特な植物のにおいがしたから、撫でようと腕を持ち上げるだけでもすぐわかる。
病を抱えていた、いつも薬が必要だった村の子供もすっかり元気になった。だから、そろそろ旅に出ようか。父さんは元々、旅の薬売りだったんだよ。久しぶりに新しい薬や植物も探したい。見つけるのを手伝ってくれるかい、と、ぼくとは違う目の色で笑った。ぼくは母親にそっくりらしくて、父とはぜんぜん似ていなかった。
まだ一人では長く歩けないぐらい、幼くて小さなぼくを連れて旅に出るなんて無謀な話だった。村から薬師が居なくなると困ると人々は止めたけれど、父さんは案外頑固で優しくなかった。この村に母の墓もなかったので、心残りはぼくにも無かった。母さんの遺体は隣国の実家に引き取られたらしくて、ぼくはこっそりとその家の名を継いでいた。立派なおうちの、豪華な名前だった。
父さんとの二人旅は、三年と少し続いた。他の薬師や医師、商人なんかと知識を交換し、経験者の足りてない辺境ではいくらか過ごして惜しげなく後継を育てた。父さんは歴史に残る天才ではきっと無かったけれど、それでも人々を救う知恵のある人だった。
だけれど、それを――知識の漏洩を、快く思わない人も居た。利益を第一に置く人も居た。謀る人も居た。そして、ぼくは、父さんの弱点だった。
ぼくは賢い子供だった。記憶することが得意で、切り取ったように鮮明な過去はいつまでも褪せずに積み重なっていくような、そんな頭をしていた。文字を一度で覚え、目を通した本をそらんじるぼくを父さんは驚きながらも目立たないようにと守ってくれた。だから、旅を続けた。ぼくは、どうしようもなく、父さんの弱点だった。
ある時、ぼくの「正しい言葉」を「愚弄だ」と怒るひとがいた。罰する理由を探していたみたいに、父さんに嘘を塗って貶めた。ぼくは父さんに幾ばくかの荷を託され逃がされて、たった一人になった。後ろで、ぼくが逃げ出した場所で父さんは殺された。それが、六歳の時。
必死で駆けて逃げ込んだのは歩いたことがある街だったから、その時の路地や警邏の人が居る場所は覚えていた。だけれど、その人たちがぼくを信じて守ってくれるか解らない。捕まって、引き渡されたら、父さんが守ってくれた意味がなくなる。だから、せめて、少しでも信頼できる人を見つけなくてはいけない。
だから、一度身を潜めよう、とそれらから逃げ込んだ路地の片隅で――ぼくは、姉さんに会った。
粗末な服を着た、薄汚れて痩せた子供だった。同い年ぐらいだろうけれど、痩せすぎて性別も解らない。くるくる癖っ毛の長い金髪に、葉っぱや汚れなんかのゴミが絡まって脂っぽく固まっているのがひどく目立っていた。
その時のぼくは、その子にしてみれば身綺麗で恵まれた存在に見えただろう。――身ぐるみを剥がされるか、追っ手に突き出されるに違いない、と当然に思った。父さんに貰ったナイフを握りしめて、怯えて身構えるぼくは恐ろしい外敵に見えたと思う。だけど、騒々しさの理由を満足に知らないだろう哀れな浮浪児は、小さく首を傾げて聞いたのだ。
「逃げてるの?」
息を切らせたぼくがなんとか頷くと、そうなんだ、と頷いたその子は立ち上がってぼくの手を引いた。ナイフを持っているのに、危ない、と慌てる間にぼろぼろの汚い布を頭から被されて、路地に座らせられた。酷いにおいのする場所だった。
「そのままじゃ、目立つから。くつ、ぬいで、こうやって、からだも汚して」
妙な子供だった。だけどすぐに逃げ出さなかったのは、その子がいつでも突き飛ばせそうなぐらい細くて、走って逃げてきたぼくも疲れ果てていたからだったと思う。少しでも休める時間が、確かに必要だった。
その子はあっという間にぼくの靴や綺麗な服を隠して、座ってても見える部分に手早く汚れを擦り付けていった。
「かお、あたま、きれいだから、ちゃんとかくしてね」
それから、とその子は、殆ど力が入ってなかったぼくの手からナイフを抜き取った。一瞬、しまった、と焦って手を伸ばした。だけれど刃の向きは思っていた方向と真逆で、その子自身に向いていた。
「なに、を」
どう見ても不慣れな手つきで、その子は、躊躇いなく自分の髪を切り落とした。細い首が見えるくらいに、短くなってしまった。
口を開けて呆然とするぼくに、よごしちゃってごめんね、とひどく今更なことを言って彼女はナイフを返した。
――遠くに居た騒々しさは、随分近付いてきていた。彼女は腰を浮かせたぼくを押し込んで座らせて、被った布を引っ張って目深におろした。それから、切った髪の半分ぐらいをそこからこぼれるように押し込んだ。じょうずにおさえてね、と囁いた声に、ぼくを隠すための偽装なのだと今更に気が付いた。そのためだけに、躊躇い無く髪を切り落とした?
「なんで――」
「しーっ」
あふれかけた言葉を押さえ込んで、彼女は立ち上がった。長い髪の半量と、路地の隅に寄せられていた瓦礫から尖った何か、多分割れた陶器の欠片を握ったところで、いよいよ重い複数の足音が路地に差し掛かった。
反射的に身を小さくして、そのまま俯いたぼくにはその光景は殆ど見えなかった。だけど、声だけは、はっきりと聞こえていた。まず聞こえたのは、大人の男の声だった。
「おい――ち、浮浪児か。おい、おまえと同い年ぐらいのガキを見てないか。手伝えば褒美をやるぞ」
「ごほ、ごほっ。みてない。ごほうび、くれるの?」
「捕まえればだ。……なんだ、その汚ぇ髪」
「買って。髪、買って。いもうとが、病気なの、おくすり買うの」
「は?」
「買って、買って! げほ、おてつだいもするから、ごほうび、くすり、買って!」
「あー、もういい。邪魔だ」
「いもうと、しんじゃう。さっきの人も、うつるから近付くな、って――ごほっ、ごほっ」
「! くそが、離れろ!」
ごっ、と鈍い音がした。何かがぶつかって、転がる音。あの子がひどい目にあっている、と身体が跳ねて、だけど立ち上がったら全部台無しだと身が竦んだ。だから、なのか、混乱してたのか、わからない。でもぼくは、反射的に、汚い布にくるまったまま震えたみっともない口を開いていた。
「――ねえ、さん!」
舌打ちと、怒声。重い複数の足音は、足早に遠くなる。臆病にも怯えたぼくがどうにか地面に転がったその小さな子供にたどり着く頃には、もう声も届かない場所まで行っていた。彼女はおなかを抱えてうずくまっていて、腹部はくっきり泥で汚れていた。蹴り飛ばしたのだ、こんな折れそうな子供を! 背中がどっと冷たくなった。
「ごめ、どこか、やすめるばしょ、いかないと」
「だい、じょ、ぶ。わたし、がんじょう、だから」
「なんで、なんで、こんな」
汗を滲ませながら、その子は無理に笑った。それから、いまおもいついた、という顔で、少しいたずらっぽくもう少し笑みを深める。
「だって、あなたの、おねえちゃん、だから」
それは、ぼくを守るための嘘で、ぼくのための笑みだった。こんなに苦しそうなのに、他人のぼくを、何にも知らないぼくを、危険を犯して守ってくれたのだ。それが、あんまりにも。だから、ぼくは。――ぼくは、だから。
足取りもおぼつかない彼女に案内されたのは、廃材の隙間でかろうじて雨風を凌げるだけの場所だった。荷物なんて殆どなくて、多分捨てられたり落とし物なんだろうな、という布や腐りかけた食べ物がほんの少し。呆然としてから、そんな場合じゃないと寝床に彼女を優しく転がした。寝床と言っても、直の地面よりマシだと言う程度の木の板に布が張り付いただけの場所だ。多分、棚か机の廃材だろう。
魔法を練習していて良かった、学ぶのが好きで良かった、――化け物じみてでも頭が良くて良かった、と心底思った。不純物を除き老廃物を洗浄する魔法は、旅に便利だと父さんに最初に教わった。母さんも、魔法が得意だったらしい。
身体が清潔になって気が抜けたのか、彼女は魔法に驚く前に気を失った。小さな額に滲んだ汗を拭って、そっと体に触れる。熱を持った身体にいやな想像ばかりが膨らむが、そのまま触診すれば内臓や骨に目立った損傷は見当たらなかった。だけれど、身体にこれまでの生活からだろう細かな怪我や痕跡はあったし、あのときナイフ代わりにカモフラージュとして陶器の破片を握った手のひらは切れていた。
魔法を用いてなるべく清潔な状態にして、ぼくの服を裂いて包帯に使う。父さんに持たされていた荷物から、痛み止めの薬を飲ませるのに四苦八苦。なんとか出来る限りを済ませて、ぼくに被せてくれていた布も綺麗にして彼女に被せてようやく一息ついたのだった。