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■7 やくそくをするまえに



「ごめんなさい」


 と、謝罪をしたのはわたしだった。おにいさんは緩く首を振って、眠るノノを見た。


「別に」


 短い返事には、愛想らしい愛想はない。だけれど、眉間の皺と引き結ばれた口元が作る表情がおにいさんの善良さを滲ませている。わたしたちの事で、憤って不満を抱えている。わたしを救えなかったことを、気に病んでいるのが明らかだった。なんてやさしい人なのだろうか。


「――わたしのことは、きにしないで、ください。ノノをたすけてくれて、ありがとう」


 出会ったばかりの見ず知らずの子供にこんなに心を砕いてくれるなんて、本当、生き難そうな人だ。わたしはその善意につけ込んで仕事を増やした、間違うことなく身勝手な悪霊である。

 へらへら笑うわたしに、おにいさんは潜めた声で呟いた。


「あんたの存在は、伝えるべきじゃないと思ってる」

「うん。――わたし、ノノの傍にいたい。だから、居るべきじゃないって、わかる」


 わたしはもう、魔物だ。人ではない、死んだものだ。薄く儚い理性は、ノノの近くで様々を願い揺れてしまえば簡単に決壊するだろう。いまはおにいさんが助けてくれる人だから、救ってくれる人だからこの人の声が届く。だけれど、それがいつまで保つかはわからない。だから、遠く離れて、祈るのを止めなくてはいけない。願うのを、終わりにしなくてはいけない。


「……おまえら、二人とも妙に賢しい気配があるなあ」

「え、ほんと? うれしいなあ」


 ノノはともかく、わたしは賢そうなんてお世辞でも言われたことがない。だから妙にくすぐったくて、声が揺れた。


「ふふ、ふふふ。へへ、おにいさん、ほんとうにほんとうに、ありがとう」


 ぷかぷか、おにいさんの傍に立つ。頭を下げて、あげて、じっと見上げる。


「約束通り、なんでもする。なんでも言って」


 結局、わたしは満足に提供できるモノがない。遺品なんて無いに等しく、大体はノノのものになるし、そもそもおにいさんにとって価値があるとは思えない物しかない。


「なんもねえ、妙なことさせて悪いもんになる方が面倒だ」


 ひそやかに、声を潜めたままおにいさんはわたしの相手をしてくれる。本当はノノが突然起きても聞かれないような場所に行くべきなのだろうけれど、保護した責務としておにいさんは暫くノノから目を離せない。少なくとも船を下りて、ノノがどこかに落ち着くまでは。爆弾みたいな死体を処分するまでは。

 間違いなく厄介事だ。お金も手間も、いっぱいかかる。申し訳ないな、とは思うのだ。思うしかできないけど。

 喋るのに、一拍、息を呑むような間が必要だった。情けないことに。


「……わたし、どこかへ消えた方がいい?」

「消えたいなら消してやる」

「ええと、えと――」


 消えたいわけじゃないけれど、消えた方がいいなら致し方ない。そう思わなくてはいけない。そんな半端な気持ちで口ごもれば、おにいさんは目を合わせないまま言葉を続けた。


「あんたが逃げたなら追うのは難しい。だから、悪さしないんなら好きにしろ。仲間に――魔物の仲間に会いたいと言うなら、何ヶ所かは紹介できる」

「できるんだ」

「そういう仕事だからな」


 遠い記憶をゆるゆると辿れば、確かに。教会という組織は魔物と深い繋がりが在って、故に成り立つ場所だったと思い出す。悲劇的で哀れなばかりの魔物は、必然、寄る辺を求めて迷うのだ。わたしが望めばきっと、穏やかな場所にだっていけるのだろう。

 だけど、だけれど。もしかすると、当然。わたしはちっとも、心が惹かれなかった。――ノノが居ない場所で、続いていける気がしなかった。

 どうしてだろう。なんでだろう。こんなに、手離せない、無二なのだろう。


「わたし」


 おにいさんから見れば、わたしの声は随分不自然な間の後だっただろう。


「わたし、は」


 ちかちか、目眩がする。血なんて通ってないくせに、なにを足りないと訴えているのだろうか。なにが乱れているというのだろうか。

 続きかけたいくつかの言葉は、全て飲み込むべき意味しか孕んで居なかった。吐いたばかりの綺麗事を蓋にして、喉の奥へと押し込み戻す。願うな、祈るな、望むな、見るな。

 なんにも言えないわたしを、おにいさんは急かさなかった。だけれど、同時に助け船も出さなかった。

 いつからだろう、喉がからからと乾いた気がした。飢えて、足りない、寂しい。逸らしていた顔を持ち上げて、ノノと、わたしを見る。ずるい、可哀想、愛おしい。満ちて、引いて、濡れたばかりの場所がひりひりと痛む。吐き気がする。恐ろしい。逃げ出したい。傍にいたい。


 ぷかぷか、地に足を付けられない幽霊は、寄り添う最悪と最愛にゆっくりと近付いていく。生きていたら背中にびっしょり汗を掻いていたに違いないぐらい、気が張りつめていた。足はちっとも動かないし、持ち上げようとした腕は軋んで重い。やっとのばした指先は凍えたように震えて、視界は今更膜を張って白くぼやけてしまう。喘ぐような声を漏らした口を閉じることさえ、ままならない。

 空気が見えない針に転じたような痛みの中、ながいながい時間をかけて、わたしは、――自分の死体に、初めて触れた。震えた指先が届いた瞬間に、ああ、と息と声が漏れた。ああ、これが、わたしの、死体。



「死んでる」



 どうして、自分の死体がこんなに怖いのか。本能で忌避するのか、その理由の一端をやっと理解した。

 理解してしまうからだ。どうしようもないのだと、これは朽ちるしかない、もう戻れない亡骸なのだと。明確になって、悲しくて、全てが恨めしくなるからだ。ずるい、と、憎々しく思うのと同時に、失ってしまった生に対するいとおしさのせいで身動きができなくなってしまう。

 指先に、知らず力が籠もった。ノノが眠ったばかりのせいか、まだ薄赤い人肌は、無機物ほどには冷えていない。――せめてノノがこの死体を手放せるまでは傍に、なんて甘えた遅延を振り払う。それが容易じゃないことだと知っているのに、あまりに卑怯すぎる。


 それに。それに、わたしはノノの傍に居られない。居てはいけない。なのに、肉体だけは、おまえだけがノノの傍にいるなんて、ずるい。は、と嘲るような声が出た。目の奥がますます熱くなった。みっともない、なんて滑稽な一人芝居。

 だけど、許せない。わたしと一緒に、死ぬべきだ。この死体は――わたしが、棄てよう。とおくとおくへ持って逃げて、目を閉じよう。それが、なんとか飲み込める折衷案だった。だって、ノノと一緒に居たい、わたしだって、もちろん。




「ディ」




 短い短い、音がした。何かの接続詞か装飾語のような、途切れた破片のように半端な響きは、細く掠れていた。

 それは、――それは、わたしの名前だった。開いた本の中、何度も出てきていた文字を拾ってささやくように呼び合った、愛おしい音。ああ、そうだ、こぼれ落ちていく中にある、わたしの名前だ。




「ノノ」




 呆然と視線を向ければ、晴れた空の色をした瞳がわたしを見ていた。――目が、視線が、交わった。

 理解をする前に、把握が追いつく前に、ノノが身を乗り出してわたしに手を伸ばす。反射的に受け止めようとしたけれど、ノノはわたしをすり抜けて、がたんごろんと床に落ちて転がった。わたしは、呆然と、それを見下ろしていた。……ええ?





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